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第九話:同窓会に見た夢

 線香花火の燃え玉が赤い尾を引いてポトリと落ちると夏が終わる。やがてむなしく落葉が、奥山の斜面を紅色に覆い尽くして晩夏の陽ざしを虚しく遠ざける。 

 

 極楽安楽病院第二内科病棟の長い廊下にも、奥の端まで西の陽射しが舌先を伸ばしている。

 窓辺に頬杖をついて、夕焼け空に愁いを込めて見つめる乙女の孤影は寂し過ぎる。物思いにふけっている看護師の早乙女麗子が、ふっと溜息混じりに呟いた。


「秋なんか嫌いだわ。どんなに紅葉が美しくても、寒々しい冬への橋渡しだから嫌いだわ」

 あたかもその呟きが耳に届いたかのように、健太郎に車イスを押させて廊下を徘徊していた鉄仮面虎蔵が声をかけた。


「おい麗子、何を一人で黄昏たそがれてるんだ。ここんとこ様子がおかしいじゃねえか。何か思い悩む事でもあるんじゃないのかい?」

 健太郎が容赦のない追い打ちの言葉を浴びせる。


「失恋でもしたのか麗子」

 けれども麗子は黙ったまま、いつものように叱り飛ばす気力がない。水気が抜けて萎れてしまったシクラメンのように、覇気も精気も失せて沈み込んでいる。

 がっくりとうなだれる麗子の様子を心配して、鉄仮面が本気でしつこく食いついた。


「どうも只事じゃなさそうだなあ。おい麗子、何だか知らないが一人でふさいでいないで話してみろよ。力になってやれるかもしれないじゃないか。銭の話以外ならよう。おい麗子」

 

 苦渋の事由が重すぎて、親に相談することは出来ず、友に打ち明けることもはばかられ、一人で自問を繰り返していても答えは見つからない。それでも刻一刻と決断の日は迫る。そんな時だからこそ、二人の思いやりの言葉が有り難かった。

 

 この人たちなら害毒は無い。いや、害はあるし毒もあるけど、決して頼りにはならないと思うけど、話してみれば何かの拍子に闇から抜け出す糸口でも見つかるかもしれない。

 むしろ、尋常ではない彼等の毒気の中にこそ、奇抜な創意と発露がほとばしり、崖っぷちの打開策を見出だせるかもしれないと麗子は思った。


「おい麗子、俺の口は鉄よりもダイヤモンドよりも固い。個人情報は死を賭しても守る。だから安心して話してみろよ、なあ麗子」

 鉄仮面の言葉がたとえ嘘でも、いや、確実に信用できないが、それでも話してしまえば胸のつっかえが取れそうな気がする。そう考えて心の澱みを吐き出した。



 手を伸ばせばすでに三十路の麗子は、浜松の実家の両親から、いつになったら孫の顔を見られるのだと嘆息されていた。

 あっと言う間に歳を重ねて、行かず後家のまま一生を終えても良いのかと嫌味を言われたあげくに、良縁だからと言われてお見合いの写真が送られてきたのは半年前のことだった。

 言われるままにお見合いをした。地元の銀行に勤めているという礼儀正しい実直そうな男性で、私より先に両親のお気に召してしまったようだ。

 月に一度連休を取って浜松の実家に戻り、食事をしたり映画を観たり、嫌いでもなく好きでもなく、断る理由も無いままに逢瀬を重ねて月日が経った。

 

 会うのはいつも浜松で、彼の方から積極的に上京して来ることはなかった。それが男として当然だとでも考えているかのような頑固さではなくて、女心に機転が利かないだけだと思われた。

 たまには東京の空気を吸って、新宿や渋谷の雑踏の中でお手々をつなぎ、洒落たイタ飯のレストランに入って白ワインでも飲みながら、ペペロンチーニでも食べようかというような提案はなかった。

 

 千葉に住んでいるのなら、舞浜のディスニーランドに一緒に行って、夜のエレクトリカル・パレードの華麗な感動を余韻に残し、ディズニーシー・ホテル・ミラコスタで地中海メニューのディナーを楽しみながら至福の時を過ごしましょうか、それともバルコニー付きのスイートルームで夜明けのコーヒーを二人で飲みましょうかというような粋な提案もなかったし、病院の看護師寮まで出向いて行こうかという情熱などさらさらなかった。


 嫌いなタイプの顔ではなかった。嫌味のない明るい性格と優しさに好感が持てた。だから断る理由もなく、むしろ、断るのが勿体無くて引きずっていたのだ。それなのに、何かが足りないと感じていた。麗子の心を強く惹きつけ燃えさせる情熱的なインパクトに欠けていた。


 まあ、お見合いの結婚なんてこんなものかと、そのうち子供が出来て家事育児に精を出して、わずかながらの貯金も出来て、どこにでもあるような家庭の温もりとか、夫婦の愛とか呼ばれるぬるま湯の中にどっぷり浸かって腐ってしまうのかと、妙な具合に達観していた。

 そんな折、一通の案内状が舞い込んだ。それは卒業以来十年ぶりの高等学校同窓会の案内状だった。

 

 今更同窓会なんてと思ったが、十年ぶりのクラスの友がどんな道を歩んでいるのか、会ってみたいという好奇心もないではなかった。

 開催の日取りはお盆の八月十五日で、調度実家に帰省することに決めていたこともあり、同封のハガキに出席のチェックを記して投函した。

 

 八月生まれのせいだろうか、皮膚の毛穴が夏の暑さに合っていた。桜木が山の新緑に溶け込んで、春の装いからきっぱりと夏の薄着に替わる頃、何かが起こりそうな予感に胸がときめく。 

 今年もお盆の休暇を四日ほどもらって浜松の実家に帰省した。実家の玄関の土間には大小たくさんの靴が入り乱れて散乱していた。

 兄夫婦や妹夫婦が子供連れで帰省して、両親も相好を崩して賑やかだった。内孫や外孫たちにまとわりつかれて喜ぶ両親の姿を眺めて心が揺らいだ。


 お見合いをした彼には、帰省した事を電話で告げた。翌日、映画の鑑賞をして近くのファミレスで食事を共にするという、代わり映えのしないデートを済ませて家に帰るといつものように両親から問いただされる。

「どうなんだ、進展の程は」

 いつものように答える。

「別に……」

 



<同窓会>


 同窓会は、その翌日の午後だった。案内状には、クラス全員の参加を切に希望する、と、太文字で書かれていたが、貸し切りのカフェレストランに集まったのは三十人ほどだった。それでも十年ぶりの集いにクラスの半数以上の出席を得られたのは、幹事の努力と人格であろうと感心した。

 

 高校時代の悪癖を復活させてしまった麗子は、集合時間を少し過ぎて到着してしまって肩をすくめたが、テーブルの端に一つ残されていた空席に案内された。

 テーブル越しにふと向かいの席を見ると、何とした奇跡でしょうか、十年前に憧れて、いまだに忘れられない優等生の桜川雅彦くんが、微笑むように瞳を合わせてくれたのです。


「あのう、早乙女麗子さんだよね」

「はい」

 

 彼はしっかりとフルネームを記憶していたのです。その意外な、いや、期待していた喜びに動揺してはにかみながら、頬を赤らめてぎこちなく頷き返した。

 シャイだったあの頃の少年っぽさがすっかり消えて、みなぎる自信と覇気のこもった桜川くんの、すがすがしい華やぎが眩しかった。

 

 懐かしいとか、嬉し恥ずかしなんてレベルではない。この席に座って向かい合った瞬間から、時空の狭間がさらりと歪んで、きらめく青春の真っただ中に突っ込んでしまったのです。 

 今更同窓会なんてと、まるで出席に気が乗らなかった。その気持と裏腹に、出席のチェックを記してハガキを幹事に返送したのはなぜか。十年ぶりのクラスの友人たちに会いたかったから。そして近況を語り合い、青春時代の思い出に浸りたかった。

 嘘だ、欺瞞だ。本当は、桜川雅彦との再会を期待していたのではないか。だからって、どうにもなる訳ではないけれど、その過程を踏み越えなければ、お見合いの彼との婚姻に心のけじめがつけられなかった。

 落し物を見つけ損ねた子猫のように、燃え損ねの情熱を過去の小箱に閉じ込めてしまったみそぎの清めに出席したのではなかったか。


 静かに幕を開けた同窓会だが、酒精が増して過去への時間がさかのぼるにつれて、各々の記憶が懐かしい思い出として鮮やかに蘇り、顔だけ老けた級友たちの興奮が最高潮に盛り上がっていた。

 あっと言う間の二時間が過ぎ、幹事が閉会の辞と次回開催の呼応を求める挨拶を終えると、二次会だ、カラオケだと叫ぶ声に同調し、行こう、行こうというどよめきの座が動き始めた。

 カラオケなんてと思いながら、座に押し流されるように店を出ると、桜川が近付いて来て一緒に行こうよと誘われた。私はカラオケなんかに行くよりも、雅彦と二人で二次会を過ごしたかったが、何も言えずに頷いた。


 桜川雅彦は、自分で誘ったくせにカラオケには少しも興味はないようで、酒やつまみの追加を注文したりして皆の世話をやいていた。

 女性軍は三十路に近付くと怖い物も失う物も無くなってしまうのか、なりふり構わず歌いまくった。

 そのうち歌う曲も底を突いて呂律が正気に戻る頃、時間に押されて終焉となる。

 

 下戸な麗子がカラオケの会計を任された。全員の集金と支払いを済ませて最後に店の扉を開けると、すっかり夜のとばりに閉ざされた通りの街灯が薄ぼんやりと頼りなかった。

 すでに皆の姿は消えてしまって、楽しかったような、懐かしかったような、抜け殻のような虚無感でまた一人ぼっちになってしまったと溜息をついて扉を閉めた。扉を閉めてハッとした。

 扉の裏側に桜川がいた。誰かを待っていたのだろうか。いや、誰もいるはずがない。一瞬の逡巡と思い掛けない展開に、渦潮に呑まれたような動揺の嵐にさらされた。


「駅まで一緒に帰ろうか」

 桜川に誘われて、麗子は「うん」と頷いて微笑んだ。

 台風が近付いているせいか、薄雲に閉ざされた空に星影は無く、伊勢湾の湿気を帯びた冷気が剥き出しの肌を突き刺した。

 鳥肌が立つようにブルッと身震いをする麗子の両肩を被うように、桜川は着ていたウインドブレーカーを脱いで麗子の背中に掛けてくれた。

 その時、麗子の耳にはっきりと聞こえた。バチンと鳴って、恋の弾ける音が聞こえた。


「オレ、本当はね、出席するかどうか迷っていたんだけど、でも、来て良かったよ」

「そう……。私も迷ってたけど、来て良かった。十年ぶりだったけど、みんな変わってなかったみたい」


「うん、そうだね」

「カラオケで歌い過ぎちゃった」


「そんなことないよ」

「桜川くんは全然歌わなかったね」


「音痴だからね、恥ずかしくて」

 ああ、私は何て気の利かない、唐変木とうへんぼくなことばかり話しているのか。もっと聞きたい事があるだろう。本当に知りたい事があるだろう。どうしていつもの自分と違うのだろう。


 同窓会で過ごした時間の流れを整理して、何枚もの画像をめくるように確認してみた。刑事が証拠の事実を精査するように、自分と桜川の画像をトランプ占いのカードに見立てて比べてみた。すると、どんなに否定しても繰り返しても、醜いデビルのカードがピタリと頬に張り付いてしまうのだ。

 

 それはテーブル席でのことだった。気まぐれの冗談で言ったのか真実なのか、桜川が隣席の男性と談笑している時のことだった。   

 幼い頃に親が決めた許婚いいなずけがいるから、君たちのように自由な恋愛など出来やしないんだと桜川は言った。そ知らぬふりで聞き耳を立てていた麗子の鼓膜が、彼の言葉をきっちり捉えていたのだ。胸の鼓動が高まり心拍数が二百を超えた。


「早乙女さんは、確か看護学校に進学したんだよね」

「うん、東京の看護学校を卒業した後、千葉の市立病院を紹介されてね、おかしな患者さんたちを相手に内科病棟で勤務しているの。時々師長さんがメスと注射針を振り回して、タチの悪い患者さんの脳天を突き刺しているわ」

 

 バカバカしくも間の抜けた会話しかできない自分に、もう一人の自分が苛立ちまぎれに脳味噌を蹴飛ばして罵った。


「お前は何と寝とぼけた事を話しているんだろうね。聞きたい事があるでしょうよ。とっとと聞いちまいなよ、許婚の話は本当かって。まだ結婚はしていないのかって聞いてみろよ、うすのろ」

 それに自分が反論する。


「だって、そんなこと聞いても仕方ないでしょう。どうせ私は千葉に戻ればいつもの生活が待っている。来年の同窓会までには、私はお見合いの彼と結婚しているのだから」

 もう一人の自分が畳みかける。


「お前は目の前の情熱のない結婚に疑問を抱き始めたんじゃないのかい。お見合いの彼はお前に一言でも好きと言ったかい。君を幸せにしますくらいの道化でも演じてくれたかい。仲人を通して打診して来るような男と一緒になって、本当に幸せになれると思っているのか、ボケ」

 そんなことはないと自分が打ち消す。


「彼は真面目な人だから、私の気持をおもんばかる優しい思いやりがあるから、きっと直接言えないのだわ」

 もう一人の自分が心をえぐる。


「そうやっていつまでも己の心を誤魔化していろよ。桜川雅彦は許婚がいるとは言ったかもしれないが、結婚するとは言っていないじゃないか。なぜはっきりと確認しようとしないのだ。一時の逡巡が一生の好機を奪ってしまう。他人の世話は平気で焼くくせに、自分のために勇気を出せないのかアホウ。十や十五の小娘じゃあるまいし、無垢な顔して澄ましている時じゃあ無いだろう」

 自分が自分に開き直る。


「あんた、そうやって私の中で叫んでいるだけだから好き勝手なこと言えるけど、とても口に出来る度胸なんて無いよ私には」

 麗子の中の二人の自分が葛藤をして、投げ捨てるように私の中の私が言い放った。

「後になって、一生後悔するがいいさ」


 いつもは遠い駅までの道のりが、瞬息の間にたどり着いてしまう距離に思える。今大切な事を語らなければ、この逢瀬の時は二度と訪れない別れの涙となって消えてしまう。でも、何をどのように話せば良いのか。ただうつむいたまま、淡いレモンのときめきを刻むだけ。

 青い夜空を仰いで見ると、黄色い顔したお月様が口を尖らせてケケケッ、クククッとあざ笑っていた。


 

 千葉の看護師寮に戻ると間もなく父から手紙が届いた。仲人を通して先方から正式な結納の打診があったので、父から受諾の意向を伝えておいたが、明確な麗子の意志を確認の上で、式の段取りを進めたいという内容だった。

 ついこの間までは、お見合いの彼との結婚こそが宿命であると決めつけていた。子供が生まれ成長し、世間で言うところの幸福な生活を送るであろう自分の姿に、積極的ではなくともとまどいはなかった。だから実家に帰って父から尋ねられた際にも決して否定はしなかった。その曖昧な対応を、うぶな乙女の謙虚な恥じらいと父は理解して微笑んでいた。

 

 だけどあの日あの夜、バチンと鳴って胸に弾ける音を聞いた時から、麗子の心臓の真赤な血潮が怒涛の如くうねり始めた。

 突然現われた運命の神様が、麗子の脳味噌に指を突っ込み、それで良いのか、悔いはないのかと囁き始めた。本当の幸せって何ですか、悔いのない人生って何でしょうねと、恋の女神がささやき始めた。

 

 自分の人生は自分で決める。誰に相談しようが他人事だから、行きつくところはそういう事だ。甘い膿を言葉にして、すべてを吐き出してしまえば毒気が抜けてやけくそにだってなれる。頼りにもならない鉄仮面と健太郎だけど、麗子は話し終わってホッとした。



「そんな結婚なんてやめなよ」

 健太郎がぼそりと言った。


「簡単に言うんじゃないよ。ガキのあんたに何が分かるのさ」

 麗子が八つ当たりぎみに、向きになって言い返した。


「愛のない結婚に妥協した女が、真実の愛に巡り合った時、不毛な不倫におちいって互いの家庭を崩壊した結果、男も女も奈落の底に落ちてしまうって、この前読んだ本に書いてあったぜ」


「あんた中学生のくせにどんな本を読んでいるのよ。シェークスピアだって夏目漱石だってそんな事なんか書いてないわよ」


「おい麗子。その話、俺が一枚乗ろうじゃないか」

 顎に手を当てながら鉄仮面が言った。


「何ですか、乗るって。何をする積もりですか」


「男って奴はなあ、女と二人っきりになっちまうと妙に優しい言葉をかけたり、いたわりの仕草をする悪い癖があるものなんだ。だからな、その桜川って男が麗子の背中にウインドブレーカーを掛けてくれた事も、もしかすると他愛も無いキザなだけの行為かもしれない。だけどな麗子、運命という奴は、ちょっとした拍子に右にも左にも転がるものさ。今の気持を引きずったまま、見合いの男と三々九度の盃を、心の底から本気で酌み交わすことはできないだろうよ。運命の先が幸であろうが禍であろうが、白黒はっきり付けて赤い橋を渡るのがけじめと言うものじゃあないかい。そうだろう麗子。心配するな、俺に任せろ」

 そう言って麗子に注文を加えた。


「して、その桜川って男の住所はどこだ。知らないのか。すぐに学校に問い合わせろ。クラス会の名簿を作りたいからとか、適当に理由を付ければ卒業生なんだから教えてくれるだろうよ」



 

 日曜日の夜明け前の午前四時、寝ぼけまなこのお月様が第二内科病棟の裏口から出て行く二つの姿に眼をしばたいた。

 ステテコ腹巻に寝巻きを着流した鉄仮面と、縞々パジャマの健太郎少年が、裏通りに急停車した大型ダンプに走り寄った。


「おう客人、早く乗んなせい」

 運転席から顔中ムカデのような傷痕だらけの男が身を乗り出して、手招きをしながら大声で二人に声をかけた。


「いやあ、朝早くから済まないねえ兄さん」


「なんの客人、夜討ち朝駆けの出入り殴り込みはワシ等の常識。阿修羅連合会千葉獄門組の中でもダンプの運転にかけちゃあワシの右に出る者はおりゃしませんぜ。ポルシェよりも早く戦車よりも強い。パトカーだって機動隊だって寄せ付けやしませんぜ。必要ならば戦闘機だって荷台に積んだバズーカで……」


「あ、あの、俺ら別に戦争する訳ではないから。浜松まで九時ごろまでに着けばおんの字です、はい」


 健太郎は大型ダンプのナンバープレートにふと視線をやって目をむいた。

「千葉み7564」と表示されたナンバーは、誰が読もうと皆殺し以外に読み違える者などいやしない。

 陸運局から偶然支給されたのか、それとも脅迫したのか、かっぱらったのか知らないが、黒塗りベンツの極道ならば泣いて欲しがる理想のナンバーが、ダンプのプレートにわざわざ蛍光照明を点けてくっきりときらめいていた。しかも何と、場末の駅の歯医者のポスターに記された電話番号でもあるまいに、ナンバーの上にミナゴロシとカナが振られていたのであった。

 二人が助手席に並んで乗り込むと、ダンプはゴウオゥンと唸りを上げて表街道に走り出た。



「お早うございまーす、検温ですよ」

 看護師の大田原が九号室の扉を開けた。


「おや、健太郎がいないわね。トイレにでも行ったのかしら。あら、鉄仮面さんもいないわ。親分さん、二人ともどこへ行ったか知りませんか」


「おう姉さん、今朝はまた化粧の乗りが格別だねえ。浅草は吉原の一番泡姫よりも映えてるぜ」


「変なものと比べないで下さいよ。知りませんか、鉄仮面さんと健太郎を」


「おう、そう言えば今朝から二人とも腹具合が悪いとか言って、便秘らしいので今日一日トイレで過ごしますと言い残して、ラジオとうちわを持って移動していたようだなあ」


「おかしいわねえ。昨日はスルメ食い過ぎて下痢が止まらないから注射してくれって詰所に来たくせに。また何か企んでいるんじゃないでしょうねえ」


「夜食のカボチャの皮が消化されずに、肛門に支えて苦しんでたようだぜ。まあいいから姉さん、こっちへ来てお酌をしてくれ。さあさあ」

「何ですか、朝っぱらから。あとで血圧を測りますからね」




<浜松へ>

 

 首都高速から東名高速道路の四車線に入った大型ダンプは水を得た魚のごとく、上向きのヘッドライトで車線のど真ん中を突っ走った。

 赤いランボルギーニも黄色いフェラーリも車線の脇に弾かれて、長距離を走る寝不足の大型貨物も自衛隊の装甲戦車もダンプの行く手をさえぎることは出来なかった。

 

 牧之原サービスエリアでうどんを食ってトイレを済ませ、浜松インターチェンジで高速を降りるとダンプは真っ直ぐ市街に向かって走った。

 国道125号線から257号線に入ったあたりを脇道に入り、住宅街の住居表示を頼りに番地を探した。商店街の街灯が連なる入口近くに、桜川医院と書かれた大きな看板の掲げられた白いモルタルのビルを見付けた。


「ここだ。番地からして間違いない。桜川という野郎は医者の息子だったのか。オオッ、ビルの後ろに豪勢な邸宅があるぜ。檜作りだなこりゃあ。随分と景気良く稼いでいそうじゃないか。よし健坊、携帯で奴を呼び出せ。上手くやれよ」

 鉄仮面が健太郎に命じた。


「うん、任せといてくれよ。ピコピコピッピーポン。あ、もしもし」

「はい、桜川です」


「あ、あのう、僕、早乙女健太郎と申します。早乙女麗子の弟なんですけど、ちょっと姉のことが心配で、思い切って電話をしました」

「ああ、早乙女さんの弟さん。どうしたんだい一体。麗子さんに何かあったのかい」


「はい。先日浜松の実家に帰って以来様子が変なのです。どうやら同窓会で何かショッキングな出来事があったらしくて、夜ごとうなされながらうわ言交じりに歯ぎしりするし、夢遊病のように裸で夜の街をさまようし」

「おい、そいつはちょいと言い過ぎじゃあねえか」

 鉄仮面が健太郎の過激なせりふを牽制して囁いた。


「それで、同窓会で何があったのか知りたくて、親戚の叔父さんと一緒に浜松へ来ました」

「そう。だけど、どうして僕の電話番号を知っているの? それになぜ僕に?」


「姉が持っていた同窓会出席名簿を見たら、桜川さんの名前の上にピンクのマーカーが塗られていました。そこに電話番号が書かれていましたので」

「そうかい。今、君はどこから電話しているんだい」


「はい。桜川医院のすぐ傍の、喫茶店キリマンジャロから電話しています」

「分かった。僕もすぐにそこへ行きます」

 

 桜川雅彦は電話を切ると家を出て、開店準備を整えたばかりの喫茶店キリマンジャロまで行って扉を開いた。沸かしたてのコーヒーの香りが鼻腔をくすぐり、眠気の残る重い頭を覚醒させた。

 店内を見渡したが一組の客しか眼に入らない。どう見ても場違いとしか思えないような、異様な服装の男が三人テーブルに座っているだけで桜川は戸惑った。

 

 三人のうちの一人が桜川を認めて立ち上がり、ぴょこんとお辞儀をして挨拶をした。明らかに少年のようだが、なぜ縞々のパジャマ姿なのだろうかといぶかった。


「突然お呼び立てして済みません。僕は早乙女麗子の弟で健太郎と言います」

 几帳面な挨拶に桜川も丁寧に応じた。


「やあどうも。麗子さんに弟さんがいたとは知らなかった。それにしても少し年齢が離れているようだけど」


「はい、実は腹違いでして」

「えっ、それじゃあ麗子さんのお母さんはお亡くなりになったのかい」


「え、まあ、そういう事になりますか。何しろ僕が生まれる前の事のようでして、はい」

 三人のテーブルを挟んだ向かいの席に腰を下ろそうとした桜川は、右の男の人相を見た瞬間に、ビクリと身体を硬直させて思わず後ろに身を引いた。

 両の頬と下顎と脳天に、何針縫い合わせたのかムカデのような傷跡を散乱させて、カメレオンのような目をした男がじっと半眼で正面を見詰めていた。察した少年健太郎は、慌てて両側に座る二人の男を紹介した。


「あ、そちらはダンプカーを運転して来た叔父の会社の従業員ですから気にしないで下さい。こちらが僕の叔父です」

 紹介されて、叔父を演じる鉄仮面虎蔵が、弟役の健太郎からバトンを受けた。


「やあやあ、これは早朝から押しかけて申し訳ありませんなあ。まあコーヒーでも如何ですか。沸かしたての特上のキリマンジャロだそうで、はい」

「では、僕もキリマンジャロを頂きます」

 桜川がコーヒーをオーダーしたところで、鉄仮面がおもむろに話を切り出した。


「実はね、姪の麗子のことなのですが、彼女はもうすぐ三十路を迎えるというのにね、良縁の兆しの見えないことをえらく両親が心配しましてね、実は半年ほど前に仲人さんを立てて浜松でお見合いをさせたのですよ。いきなり結婚というのも何ですから、まあしばらくお付き合いをしてみなさいということで、月に一度は浜松に戻り、二人で仲良く映画を観たり、お茶を飲んだりして過ごしておりました」

「へえ、そうなんですか」

 桜川の表情に特段の変化は無かった。


「そしてねえ、この前のお盆の十日ほど前に仲人さんがやって来まして、そろそろ見切りを付けてはどうかと督促がありましてね、両親は大変乗り気で本人に意向を確認しましたところ、取り立てて可も無く不可も無いという按配で、不可が無ければ断る理由も無いだろうと了解し、話を進めることになりました。ところがねえ桜川さん、お盆に休暇を取ってこちらの実家に戻った際に、高校時代の同窓会に出席しましてね、それ以来麗子の様子がおかしいと、この健太郎が言うのですよ」

「はあ、どのようにおかしいのでしょうか」


「家に居ては味噌と砒素ひそとを間違える。病院の勤めでは花瓶と尿瓶しびんを取り違える。患者の点滴の針を危うく心臓に突き刺すところだったと師長さんも心配しておりました。いやそれだけではありませんぞ。狼男の遠吠えの聞こえる満月の夜になりますと、裸になって千葉の花街に飛び出して、あ、イテッ……」

 健太郎に爪楊枝で腿を突き刺されて我に返った鉄仮面は、エスカレートする気持を抑えて話を続けた。


「本来ならば結婚の儀を控えて浮き足立っても良い筈なのに、あの日以来の異常なふさぎ込みようは、あたかもノルウェーの巨匠ムンクの描いた《叫び》の如くでありまして、生涯の憂いと苦悶を一気に使い果たして廃人と化してしまうのではないかと健太郎が気を揉んで、この私に相談をして来たのです。お盆の同窓会の集まりで、きっと何かがあったのだと私は睨んでおりますよ。激辛キムチと青唐辛子を併せたような、刺激的かつ激情的な出会いがあって、紅蓮ぐれんに燃える恋慕の嵐が心を乱し、愛の見えない見合いによって、若き乙女の人生にとどめを刺されることに危惧を感じて、悶え苦しんでいるのではないかと推察しているのです」

 コーヒーを一口すすって鉄仮面は話を続ける。


「幼い頃から麗子はおくてな娘で、欲しい物があっても欲しいと言えず、文句があっても黙ってうつむいて遠慮する。その気の弱さで自分の想いを告白できずに、苦悶の日々を送っているに違いないのですよ。そこで、当日の出席者の方に尋ねてみようと考えましてね。ただね、こういう話は同性の人には聞きづらい。何せ女は嫉妬深いし好奇心も旺盛だ。妙な具合にこじれてしまっては真相が掴めないどころか、とんでもない噂をでっち上げられては迷惑千万。また幹事さんは会の進行ばかりに気を取られ、なかなかこういう所にまでは目も耳も行き届かないものです。そこでクラスでも成績優秀、生徒会長でもあらせられた桜川さんにお聞きすれば、すべてが明白になるのではないかと判断しまして、こうして病院を抜け出し、いやいや何でもありません。こうして普段着で飛び出してやって来た次第です」

「そうですか……」


「いや、それだけではない。先程、弟の健太郎が申しました通り、出席者名簿の桜川雅彦の氏名の上にハートマークが、ピンクのマーカーで記されていたのです。どうか桜川さん、何かお気付きの事でもありましたら、ぜひとも教えて頂けないでしょうか」

「うむ」

 黙って聴いていた桜川は、一声唸ったまま一文字に口を結び、黙想するかのように両の瞼を閉じて腕組みをした。

 

 ズズズズ、ズブズブブと、ダンプの兄さんが情け容赦の無い無作法な音を立てて、特上キリマンジャロを喉の奥に流し込んだ。食べ終わったいちごケーキの皿に残った生クリームを、短い舌でベロベロと舐めまわしている。そして、ズズズブズブブズズーと、ド派手な濁音を上げてキリマンジャロをすすった。

 やはりこいつは、ダンプの運転席に閉じ込めておけば良かったと鉄仮面は後悔したが、そのしびれるような濁音を合図に、桜川は瞳を大きく見開き、意を決した如くに話を始めた。


「私は、父が経営する医院の長男として生まれ、医者になる事を目指して勉学に励み、父の志を継いで家業を継承する事ばかりを幼い頃から言い聞かされて育ちました。私は大学の医学部に入学し、今、その付属病院に勤務しております。そして病院での人脈や医療経験を会得した後に、父の医院の跡を継ぐことになるでしょう。世間の皆様から考えれば、医者という職業は、ただ患者に接して病状の診断をしているだけが仕事の全てだと思われているかもしれませんが然にあらず。論文作成や研究発表、そのための臨床実験やデータの収集などで大変多忙なのです。しかも医学という閉鎖的なコミュニティーに閉じ込められて、若い女性と恋愛する機会など殆んど皆無と言っても過言ではありません。そのような環境を自らの経験で知り尽くしている父は、私の幼い内に誉れの高い良家の娘と許婚の約束を交わしておく事が、将来のすみやかな家督継承のために望ましいと考えたのです」


「なるほど」

 神妙な面持ちで鉄仮面が相槌を打つ。


「父が親しくしている薬問屋に私と二つ違いの娘がおりまして、そちらの両親も父の申し入れに、願っても無いことだと喜んで歓迎しました。そうして私たちは幼い頃から、双方の家で食事を共にしたり、親戚付き合いのようにして、定められた宿命としてお互いを見詰めて生きてきました。私たちはお互いに兄妹のような感覚で成長し、許婚の意味を知った時にも何の抵抗も無く受け入れることができました。愛だとか恋だとかは御伽噺の煩悩で、ひたすら父の定めた決め事に沿うことが自分の歩むべき人生だと確信し、露ほども疑念を抱いたことすらありませんでした。その逸脱した概念が障壁となり、女性との出会いや憧憬の情を阻害して、あらゆる情念を麻痺させていたのです。私はただの一度だけ、許婚の彼女が高等学校の制服を着た時に、少女から大人の女に変身したような眩しさを感じました。私が女というものを感じたのは、その時だけかもしれません。私はそのようにして生きてきたのです。そして、許婚の彼女が二十六歳の誕生日を迎える来月の末に、祝言を挙げる段取りになっているのです」

 鉄仮面虎蔵は、とつとつと語る桜川の言葉を張子の虎のように頷きながら黙々と噛みしめていた。そして、紅蓮の炎に包まれた麗子の赤い糸が、決して結ばれない運命であることを悟った。


「そうですか。いや良く分かりました。どうか桜川さん、その方といつまでもお幸せでありますように。さらに加えて、医院の繁栄をお祈り致します。麗子には私からきっちり申し伝えておきましょう。運命の糸にあがなうことの出来ないことを。せっかくのお休みのところを朝早くから押し掛けまして、大変ご無礼を致しました」

 ズズズズブ、グビビッビと、ダンプの男が頬のムカデ腫れを引きつらせながら、最後のキリマンジャロの一滴を喉に流し込んだ音を合図に鉄仮面と健太郎は立ち上がった。

 


 時を同じくして第二内科病棟九号室では、病棟中の患者たちが集まり何やらガヤガヤ賑わっていた。

「いいか、もう一度言うから良く聞けよ。間違えたからって、後から文句を言ったって、払い戻しは出来ねえからな。耳クソかっぽじって良く聞けよ」

 声の主は羅生門親分だった。


「お見合いの男と結婚すると思う奴は青札だ。まあ、こいつが一番確立が高そうだから配当は少ねえぞ。次に、突如として登場した白馬のナイト、桜川とかいう青年と、あら懐かしの恋慕に火が付いて、大逆転の末、劇的に結ばれるというのが情熱色の赤札だ。おい、そこの年増のお母さん、自分の頬を赤らめてどうするんだ。結ばれるのは第二内科病棟の、箱入りマドンナ看護師の早乙女麗子お嬢だぞ。残る札は黒札だ。話がこじれにこじれ、どちらの縁談もぶち壊れて、見事に恋の花散る寂しさよ。さあ、張った、張った。大穴は悲しい悲恋の黒札だよ。捨て難いのは赤札だ。さあさあさあ~」

 羅生門親分はベッドの上で青赤黒の紙札を両手に掲げて声を張り上げ、善衛門が喘息の発作も忘れて紙札と掛金のやり取りで汗だくになっていた。

 朝比奈は事の成り行きに恐れをなして、頭から布団を被って関わり合うのを避けていた。


 


<葛藤>


 桜川雅彦は家に帰って自室にこもり、はやる鼓動を抑えて冷静に考えた。早乙女麗子の叔父だという人に語った自分の言葉にそしりはないのか。

 

 同窓会の案内状を一度はゴミ箱に放り込んだ。今さら十年前の顔ぶれと再会して何の意味があるのだと軽んじた。高邁な医学の権威を志す自分の前に、もはや彼らの存在など過ぎし日の記憶の遺物に過ぎないのだ。再会の機会に接する喜びなどありはしないとあなどった。その信念に迷いも揺らぎもないはずだった。だのにどうしてゴミ箱から案内状を拾い上げたのか。

 幼い頃から先生と呼ばれて崇められていた父の背中を、自分の将来の姿に重ねて羨望していた。その父から雅彦のお嫁さんになるのだ、許婚だとさとされて、何の疑念も反駁もなしに今日まで順風満帆に過ごして来た。

 しかし、感動もなく、ときめきもなく、祝言を迎える日が近付くにつれ、かつて経験したことのない胡乱うろんな呪縛にさいなまされて、不明の愁雲が胸腔を覆い、暗雲が浮腫の脳味噌に垂れ込めた。

 

 欺瞞の心が水面に浮かび、お仕着せの鏡面に許婚が見えた。これで良いのかと、悔いる事は決して無いのかと、闇の底から咆哮が聞こえる。

 あがなうすべも相手も無いままに、悄然憮然とする焦燥感が、一縷の救いを求めるように同窓会への出席を決めたのだ。何かを期待していた訳でも願っていた訳でも無く、むしろ全てを清算するために出席したのだ。

 十年振りに見る同窓の顔ぶれは、友を懐かしむというよりも己の虚栄を他人とはかり、男たちは一律に肩を怒らせ胸を張って自分を大きく見せつけていた。女性は幸せの優劣を競い合うように、嫉妬と羨望をない交ぜにしているように思えた。社会の入口でつまづいて、その資格も希望も得られない者たちだけが出席を辞退したのだろうかとさえ勘ぐった。

 出席者があらかた揃って懐古の立ち話に花が咲き、会場内が充分に熱気を帯びた頃合に開会の時間となって、幹事の掛け声で皆は席に案内された。

 全員の着席が終わってしばし静寂の刹那、早乙女麗子が会場の扉をパタンと開けた。悪びれる風も無い満面の笑顔と遅刻の詫びの造作が愛らしく、高校時代の闊達で奔放で物怖じの無い彼女の制服姿の面影と重なった。

 諦めた希望が突然叶えられた時のように、会場に現われた彼女の姿を認めて我が心が浮き立った。

 つい先程まで、会場内に彼女の面影を探し求めていた自分の挙動を白状しなければならない。好きだったからか、とんでもない。同じクラスでありながら、彼女と言葉を交わす機会は無かった。彼女の大きな瞳が眩し過ぎて、冷涼無垢な眼の輝きが恐かったから。

 

 彼女はラグビー部のマネージャーとして、放課後になると男たちの汗臭い部室で屈強な部員の世話をしていた。

 けがれも欲得も無い、男まさりの小気味の良い魅力を振りまいて、そよ風に逆らう快活なコスモスの花に似て、白き混濁として澱む私の意識の中で舞姫のように踊っていた。

 しかし、許婚という鏡の裏側に、触れることの許されざる結界として彼女の姿を遠ざけていた。眼を合わせても無為にして語れず、己の心のつくろえぬうちに卒業式を迎えてしまった。

 

 同窓会で早乙女麗子の席が正面だったのは偶然だった。だが、会の盛り上がりに際して皆が思い思いに席を移動していく中で、二人だけが席を誰にも譲らなかったのは決して偶然ではなかったのだ。

 その時、見詰め合った彼女の瞳の中に高校時代の自分が見えた。そうだ、今こそ己の仮面を剥がそう。閉じ込めていた遠い過去の軌跡をなぞり、素直な気持で真実を見極めよう。


 


極楽安楽病院第二内科病棟の裏口に、鉄仮面と健太郎を乗せた大型ダンプが急停車した。

 待ち構えていた藤巻師長の右手には、点滴用の長針に串刺しにされた青赤黒の紙札が、風に吹かれて風車のようにクルクル舞っていた。

 藤巻は応接室に早乙女麗子を呼んで、鉄仮面と健太郎から事情を聞いた。二人の話を聞いて麗子はきっぱり心を決めた。桜川雅彦と許婚が来月の末に祝言を挙げると聞いて、全てははかなき一炊の夢だったと観念し、見合いの彼に運命を託す覚悟を決めた。

 

 報告を終えた鉄仮面と健太郎は、病院から脱走の罪で捕縛され、そのまま検査室に送られた。ベッドに寝かされ麻酔をかけられ無理矢理胃カメラを飲まされた。

「右旋回しまーす」とか「十二指腸まで一気に潜航」とか「悪性ポリープ発見および切除」とか、実習中の医学生たちに散々もてあそばれて、胃の中を引っ掻き回されたお陰で二、三日食欲を無くしてしまった。


 


<拒絶> 


 一週間後の日曜日、桜川雅彦が早乙女麗子を訪ねて極楽安楽病院にやって来た。第二内科病棟の応接室に通されてしばらくすると、藤巻と名乗る看護師長が現われた。


「私は浜松の病院で医師をしている桜川と申します。私はこちらに勤務しておられる早乙女麗子さんを訪ねて来たのですが」

 挨拶もそこそこに急き立てる態度の桜川に、憮然とした様子で藤巻が応じる。

「分かっております。事情もすべて聞いております」


「おお、それならば、早く彼女に会わせて下さい」

「ダメです」

 表情も変えずに藤巻は拒絶する。


「な、何ですって。私は彼女に会う為にわざわざ浜松からやって来たのですよ。どうしてダメなのですか。どうしてあなたにダメだと言われなければならないのですか」

 意外だと言わんばかりの桜川が気色ばむ。


「会えば情が深くなる。あの子はもう決めたんだから。黙って帰りなさい、浜松へ」

 思いがけない師長の言葉に桜川はひるんだが、引き下がるわけにはいかない決意のほどを口にした。


「私はこの一週間、真剣に熟考して、誠の心に眼が覚めたのです。許婚と縁を切って、早乙女麗子さんと一緒に生きることの決意を固めたのです」


「だから頭を冷やせと言っているんだよ。麗子はね、仲人さんを通じて気持を告げて、来月には挙式を執り行う手筈も整い、両家ともこの上なき良縁だと喜んでいるんだよ。そんな最中にあんたが飛び込んでどうするのさ。あんた勝手に麗子と一緒に生きるなんて言ってるけどね、ご両親は承知したのかね」


「いいえ、それはまだ。でもこれは私と麗子さんの問題ですから、必ず両親を説得させてみせます。そのために、麗子さんの本心を直接確認したくて浜松からやって来たのですよ。だからお願いです、麗子さんに会わせて下さい」


「あんた簡単に説得できるなんてうわごとを言ってるけどね、あんたの両親だけの問題じゃあないんだよ。許婚の両親にどうけじめを付ける積もりだね。それだけじゃない。許婚である娘さんの心に何と言って詫びを入れる積もりだね。幼少のみぎりから二十年もの長い間、あの男の嫁になるのだからと諭されて、あんたが一人前の医師になるまで婚期を延ばされ、女の一生を釘付けにされた乙女の心にどう償うのさ。挙句の果ては他の女にうつつを抜かして逃げ出そうなんて破廉恥を、どんな落とし前を付ければ筋を通せると思っているんだね。良家の娘をぼろ雑巾のように踏みにじって、それでのうのうと両親が医院を譲ってくれると能天気に考えているなんて、まるでガキの寝小便たれと同じじゃないか」

 怒りを込めて一気に師長の藤巻はまくしたてる。


「ちょいと十年ぶりの同窓会に気まぐれで出席し、懐かしい慕情が未練となって麻疹はしかのように発熱し、気安く結婚の相手を取り替えたいなんて、ふざけた根性で医者なんかやってんじゃないよ。いい加減な覚悟で麗子に会わせろなんて、寝惚けたことを言うんじゃないよ。自分を何様だと気取っているのさボンクラ頭。浜名湖の水で顔を洗って出直して来なよ。黙って帰りな、浜松へ」

 

 桜川雅彦は、麗子に会いさえすれば筋書き通りに事は進むと実に安易に考えていた。麗子の想いの程を推し量り、固い約束を交わした上で行動するのが上策と考えていた。否、万が一、麗子の心を奪えなければ元の鞘に納まれば良いと卑劣な思いを心の隙に隠していたのだ。己の覚悟の甘さを突き詰められて、逃げ場を残した男の狡猾さを恥じて身を震わせた。


「私が考え違いをしておりました。私はこれまで、医者になって父の家業を継ぐことだけを考えて生きて来ました。でも、医者になる事が、どういう事であるかを考えておりませんでした。人間が悩み苦しむこと、喜怒哀楽を引きずりながら生きる事は、医者になる事とは別の世界、次元の異なる道理があるのだと固く信じておりました。凡庸な己の生き様に目が覚めました。生きる為に何をしなければならないかを知りました。私は帰ります、浜松へ。それでは師長さん、失礼致します」

 何を悟ったのか目が覚めたのか、桜川雅彦は藤巻師長に一礼をして、悄然とした表情の中に毅然と輝く眼光をもって応接室を辞した。




<決意>


 それから一か月後の日曜日の朝、鮮やかな秋晴れの陽光を浴びた曼殊沙華が病棟の陽だまりに、血紅の色でねばつくような光輝を放っていた。

 夾竹桃も疾風迅雷の異変を予感して負けじとばかり、毒紅色の乱れ花を天に向かって燻らせていた。

 

 朝食を済ませた鉄仮面が第二内科病棟の廊下をふらつきながら、爪楊枝で鼻毛を丸めて抜いて放り投げ、大きなくしゃみをした拍子にふと中庭を見下ろすと、本館から渡り廊下を大股で歩いてやって来る桜川雅彦の姿が目に入った。

 職場の市役所では決して発揮することのない鉄仮面の危機管理能力が、異常に予期せぬ不吉な予感を発信していた。


 深夜勤務明けの申し送りをナースステーションで済ませて、帰り支度の更衣室に行きかけた藤巻師長に、日勤の看護師から来客ですよと声がかかった。

 こんな時間に誰かと問うと、浜松からやって来た桜川という医者だという。いったい何しにやって来たのか、あの日の別れ際の桜川の表情が目に浮かぶ。


 藤巻師長が応接室のドアを開けると、桜川は立ち上がって一礼をした。テーブル越しに対峙する桜川の表情にただならぬ気配を感じつつも、着席をするように促して来意を問うた。

 桜川はソファーに腰を下ろすと、起伏した感情を抑えるように大きく深呼吸をして、藤巻の眼をしっかと見すえて語り始めた。


「私はあの日以来、師長さんの言葉を繰り返し反芻しました。深い眠りの中でも夢に見ました。病院に於いては、患者を診察する聴診器から伝わる心臓の鼓動さえも、反芻の響きとなって聞こえてきました。私は幼き頃、近所の人たちから先生と呼ばれて崇められている父を尊敬しておりました。その父が敷いてくれたレールの上を、寸分踏み外すことなく生き抜く事こそ正道だと信じておりました。その父から許婚の話を聞いた時には、あたかも妹でも与えられたような嬉しさでした。そして物心が付いて妻という言葉の意味を知った時、ようやく許婚の趣旨も知りました。私はいささかの恥じらいはありましたが、少しの疑念もたじろぎもありませんでした。彼女がその事について、いつ頃気付いたのか知りませんし、考えた事すらありませんでした。父の意に従い立派な医師になる事だけが正義正道であれば、彼女の意志を鑑みる事など実に愚昧な思考に過ぎません。父の意向と医院を継承し、許婚との間に子供が出来て、裕福で幸福な生活を送る事こそ我が定められた人生であると信じて生きてきました」

 

 この男は自分に何を言いたいのかと藤巻はイラついた。そんな話ならば一か月前にも聞いたこと、要件を手短に話せよと苛立ちながらも耳を傾けた。


「私は大学の医学部に進学しました。親しい友人に一度だけ許婚の話をしました。友人は驚愕の眼で私を見詰めました。千年前か、億年前のミイラの化石でも見るような目付きで私を見ました。かくも時代を超越した、いにしえの因習の残存している事実を知って、あたかも痴呆症の患者のごとく、ただ呆然と黒目を寄せておりました。私は彼の表情を見て、初めて確信に揺らぎを感じたのです。鋭いサボテンの棘先を、脳天に深く突き刺されたように。理論派の友人は、私に人生の摂理と運命について語ってくれました。そして何かをアドバイスしてくれたような記憶があります。でも、揺らぎの核心に触れることは出来ませんでした。当然のことでしょう。二十年もの長き間、正義正道と諭され信じてきた生き様を、たかが友人の一言でくつがえされる筈がありません。蒙昧な私は友人の言葉を、下賎な輩のやっかみに過ぎないのだと片付けて、心のゴミ溜めに掃き捨てておりました。ところが、いよいよ両家の間で結納が交わされ、婚礼の日が近付くにつれて理由の分からない空虚な不安に襲われたのです。何か見失っている物があるのではないか、大きな忘れ物をしてはいないかと、悄然とした焦りがとてつもない慟哭となって、迷妄の果てに引きずられて行くのです。そんな折に同窓会の案内状が届いたのです。私にとって過去は不要なものでした。高邁な医の人脈にこそ興味を持つが、同窓会で集う者など過去の遺物に過ぎないと切り捨てておりました。ところが、うつろに苦悶する私の心の深遠の淵から、同窓会に行ってみろよと囁く声が聞こえたのです。同窓会で私の正面の席に早乙女麗子さんが座したのは偶然だったと思っていました。ところが、それは偶然ではなく宿命という必然であったことに気が付きました。先日の師長さんの言葉が私の脳蓋の中でビッグバンのように爆発し、眠りこけていた魂の炎が覚醒しました」


 先日、自分が彼に何を言ったかなんて記憶にないよと藤巻は顔をしかめたが、もしや自分にも責任が降りかかりそうな予感を抱いて、黙って桜川の話に聞き入った。


「私は同窓会で麗子さんと再会して、いきなり好意を抱いた訳ではないのです。偉大な存在だと思い込んでいた父の幻影と、許婚という誤謬の亡霊に呪縛され、玄奥の彼方に押しやられていたほのかな憧憬と慕情の念が、十年間の歳月を経てくすぶり熟成し芳香となり、運命の再会の場で蘇ったのです。そしてその思慕が私だけの不如意な未練ではない事を、先日わざわざ浜松まで来られた、麗子さんの弟さんと叔父さまの口から聞きました。私は真剣に考えました。生きることの意義と幸福であることの意味を模索しました。父は私を医師にする為に、幼い頃から徹底して勉学の努力と熱意を強いてきました。一方で、父の経営する医院の継承と良家の娘を許婚としてお膳立てしてくれました。これは父流の飴と鞭だったのでしょうか。それは真に私の為だったのでしょうか。両親の蒙昧なエゴイズムの世界に閉じ込められて、胎児のごとく無為にまどろんでいた己の間抜けな姿に気が付きました。父の保護バイオレンスから決別すべき時が来たことを悟りました。父に対する裏切りのそしりは免れません。しかし、父の築いてくれた揺籃に、真実の愛を持ち込むことはできないのです。父の敷いてくれたレールを外れ、これから先の運命の敷設を自分の意志で築く決意をしました」


 桜川の来訪の意図がようやく分かった。先日とは違う、堅い決意をもって彼はやって来たのだ。藤巻は思考の歯車を急速に回転させた。回転させながらすでに明らかな結びの言葉を待ち受けた。


「私は決意を両親に告げました。母は泣いて私の不慮を諌めましたが、父は逆鱗のあまり私を蹴飛ばし包丁を振り回して勘当を宣言しました。私は家を出るとその足で許婚の家に行きました。母親と本人が居りましたので、私は己の不埒を詫びました。その後、父と先方との関係がどうなったか知りません。私はもう、戻る場所を捨てました。今勤めております大学病院での私の立場も、OBであります私の父からの圧力があればどのような処遇になるかも分かりません。だけど私には、自分の力で学び経験した医学の知識と技量があります。過去をきっぱり切り捨てて、未来の為だけに生きる覚悟でやって来ました。その結果、もしも、もしも麗子さんが私よりも見合いの男性を選んだとしても、私は決して後悔も恨みも致しません。麗子さんの幸せを願います。他人の人生のような私の過去を、自らの意志で決別できた。その勇気を与えてくれた人に感謝をしたい。出来ることならその人と、永く永く共に生きたい。未来を見詰めて真の幸せを見付けたい。お願いします師長さん。どうか麗子さんに会わせて下さい」

 

 微動もせずに黙して耳を傾けていた藤巻は、けがれもクソも捨て去って純潔に輝く桜川の眼差しを、そっと避けるようにして目を伏した。


「師長さん、どうしたのですか。なぜ会わせて頂けないのですか。私の決意にまだ何かが欠けていると言われるのでしょうか。教えて下さい師長さん。お願いします後生です」

 ゆっくりと顔を上げて藤巻は言った。


「麗子はね、ここにはいない。今日は麗子の婚礼の日だから、私も祝辞を携えて、これから着替えて式場に向かうところですよ」

 桜川の顔は引きつり、暗剣殺と天中殺のまみえたような絶望の奈落へと突き落とされて、神の非道と運命の非業を恨み苦悶した。

「何ということだ。ああ、何と非情な。ああ、どうして私はもっと早く決断をしなかったのか」

 

 悲痛に歪んだ桜川の目から涙が溢れた。己の愚かな一人舞台が涙に霞んで無情に消えた。麗子の幻しか見えなかった瞳の奥から、父や許婚や医局の人たちのあざ笑う顔が浮かんで消えた。

 

 呆然として桜川は立ち上がった。どこへ行こうというのか行く当てを失い、病み上がりの夢遊病者のようにフラフラと立ち上がった悲恋の若者の背中に藤巻は声をかけた。


「まだ間に合うよ」

「え、何ですって」


「式は午後だよ。あんたの将来がどうなるかなんて私には占えないけれど、あんたが本気なら教えてあげるよ、式場を」

「し、師長さん」

 藤巻は、桜川を応接室に待たせて第二内科病棟九号室へと向かった。




<結婚式場>


 第二内科病棟旧館の裏口に、ミナゴロシのナンバープレートを付けた大型ダンプが急ブレーキをかけて停車した。

 待ち構えていたように、羅生門親分と桜川雅彦が助手席に並んで乗り込んだ。


「敵は玉姫御殿だ、ぶっ飛ばせ」

 羅生門親分が叫んだ。


「へい、ベンツもパトカーも追い抜いて激走しますぜ」

 両の頬と下顎と脳天に、ムカデのような傷跡を持つ男が運転席から答えた。


「やかましい。ベンツだろうがパトカーだろうが踏みつぶして行け。グタグタ抜かしてねえで、とっとと走らねえかこの馬鹿野郎」

「へい」


 アクセルで床が突き抜けた大型ダンプは空に向かってぶっ飛んだ。アスファルトを踏んでいるのか翔けているのかジープを追い越し、ポルシェを追い抜き、パトカーに黒煙を浴びせて国道を疾駆する。


「そこの大型ダンプ、止まりなさい」

 黒煙を浴びてよろめくパトカーのスピーカーから声がかかった。


「そこのダンプ、止まれ!」

 スピーカーの口調が変わり、パトカーの赤ランプが点滅されてスピードが増した。

「そこのダンプ、止まらないかこの野郎。何百キロスピードオーバーしてるか分かってるのかドアホウ」

 

 一台の白いベンツがダンプの車輪にはじき飛ばされて斜行した。後ろから猛スピードで追って来たパトカーのフェンダーに、ベンツのフロントバンパーが引っ掛けられて飛ばされた。

 

 飛ばされたバンパーが後ろを走行中のリンカーンのフロントガラスにぶつかり屋根がへこんだ。屋根をバウンドしたバンパーが後ろの黄色いフェラーリのボンネットをへこませて歩道に飛ばされた。


「お、見えたぞ。あそこだ、早く行け。左折だ。そこを左折だ。とっとと曲がらねえか、このバカ」

 羅生門親分の怒声にあおられて、運転席の男は大型ダンプのギヤをトップからいきなりローにぶち込んで、床が抜けるほどブレーキを踏み込みハンドルを切ると、巨大な車体はギュルギュルとタイヤを鳴らしながら荷台をプルプル回転させてカーブを切った。

 

 ダンプの荷台がセンターラインを大きくはみ出したのを見た対向車線のアウディは、慌ててブレーキを踏み込んだ。その後ろで、房総名物濡れ煎餅をかじりながらよそ見運転をしていたパジェロがブレーキを踏む暇もなく思いっきりドカンと追突し、アウディを交差点の中央までズズズズズンと押し出した。

 

 青信号の交差点に向かって、右の車線から全速力のランドクルーザーが突っ込んで来た。そして、その後方から、また左の車線から次々にセンチュリーとハマーとジャガーとランボルギーニとロールスロイスに日野レンジャー十二トンが折り重なって、アウディもパジェロも押しつぶされた。

 急ブレーキを掛けてようやく止まったボルボとポルシェが、車を歩道に寄せて冷や汗を拭っていた。


 

 運転席も助手席も黒ガラスで覆われた二台の黒塗りのキャデラックが、玉姫御殿の正面玄関に急ブレーキをキュルキュル鳴らしながら飛び込んできた。

 おろおろとうろたえている御殿の職員を尻目に、次々と黒塗りの車から吐き出された黒服黒メガネの一団は、ずらりと正面玄関に整列すると、一目でドスと分かる木目の脇差を構えて大股に立哨した。

 

 そこへ一台の大型ダンプが急ブレーキをギュルギュル鳴らし、真赤なランプをクルクル回転させた三台のパトカーと、ボコボコに傷だらけのベンツを従えて正面玄関に飛び込んできた。

 ダンプがズズンと停車すると、助手席から飛び出して来たステテコ腹巻姿の羅生門親分が叫んだ。


「おい、野郎ども、手筈は分かってるな」

「へい」「へい」「へい」

 

 パトカーからお巡りさんがドカドカと出て来るのを見て、黒服黒メガネの一団が玄関口をふさぐように整列し、その中の一人のチンピラが両手を揃えて前に差し出し、悲しそうな鼻声で警官に申し出た。


「へい、申し訳ありやせん。あっしがダンプを運転しておりやした。お縄をちょうだい致しやす。ちょいと持病の脚気が出まして脚が引きつり、アクセルを踏ん付けてしまって五キロもスピードオーバーをしてしまいやして、へい。へっ? 百キロもオーバーですって? いくら何でもそんな粗相はできませんです。あっしは短足ですからアクセルペダルに足がとどきやせんですから、へい。へっ? 何でベンツを三台も踏んづけたかって? いえ、そんな記憶はありやせんです、へい。はっ? 赤信号を突破したですって? あっしは先天的な色盲でして、決して信号無視などできはしませんですがね。西の方から流れて来た噂でござんすが、関西の法律じゃあ、青は進め、黄色は止まるな、赤は迷わず激走というのが常道だと聞いておりやす。止まれですかい? 警笛の大きいヤツが最優先だというのが世界平和の標準認識、交通安全の基本の定番だと聞いておりやす、へい。へッ? 死刑……、信号で止まらねえヤツは息の根を止めてやるって、だんな、それはちと残酷に過ぎやしませんかい。はぁ? 暴走、器物こっぱみじん、パトカー破壊、偽証罪に警察官侮辱、ついでに客引きと強姦もおまけに付けておこうって? そんなおまけなんぞ、ありゃあしませんぜ……」


 二人の黒服黒メガネを従えた羅生門親分と桜川は、祝いの礼服に身を固めた老若男女のたむろする廊下を走り抜け、早乙女家式場と札の掛かった部屋の扉をバタンと開いた。

 厳かなしょうの笛の音の調べと薄明かりの照明の下で、両家の親族一同が左右に座し、正面に艶やかな衣装の巫女さんの背中が新郎新婦の姿を隠すように立っていた。


 おお何と、今まさに、神に捧げたお神酒により、夫婦の契りを結ぶ三々九度の盃が交わされようとしている瞬間だった。

 桜川雅彦は、式場に飛び込み絶叫を発した。


「麗子さん、僕です。桜川雅彦です。迎えに来ました。僕と一緒に、僕と一緒の未来を見詰めて、二人の幸せを築き上げよう。僕の心に、僕の命になって下さい、麗子さん」


 荘厳な静寂を引き裂いた神を畏れぬ絶叫に、何か目新しい神前式場の余興でも始まったのかと呆気に取られる親族一同を前にして、三々九度の盃をポトリと落とした白無垢花嫁衣裳の早乙女麗子は、頭の角隠しを後ろにポイッと跳ね飛ばし、目の前の玉串案の祭壇を蹴飛ばして桜川の胸に駆け寄った。

 神主は玉串を持ったまま呆然とたたずみ、新郎は三々九度の盃を握りしめて蒼ざめた。


 式場内はドオーッとどよめき、事情を察した親族たちが慌てふためいて新婦を引き留めようとするその前面に、二人の黒服黒メガネの男が銀ピカに研ぎ澄まされたドスの刃先をきらめかせて立ちふさがった。

 その隙を見て、桜川と麗子と羅生門親分とムカデ傷跡の男は式場を飛び出し廊下を走ってロビーへ抜けた。

 

 何組かの結婚式が催されているのであろう、ロビーには披露宴を待ちかねる大勢の人たちで賑わっており、パシャリ、パシャリとカメラのフラッシュが煌いていた。

 そこへ、眼光鋭いステテコ姿のおっさんを先頭に、華麗な花嫁着物の裾を膝小僧の上までたくりあげた新婦が、大股でドカドカと駆けて行く。その後を花婿らしき男と顔中が傷跡だらけの男が駆ける。

 あっけに取られる老若男女を尻目に、桜川と麗子と傷痕だらけの運転手が玄関に飛び出して大型ダンプに飛び乗った。


 玄関前で怒声を飛び交わすベンツとフェラーリの運転手たちや、警棒で汗を拭うお巡りさんを尻目に、ダンプはガオゥンと咆哮するとエンジンを全開にして飛び出した。

 真赤な薔薇の花が咲く、美しく清々しく輝かしい幸福の待つ、未来通りに向かってダンプは走り出した。


 式場にポツリと取り残された新郎は、怒りと羞恥と腹いせに、三々九度の盃を巫女に浴びせかけた。怒った巫女は、トックリを掴んで神主の頭をぶち割った。のけぞった勢いで神主の手から放たれた玉串が、親族一同の曽祖父の入れ歯に突き刺さった。

 披露宴会場で待ちわびていた招待客たちは、時計の針が一回りしても登場しない新郎新婦にイラ立って、司会の男性をつるし上げにしていた。やけくそになった司会者は、勝手に乾杯の音頭を取って挨拶を始めた。


「えー、皆さま、本日はお忙しい中を新郎新婦の為にわざわざと、足元の悪い中をようこそ……」

「雨なんか降ってねえぞバカヤロー、この秋晴れのどこの足元が悪いんだボケ。早く食わせろ、鯛もサンマも腐っちまうぞ」

「そうだそうだ、ビールの気が抜けたら責任持つのか、お前が」

 そうして披露宴は盛り上がり余興が始まり、今日が何のための酒宴なのかを問いただす者などただの一人もいないままに、ウエディングケーキがズタズタに切り刻まれて、七色に燃えるローソクが飛び交った。


 羅生門親分は両手を振ってダンプの見送りを済ませると、黒塗り防弾黒窓のベンツに乗って、千葉市立極楽安楽病院の第二内科病棟へと車を走らせた。


 夜勤を終えて病棟を出た藤巻師長は、ラッタッタに乗ってマンションの自宅に戻るとすぐに、一週間も前から一生懸命に考え抜いて、書きしたためておいた祝辞の紙をビリリと破いてゴミ箱に放ると、深夜勤務明けの重い身体をベッドの上に横たえた。

                           

                    前編終わり


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。続編を投稿中です。九号室の狂気もさらにエスカレートして、笑いのエキスも濃縮しておりますので、是非ごひいきにお引き立て下さい。

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