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第一話:九号室の患者たち

九号室に入院してきた怪しい患者たちの紹介です。

 

 極楽安楽病院の第一内科病棟は旧館の一階で、階段を上がると第二内科病棟のナースステーションがあり、廊下の中央あたりに九号室がある。

 

 四と九と十三は不吉を連想するので、病院にはそのような数字の病室がないのが普通なのだが、第二内科病棟に九号室ができたのには事情がある。

 

 きっかけは六人の急患だった。

 彼らは同じ日にそれぞれの外来で診察を受け、重症患者だと診断されて入院を余儀なくされた。

 いきなり六人の患者が入院すると連絡を受けた内科の師長は慌てふためき、談話室を臨時の病室にしつらえて九号室としたのである。



<六人の急患>

ー 一人目 ー

 何も食べていないのに腹が張って苦しいので、胃薬を処方して欲しいと内科外来に現れた患者は、顔も手足も黄色だった。検査の結果、肝硬変と診断されて内科病棟に入院させられた。看護師に腹水を抜きましょうと言われていきなり横腹に太い針を突き刺された。

 胃薬をもらいに来ただけなのに、何でこんな目にあわされるのかと患者は狼狽えた。

 肝硬変とはどんな病気かと医者に問うたら肝臓が変な病気だと答える。治るのかと問うたら、治療しましょうと答えて顔をそむける。不審に思って妻の顔を見たら引きつっている。


ー 二人目 ー 

 おしっこが出ないので膀胱をしぼったら血尿が出たと、慌てて泌尿器外来を訪れた中年患者は腎不全だと診断されて内科病棟に入院となった。

 腎不全とはどんな病気だと医者に問うたら、腎臓が不全だと答える。治るのかと問うたら、不治だと答える。死ぬのかと問うたら、治療すれば助かると言われた。


ー 三人目 ー 

 肩がこるから湿布薬を処方して欲しいと整形外科を訪れた患者は、検査の結果、膵臓ガンだと診断されて内科病棟に移された。

 手術でガンを切り落とせば治るのかと医者に問うたら、外科の医者に聞けと言われて顔をそむけられた。


ー 四・五・六人目 ー 

 救急車で救急外来に運び込まれたのは、意識不明の肺炎患者と、心肺停止の自殺未遂の若者だった。そして最後に、末期胃ガンの松本まつもと清吉せいきち老人が運び込まれた。


 

 数日後、腎不全の患者は人工透析が必要だと診断されて、専門の病院を紹介されて移された。

 救急搬送された肺炎の患者は意識を取り戻し、自殺未遂の若者は心肺回復してともに退院して自宅に戻った。

 肝硬変の患者は治療の術もなく、膵臓ガンの患者は外科医に見放され、気の毒に二人とも霊安室へと送られた。

 

 思惑通りに九号室は早々に空き部屋となって再び談話室に戻せると思っていたら、胃ガンを患う松本老人が長居している間に一人、また一人と新たな患者が送られてきて、いつの間にか再び満室御礼となってしまった。

 

 だから九号室には、今でも間仕切りのカーテンが無いままなのだ。




<新たな入院患者>


鳥兜とりかぶと 善右衛門ぜんえもん

 

 息が苦しくて死にそうだから、若い娘の肺と気管支を移植して欲しいと外科外来に飛び込んできたのは鳥兜善右衛門だった。

 

 いつから喘息が始まったかと医者に問われた善右衛門は、鶯谷うぐいすだにのキャバクラに行ってからだから、キャバ嬢に結核菌を移されたに違いないと訴えた。

 マリちゃんのお尻を撫でていたら喘息の発作が出て、焼酎のロックを飲まされてから肺が痙攣けいれんを始めた。

 さらにメロンちゃんが食べさせてくれたシシャモの尻尾が気管に引っかかり、咳き込んだら呼吸が止まって死にかけた。

 

 わしゃあ遊びに行っただけなのに結核菌を移され、呼吸を止められ銭も取られた。こんな理不尽なことがあるじゃろうか。じゃからメロンちゃんの肺と気管支を移植してもらいたい。

 

 医者は何も言わずに大きく頷いて、カルテに焼酎のロックとメロン禁止と書き入れて内科病棟に入院を命じた。


 


鉄仮面てっかめん 虎蔵とらぞう

 

 鉄仮面虎蔵は、中山競馬場から救急車で病院に運び込まれた。

 はずれ馬券を食いちぎって頭に血がのぼり、胃が痙攣してパドックに倒れ込んだところを馬に踏みつけられて失神した。

 

 検査の結果、毒性で悪性で慢性の胃潰瘍だと診断されて内科病棟に放り込まれた。

 いきなり入院とは納得がいかないと言い張る鉄仮面に、胃カメラの画像を見せて医者は言った。これはハワイのキラウエア活火山の溶岩でも浅間山の土石流でもない、あんたの胃壁だと。

 

 地球を滅ぼすエイリアンのような異様さで、ピロリ菌が胃壁にまとわりついて暴れている。あやうく胃カメラの管が食いちぎられるところだったと医者は額の脂汗をハンカチでぬぐっていた。

 

 過度の暴飲暴食とストレスが原因だと思われるが、日常生活で緊張するような事でもありますかと医者が問うので、ありのままに鉄仮面は答えた。

 

 自分は市役所に勤務している誠実で真面目な公務員だけど、毎朝遅刻して出勤すれば大声で叱責される。無断欠勤すれば激怒される。上司の悪口を言えば減給されるし、揉み手に愛想笑いをすればウザいと言われて張り倒される。

 業者に賄賂を要求すれば密告されるし、不正をすれば暴かれる。結婚届を出したいという若者に間違って離婚届の書類を渡して手続きしただけなのに、大騒ぎされて殺されかけた。

 自分は市民の為に私利私欲を捨てて勤務に精励しているというのにどういうことだ。志村を死村と書き損じたくらいで文句言うなよ。千葉市を千葉死と書いて何が悪いんだ、これくらいの間違いは誰だってするぜ、と、鉄仮面のボヤキはさらに続く。

 

 通勤電車で女高生のお尻を触れば痴漢呼ばわりされるし、家に帰れば同居の母親から、早く嫁をもらってここから出て行けと口うるさい。駅前のキャバクラのツケを踏み倒したらルミちゃんにシカトされるし、サラ金の借金を返済しようと競馬をすれば騎手にも馬にも欺かれる。

 

 天気が良いので気晴らしに高速道路を走れば、逆走だと言われてお巡りさんに諫められるし、路肩で立ちしょんしてたらパトカーが来て、ここはパーキングかと思いましたと惚けてみせたら張り倒されて罰金まで取られた。

 こんな理不尽な虐待を受ければ、どんな人間だってストレスになるでしょうと相槌を求めたら、医者は顔色も変えずに言い放った。

 

 禁酒禁煙禁通勤電車禁キャバクラ禁競馬禁高速道路を徹底して、悪性慢性胃潰瘍が全快するまで入院だと言い渡された。いつまで入院ですかと医者に問うたら、風に聞けと言われた。




羅生門らしょうもん 源五郎げんごろう

 

 金塊の密輸入容疑で警察に追われ、脱税容疑で税務署にも追われて自宅から姿をくらまし病院に逃げ込んだのは、阿修羅あしゅら連合会千葉獄門組ごくもんぐみ組長の羅生門源五郎であった。

 

 親分はどこへ逃亡したかと警察に問われた代貸だいがし鬼倉おにくらは、社長はベトナムのニューヨークへ出張しましたと答え、ベトナムにニューヨークがあるのかとただされて、ハノイで入浴かもしれませんと答えた。警察は納得して引き上げた。

 

 丁度良い機会だからと人間ドックの検査を受けた羅生門親分は、脾臓腫大症というとんでもない病気が発見されて首を傾げた。

 そんな病気がどこにあるんだと医者に問うたら、あんたの身体の中にあると言われた。治るのかと問うたら、心がけ次第だと言われて、医者はテーブルの上のさじを投げていた。

 

 それならばと腹をくくった羅生門親分は、第二内科病棟九号室を別荘代わりにしてしばらく滞在する事に決めた。

 

 ヤクザ衆の頻繁な出入りを案じた病院側に、個室へ移動しないかと勧められたが、狭くて重苦しい独居房は監獄だけでたくさんだと拒否してそのまま大部屋に居座った。

 そして子分に命じて、ベッドの壁面に金文字の垂れ幕を貼らせ、神棚や脇差や歯ブラシや着替えとワルサーP38拳銃を持って来させた。



 

朝比奈あさひな まこと


 朝比奈誠は、勤務する小学校の健康診断でバリウムを飲まされた。一気に飲んで大きなゲップをしたら血反吐を吐いた。すぐに救急車を呼ばれて病院に運び込まれた。

 

 胃カメラで検査をしたら胃壁のひだは、悪性ストレスの腫瘍でカルスト台地と化していた。よくもこの状態で、精神に異常をきたすことなく生きていられるものだと医者は呆れた。

 悩んでいる事はありませんかと医者に問われて朝比奈は、眉をひそめて溜め込んでいた苦悶を吐露した。

 

 小学校の廊下でタバコを吸っている生徒がいたので、顔面を張り倒して肛門を蹴飛ばしてやりました。仕返しに、給食の味噌汁の椀に殺鼠剤を放り込まれて死にかけました。

 

 体育館の裏側でいじめをしている生徒がいたので、ネクタイで首を絞めてやりました。仕返しに、校舎の屋上に連れ出されて突き落とされて死にかけました。

 

 授業中に生徒がアクビをしたので、口をホッチキスで留めてやりました。仕返しに、満月の夜の神社の杉の木に藁人形を五寸釘で打ち付けられて、呪い殺されるところでした。

 

 校長先生に言いつけたらPTAに告げ口されて、児童虐待の罪でトイレに監禁されて臭くて死にかけました。

 教育に命を捧げて五年、生徒に見くびられ、校長に裏切られ、教育委員会に見捨てられ、僕は何を信じて生きて行けば良いのでしょうか。この世に神はいないのでしょうか。教えて下さいお医者さま。

 よよと泣き崩れる朝比奈に、医者は何も言わずに入院を命じた。カルテには突発性慢性胃炎と記された。



山内やまうち 健太郎けんたろう

 

 中学一年生の山内健太郎は野球少年だった。健康にも体力にも自信があった。

 だから、学校検尿の際には面倒だったので水道水を入れた。ついでにヨダレを垂らして鼻クソも入れてやろうとほじくっていたら、鼻血がおまけに混じってしまった。

 

 鼻血を血尿だと勘違いされてしまい、健太郎は病院に呼び出された。再び検尿をした結果、何と、多量の蛋白尿が検出された。その瞬間から少年の運命は激変したのだ。

 

 安静を命じられて、病院のベッドに寝かされたまま精密検査が始まった。血を抜かれ、画像を撮られ、背中に長い針を突き刺された結果、急性腎臓病と診断されて長期入院を命ずると宣告された。

 

 長期とはなんだ。

 半年以上も入院すれば、一年も学校を休めば、留年してもう一度中学一年生になってしまうではないか。そんなことは絶対に嫌だ。想像すらしたくない。

 

 長期とは何日ですかと医者に問うたら、今ならば完治できるから安心しろと、口を歪めて笑って答える。

 だから何日だと問うたら、安静にして治療をしなければやがて腎不全になり、人工透析になってしまうと脅された。

 だから何日だと再度問うたら、時は永遠にして未来を紡ぐ、少年よ大志を抱けよ日はまた昇ると、訳の分からないことをほざいて部屋から出て行った。


 

 そして入口左手のベッドには、末期胃ガンの松本清吉老人と付き添いの妻トメ。以上で再びの満室御礼となっていた。




<極楽安楽病院・九号室の夜は更けて>


 夕食の時間が終わって見舞客の姿が消えると、内科病棟の廊下はひっそりと静まり返る。

 消灯の時間が近付くと最後の検温のために、看護師たちの忙しげな足音が廊下に響く。

 

 早乙女さおとめ麗子れいこは二十八歳独身の看護師で、若い看護師たちを束ねて藤巻師長からの信頼も厚かった。

 個室患者の検温を終えて一号室から八号室までを回った麗子は、九号室の前に立ち止まり、一呼吸おいて扉を開いた。

 六人部屋の九号室では、松本清吉を除いた五名は頭から布団をかぶって眠った振りを装っていた。


「皆さ~ん、検温の時間ですよ」

 麗子は入口右手のベッドに近付くと、やおら布団を剥がして健太郎少年の上半身をあらわにした。


「検温だって言ってるでしょう。早く腕を出しなさい」

 麗子は子供をたしなめるように叱咤して、左手にはめた腕時計の秒針を確かめながら右手を前に差し出した。


「握手じゃないよバカ、脈を取るんだよ。手首を寄越しなさい。体温計を舐めるんじゃないよ。夕食は残さずに食べたんでしょうねえ」

 絶対安静を命じられた急性腎臓病の山内健太郎は、一か月以上も病室に閉じ込められて太陽の光を浴びずにいたせいか、日焼けの肌がすっかり褪せてしまった。

 病棟の看護師たちにも可愛がられて、というか、気安くなって、口の利き方もすっかり横柄になってしまった。


「厨房のババアに言っといてくれよ。冷や奴なんか出されたって、醤油も無いのにどうやって食うんだよ。ヒラメの煮付けだって粘土を食ってるみたいだったぞ。もっと美味いもん食わせろって」

「腎臓病食だから仕方がないでしょう、塩分抜きなんだから。隠れてカップ麺なんか食べるんじゃないよ。いいからおとなしく寝てなさい」

「添い寝してくれよ、麗子」

「呼び捨てにすんじゃないよ。枕でも抱いて寝ろ」

 

 

 麗子は隣のベッドに移動すると、頭から布団をかぶって寝息を立てている鉄仮面虎蔵に声をかけた。


「鉄仮面さん、狸寝入りしている場合じゃありませんよ。検温ですよ、検温。はい、ここに置いておきますからね」

 床頭台のスライドテーブルに体温計を置いて振り返った早乙女麗子に、窓際のベッドから声がかかった。


「おい姉さん」

「何ですか?」

「ちょいと酌をしてくれねえか」

 いつの間に起き上がったのか羅生門親分は、ベッドの上で胡坐あぐらをかいて酒を飲んでいる。

 銀糸のステテコに金糸の腹巻をして、純金製のお守りと首輪とワッパが首から下げられ互いにジャラリジャラリと不気味な音色を奏でていた。


「いい加減にして下さいよ、こんな夜中にお酒なんか飲んで。師長さんに言いつけますよ。お酒の差し入れは控えなさいって言われてるでしょう、師長さんから」

「組の若いもんが持って来るんだから仕方ねえじゃねえか。飲まずにいたんじゃあ義理が立たねえ。いいからお前もやれ」


 羅生門親分のベッドの背後の壁面には、錦織りの大垂れ幕が眼にも鮮やかな光彩を放って飾られており、阿修羅連合会千葉獄門組と金文字で織り込まれている。

 垂れ幕とベッドの間に据えられた横長のテーブルには豹のなめし皮が敷かれ、その上に神棚と脇差とマリア様と達磨と聖書と蚊取り線香が奉納されている。

 九号室のこの一角だけが怪異な気配を発散している。


「あら親分さん、今日もお見舞い客がいらしてますのね、こんな夜遅くまで」

 爬虫類なみの不気味な瞳を半眼にして、幅広ネクタイに黒いスーツをピシリと着こなし、窓際に立哨する二人のお兄さんをチラリと認めて麗子が言った。


「なあに、気にするこたあねえ。こいつらは空気みたいな存在だ。そんな事より姉さん、袖机のポットで燗をつけてるお銚子に、その体温計を突っ込んで温度を測ってくれねえかい。何と言っても酒は人肌、三十六度五分が一番だ」

 麗子は無視して背を向けた。


「ゲホ、ゲホ、ゲホホホホ」

 向かいのベッドから喘ぐような咳き込みが聞こえた。

「あら、善右衛門さん、今夜も喘息がひどそうですねえ。大丈夫ですか?」

「大丈夫ではないが、死ぬほどではない。夕食のイワシの小骨が気管に突き刺さったらしい。看護師さん、メスを貸してくれんかのう」

 喉をつまんで咳き込みながら善右衛門が右手を差し出した。


「メスなんかで引っ掻いたら喉が血だらけになってしまうでしょうよ。唾でも呑み込んでたら、そのうち取れますよ」

 苦しまぎれの善右衛門は、助けを求めて羅生門親分に声を掛ける。


「親分さん、ワシにも一杯飲ませてくれんかのう。イワシの小骨は酒で流せと、中国の古いことわざにあったような気がするでのう、ゲホゲホホ」

「おう、やってくんなよ善さん。酒ならここに売るほどあるぜ。つまみは房総名物の鯨のタレだぞ」

「ダメですよ善右衛門さん。この前も養命酒を一晩で一瓶空けて、主治医の先生にこっぴどく叱られたでしょう。お酒なんか飲んだら気管支がゆるんで、喘息がひどくなって一晩中眠れなくなりますよ」

 重症の喘息を患う善右衛門を、看護師の麗子がたしなめる。


「一杯だけなら良かろう、ゲホ」

「一杯だけでは済まないでしょうよ。絶対にダメですよ。水を飲みなさい、水を」

 麗子は恨めしそうに見詰める善右衛門に体温計を渡すと、隣のベッドに声をかけた。


「朝比奈さん、食欲が無いようだけど、どこか具合でも悪いのかしら。今日の夕食も半分残したでしょう」

「看護師さん、僕は恋の病に苦しんでいるんです。隣の部屋の優子さんは元気にしていますか?」

 弱々しい表情の朝比奈誠に、素っ気ない口調で麗子が言い放つ。


「元気な訳ないでしょうよ、病気で入院しているんだから」

「そ、そ、そうですか。そうですよね……」

「いい加減に諦めなさいよ、片思いなんだから」

「そんな悲しいことを言わないで下さい。僕の赤い糸をそんな投げやりな言葉で踏みにじらないで下さい」

「そんなことより、今日は賑やかでしたねえ、小学校の生徒さんたちがたくさん見舞いに来てくれて」

「はい、僕が担任をしているクラスの生徒たちです。引率して来てくれたのは、隣のクラスの桜子先生です。彼女の笑顔は天使のようで、僕はいつだって桜子先生のことを忘れたことはありません」

「優子さんにそう言って伝えておきますわ」

「あ、ま、待ってください看護師さん。あ、わわわ」


 朝比奈の狼狽を無視して隣のベッドを覗き込むと、胃ガンで寝たきりの老患者に付き添う老妻が頷いて、松本老人の耳元に優しくささやく。


「あなた、検温ですよ、さあ」

「ああああ、むむ、検温なんかもう無駄だ。看護師さん、ワシの寿命はいつまでなのか、教えてくれないか、本当のことを」

「何をバカな事を言っているんですか。ご気分はどうですか? 腹水を取ったから随分楽になったでしょう。そう、痛みは無いですか。それは良かった。明日は月曜日だから、部長先生の回診がありますからね」

 全員に体温計を渡し終えると、早乙女麗子は九号室を出て行った。


 

 最後の巡回をとどこおりなく終えた早乙女麗子は、九号室の入口横にあるスイッチをパチンと落として消灯を確認した。

 扉がピタリと閉じられて看護師の足音が遠ざかって消えると、室内の空気が微妙に揺れて妖気が漂う。


「行ったぞ」

 鉄仮面虎蔵が小声でささやいた。


「よし」

 羅生門親分が応じると、ちじみ織のシャツに腹巻ステテコ姿の鉄仮面は、掛け布団をパッと跳ねのけてベッドの上に胡坐を掻いた。

 鉄仮面の向かい側に羅生門が立て膝に座し、イスを持って来た善右衛門と朝比奈が左右に控える。そして羅生門親分の脇から健太郎少年が首を伸ばして覗き込む。

 

 白いシーツの上に紫色の座布団が置かれると、鉄仮面が花札を取り出して場六の手七に配り始める。すぐさま小気味の良い音がペチンペチンと弾けて、猪鹿蝶や松桐坊主の色鮮やかな絵札が跳ねる。


 しばらくは静寂のうちにゲームが進行していたが、やがて白熱して頭に血が上るにつれて荒っぽい声が飛び交い始めた。


「善さん、そりゃあないよ。いけずな真似をしちゃあ殺生だぜ。鹿を取られちまったら猪も蝶も死んじまうじゃあねえか」

 四角い顔と太い眉毛の鉄仮面が善右衛門をなじる。


「ざまあ見やがれ。お猪口が入って桜の花見で一杯だ。坊主が来りゃあ鉄砲だぜ。ゼイゼイ」

 スルメを顔にしたような喘息持ちの善右衛門が吠える。老人と呼ぶには早過ぎる年齢ながら、肉付きの薄い細身の体で喘息を患うせいか前かがみの姿勢が老けを感じさせる。


「えい、雨で雁坊主をガジってやる」

 小学校教諭の朝比奈が、しゃもじのような顔の口をとがらせて叫ぶ。


「何するんだこの野郎。坊主が腐っちまったじゃねえか」

 鉄仮面が怒鳴る。


「それどころじゃねえよ。こっちの松桐坊主が消えたじゃねえか」

 羅生門が唸る。


「いつの間にか赤短ができてしまいましたよ」

 朝比奈が呟く。


「アホウ、雨の短冊は雨に流されちまって赤短にはならねえんだよ」

 鉄仮面が怒る。


「聞いてませんよ、そんな話は」

「やかましい。ルールだから仕方ねえだろうバカ。真面目にやれ」

 朝比奈がいじけて鉄仮面が取り成す。


「親分、短冊が場に出たよ。紅葉のカスで取っちまいなよ」

 そばから覗き込んでいた健太郎少年が口を挟む。


「おう健坊、良く気が付いたな。よっしゃあ、えい、青短出来上がりだあ。グワッハッハア」

 錦織のステテコに金糸のさらしを巻いた厳つい顔の羅生門親分が、目を細めるように頬をゆるめて大声で吠えた。

 背丈は小柄だがフライ級ボクサーのように筋骨は隆々として、肩越しに彫られた昇り龍の刺青が動作のたびに舞い踊る。

 獲物を射すくめる荒鷲にように眼光鋭い羅生門親分だが、酒を飲んでいる時だけは魚屋の店頭に並べられたマグロの目のようにどんよりと澱みくすんでいる。


「おい健坊、そこの一升瓶の封を開けてコップに一杯注いでくれねえか。なあに、銘柄なんて何だって構やしねえよ」

 羅生門親分のベッドの脇に、酒屋も顔負けに並べられた四、五十本の洋酒や日本酒の中から一本の一升瓶を取り出した健太郎は、封を開けるとドンブリ茶碗にたっぷり注いで差し出した。


「はい、親分」

「おうおう、済まねえなあ健坊。いいからお前も一杯やれ」

「親分、俺にも一杯飲ませてくれよ」

 鉄仮面が催促して言った。


「おう、遠慮なくやってくれ。日本酒だってスカッチだって売るほどあるんだ。ハバナ産の最高級葉巻だって木箱詰めであるから、みんなも遠慮なくやってくんな」

 健太郎は他の三人のコップにも日本酒を注いで手渡した。


「つまみにピーナッツでもどうだい。うちの畑で採れたんだ。ゲホ、ゴホ」

 善右衛門が殻付きのピーナッツを袋ごとシーツの上に転がして言った。


「ほう、善さんの畑でねえ。うん、美味い。さすがに土壌が違うねえ。やっぱりピーナッツは千葉の畑に限るねえ」

 羅生門親分は噛み砕いたピーナッツを日本酒で一気に喉に流し込み、唸るような口調で言った。


「おい健坊、そんなにポリポリ食ってると鼻血が出るぞ。こんな所で鼻血なんか出したって下の面倒まで見てくれる女なんていやしないぞ。ヒャッヒャッヒャッ」

 鉄仮面が立て膝にコップ酒をあおりながら健太郎をからかった。


「ファッファッファッ、ハハハハ」

「グワァハッハハ、グワッハハ、ゼイゼイ」

取った、取られた、この野郎。ぺチン、ペチチン、酒だ、酒だ、焼酎だ、水割りだ、ビール割りだあ。

「ヒャッヒャッヒャッ、ヒイヒイヒイ」


 わあ、わあ、わおうと、ひそめたはずの声が叫声となり、壁を突き抜け廊下を走り、ナースステーションの内まで拡声器のように響いて伝わってきた。


「あいつら、また花札やって騒いでるね。麗子さん、ちょいと言って聞かせておやりよ」

 看護師長の藤巻竜子が、夜勤の麗子に命じて言った。


「はい、師長さん」

 パタパタパタと廊下を走る足音が九号室の前でピタリと止まり、バコンとドアが開いて仁王立ちの麗子が眼を吊り上げて一喝した。


「いい加減にしなさいよ、あんたたちは! 今、何時だと思ってるんですか」

 羅生門親分と善右衛門と朝比奈は、蜘蛛の子を散らすように自分のベッドに潜り込み、鉄仮面は掛け布団で花札を覆い隠すと背中を向けて、グウグウと鼻いびきを鳴らして狸寝入りを始めていた。


「健太郎! 何やってんのよ、あんたまで。絶対安静だって言われているでしょう、主治医の先生から。鉄仮面さんも親分さんも良く聞きなさいよ。毎晩毎晩飽きもしないで博打を打って、あんたたちのわめき声が病棟中に響き渡って、睡眠不足の苦情が出ているんだよ、こら! ここが病院だってことを肝に銘じて下さいよ、あーん。今度やったら容赦しませんよ。とっくに消灯時間を過ぎているんだから。分かったか、こら!」

 

 末期胃ガンの松本清吉老人はベッドの上で、妻トメはベッドの下で、何事もなかったかのように心地良い寝息をスースー立てていた。




<師長の怒り>

 

 ナースステーションのエアコンはカタカタと鳴り、窓外のコオロギの音色と鳴き比べを競っているようだ。


「今夜は蒸すねえ」

 ソファーに太目の体重を深く沈めて、師長の藤巻はため息をつく。


「そうですねえ。昼間は三十度を超えたっていうのに、このエアコンときたら暢気にカタカタ鳴るだけで、ちっとも根性入れて働かないんだから。冷蔵庫にシャーベットの買い置きがありますけど、持って来ましょうか師長さん」

 深夜勤務の麗子が言った。


「あんたお食べよ。あたしゃ先程スイカを食べたらお腹が妊婦みたいに膨らんでしまったよ」

 その時、深夜の廊下の静寂を裂き、ぺタリ、ペタリとスリッパの足音がナースステーションに近付いて来た。

 入口からひょいと首を覗かせたのは、九号室の健太郎だった。


「麗子……」

「呼び捨てにするなって言ってるだろ! いったい何なんだよ、こんな夜中にゴキブリみたいにのこのこ這い出して来て。ガキの起きてる時間じゃないでしょうが」

「眠れんからモルヒネ一本打ってくれよ。頼むよ、麗子」

「アホウ。自分が何を言ってるか分かってんのかい。どこで覚えた、そんな言葉を。モルヒネは睡眠薬じゃないんだよ。よそでそんなこと言ったらしょっ引かれるで、あんた。いつまでも大人と一緒になって遊んでいるから眠れなくなるんでしょうが。こら、そこの注射器にさわるんじゃないよ、消毒済みなんだから。聴診器で遊ぶな、壊れるから。薬棚のぞいたって食い物なんかありゃしないよ」

 たしなめる麗子を無視して、健太郎は薬棚を覗き込む。


「モルヒネ探してるんだよ」

「無いよバカ。いい加減に安静にして寝ていないと小児科病棟に送り込むから覚悟しなさいよ。どうします師長さん、このバカを」


「まあまあ、今夜は暑くて寝苦しいからねえ無理もないさ。そこのメロンパンでも食わせてやりなよ。腹が膨れりゃあ眠くなるさ。健坊、あいつらまだ花札やっているんじゃないだろうねえ」

 看護師長の藤巻は、テーブルの書類に視線を落としたまま団扇うちわを片手に九号室の様子を健太郎に尋ねた。


「もうやめたよ花札は。ドンブリにサイコロ転がしてサイコロ賭博を始めたよ。タバコの煙が部屋中に充満してさ、善右衛門さんが呼吸困難でひきつけ起こしてたけど、喘息の処方だからって焼酎あおってるよ」

「なんだって」

「サイコロやめてマージャンやろうって、鉄仮面さんが折り畳みのテーブルを出してたよ。徹夜になるかもしれないから出前でカツ丼でも取ろうかって……。ああそうだ、点棒が足りないから、詰所からメスを五、六本借りて来いって鉄仮面さんに頼まれてたんだ」

 藤巻師長の目尻がつり上った。がばと立ち上がった勢いに、座っていたイスが後ろに跳ね飛ばされて転がった。


「親分に三百円巻き上げられちゃったから五百円玉崩してくれよ十円玉に。頼むよ、麗子」

「あんた、詰所が何する所だか分かってんのかい。両替所じゃないんだよ、ここは。遊園地でもゲーセンでもないの。あ、師長、どこへ行くんですか」


「ここがラスベガスの鉄火場でもなければゲーセンの喫煙所でもないってことを、あいつらにきっちり示しを付けとかなきゃならないよ。病棟で好き勝手な真似はさせないよ。どきな麗子」

「あ、師長。ち、注射針とメスだけは置いてって下さい師長。あ、あの、注射針とメス……」


 極楽安楽病院第二内科病棟九号室の扉がババンと開かれ、藤巻師長の怒声が雷鳴と化してとどろいた。


「何やってんだ、お前らはー! こんな真夜中に大声上げて博打を打って、そんなにやりたきゃ千葉刑務所の中庭の芝生の上でやって来い! 看守さんに審判を委ねて、ついでに賭博の罪でしょっ引かれてブタ箱に監禁されて、病気も脳味噌も直して来な! 今すぐに呼んでやろうか青色の護送のバスを。ちゃんと聞いてるのか、重症患者さんたちよ」

 

 師長の怒声が終わらぬ前にドンブリとサイコロとマージャン牌が宙に舞い、百本の注射針と消毒済みのメスが飛び交った。

 

 羅生門親分を守るべく衝立ついたてとなった黒い背広の二人は、注射針とメスでメキシコのサボテンになっていた。

 燦々と真赤な血の雨が降りそそぐうち、千葉の夜は深々と更けていきました。


 

 

 

次の話は、狂った恋文について

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