表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

看護師長のつぶやき

 あたしゃ看護師長の藤巻竜子ふじまきたつこさ。

 生まれた時から藤巻で、今でも藤巻だよ。未婚の美女五十歳だよ、文句あるかい。化粧を落として鏡を見て反省しろって? 余計なお世話だよ。

 

 嫁にも行けずに若い看護師をいびり倒したから師長になれたって言うのかい? それがどうしたんだよ、悪いのかい。年増だろうがブスだろうが度胸と体力さえありゃあ誰だってなれるのさ。

 

 看護師は白衣の天使だからみんな美人のはずだって? バカ言ってんじゃないよ。顔でイボ痔が治せるなら医者はいらないよ。

 国家試験で猛勉強をしたかって? 鉛筆転がしてたら合格したよ。世の中なんてそんなもんだろ。あれこれ難しく考えて生きてたら難病になるよ。


 そろそろあんたもいい年だから、遺書代わりに自叙伝でも書いて残しておけよって院長が言うから、その気になって筆を執ったよ。

 せっかく書いたんだから読んでくれよ。面白いかだって? 面白いわけないだろ、人間の人生なんて退屈なだけさ。


 生まれは九州だよ。古臭い田舎の因習やしがらみが鬱陶しくて東京に出て来たんだよ。

 大都会なら親からも親戚からも縛られず、自由奔放に生きて行けると考えて飛び出して来た。

 それから三十年、都心を離れて江戸川を越えて千葉に移り住み、やがて還暦を迎えるんだと考えたら胸が疼いて棺桶に片足突っ込んでる自分が見える。


 なんで看護師になろうと思ったかって? ナイチンゲールのような野戦の天使に憧れたのかって? 笑わせるなよ。

 私はね、男にコケにされずに女が大見得を切って銭を稼げるステディな商売は何だろうかと考えて看護師に決めたのさ。

 男なんて偏見と驕りだけはいっぱしで、女がいなけりゃ何もできない臆病者のくせに威張りくさって片意地を張る。いつまでも横着無尽な口は利かせないよ。


 そういう性根だから男にそっぽを向かれて売れ残りの姥桜になっちまったって言うのかい? 私にもね、すっぱいレモンの青春時代があったんだよ。ホントにスッパかったよ。

 腐ったカボチャじゃなかったのかって? どっちだっていいから聞けよ。


 それはねえ、看護学校の高原合宿でのことだった。爽やかな風の匂いと草いきれを感じて勉強を忘れ、自分が乙女であることを実感できる大草原のキャンプ場だったねえ。

 

 私たちが草原に到着すると、大学の医学生たちがすでにテントを張って、小枝を拾い集めたりテーブルを広げたりキャンプの準備を整えていた。

 医学生たちに声を掛けられ合流すると、汗臭い男の臭いと、化粧臭い女の匂いが粘り付いてむせ返る。

 やがてキャンプファイヤーの火がともされると、男と女が交互に座って無垢な交歓の宴が始まる。

 私の隣に座った学生さんは、ゲタあごの出っ歯だったけど背は高くて、私好みのストイックな顔立ちだった。

 驕りも気負いも抑えて物静かだったけど、燃え上がる炎を見つめながら穏やかに将来の夢を語ってくれた。瞳を輝かせながら、ひたむきな彼の熱き想いを語ってくれた。


 都会に住む人たちは医療に苦しむことはない。微熱が出ても風邪をひいても近くの病院に駆け込めるけど、未開の僻地や離島の人たちは、骨折しても心臓が止まっても診てくれる医者がいない。

 医学の進歩は著しいが、このような人たちを救う事ができてこそ、真の医療と向き合っていると胸を張れるのではなかろうか。

 その為には、どのような疾患にも対応できるように、万能の技量と知識を身につけなければならないだろう。さらに、未開の僻地は日本だけには留まらないと、彼の視線が夜空を仰ぐ。

 飢餓に苦しみ熱病に怯える世界の国々の人たちをも救うために、医療のキャリアアップを究めるのだとまなじりを決して拳を握る。


 私は炎に火照る彼の頬と瞳を見つめて頷いた。医者が一人で治療は出来ない。看護師のサポート無くして僻地の医療は難しいと語る彼の言葉に大きく頷いて、アフリカだろうが無人島だろうが妻となって彼に寄り添い、看護の極限を究めようと決意した。

 これこそが青春の証だと、愛に目覚めた乙女の宿命だと信じて胸が震えた。だから、こいつを何とか手籠てごめにしてやらなくちゃいけないと考えた。


 彼の家柄は歴代の医者だった。家には広い庭と畑地があり、ガレージにはベンツが二台転がっていた。

 合同コンパの二次会で、酔ったふりして彼に抱き付いた。どさくさに紛れて彼の家へ泊り込んでやったのさ。それから先は恋の坂道の一本道だよ。

 誰もいない教会でワインを飲みながら、小指と小指を絡ませて誓い合った。契りを信じて夢見まどろむ一時こそ、看護の道を選んで本当に良かったと思えた。あれが私の青春だった。


 その彼はどうしたのかって言うのかい? なんでアフリカにいないで千葉にいるんだって言うのかい? 教えてあげるよ、医療の世界の回り舞台を。

 

 セミの幼虫はねえ、温かい土の中で眠っている間にたくさんの夢を見るのさ。医学生だって同じだよ。夢見るうちは土の中さ。

 土から這い出して地上に姿を現した時から、命を懸けて生きねばならない閉鎖的な医療の現実に直面するんだよ。


 すねかじりの医学生がどんなに粋がったって、しょせん親の操り人形なのさ。

 ボランティアをさせるために大金をはたいて医学部に行かせた訳じゃない。いつまでも僻地だとか離島だとかうつつを抜かしてガキの夢を見てるんじゃないと、医者の親父にひっぱたかれて目を覚ます。

 白い巨塔のがんじがらめの組織の中では、足元をすくわれないように要領よく賢く生き抜いていかなければみんなの権益が守られない。医者にとっちゃあ看護師なんて、酒のつまみにもならない箸置きみたいなもんさ。


 私はね、何にも言わずに彼の前から消えてやったよ。だからね、医者なんて信用しちゃあいけないよ。最後にあてがわれるのはいつだって抜け殻さ。

 

 そんな時だよ、親父から無理矢理お見合いをさせられたのは。

 相手は町の開業医の息子でさ、まあ、そこそこに見られる顔だったけど、私は断るのも断られるのも嫌だったから、見合いをすっぽかして東京へ逃げて来たのさ。

 彼との淡い思い出と看護師の免状を持って、東京行きの寝台特急に乗ったのさ。それ以来、親父に勘当されて私は自由奔放に生きて来たよ。



<病棟にて>

 看護学生はね、戴帽式を終えて二年生になると実習が始まる。看護帽を被り大学病院の病棟に行き、看護師の詰所つめしょに入るのさ。今じゃナースステーションなんて気取って呼んでるよ。


 初めて人間の腕に注射針を突き刺した時のことを思い出すよ。目をつぶって注射器を握り、勘を頼りに突き刺した。額の脂汗を患者に悟られないかとハラハラしたけど、静脈に命中してホッとした。

 患者のおじさんは暢気にアクビしてた。人間はね、余計な事など知らずに生きてた方が幸せだと、この時初めて実感したね。



ー外科病棟ー 

 外科病棟は悲愴だよ。手術を待つ患者はね、死刑を宣告されてたじろぐ囚人と同じさ。生きるか死ぬかの運命を医者に委ねてベッドに横たわる姿は、まるでまな板の上の鯉だよ。

 

 手術室に入るといささか緊張するよ。メスだのハサミだの器械出しをするのは看護師の役目だよ。

 手術が始まり執刀医が患者の腹を切り開く。小学生の時に蛙の解剖をやったけど、人間の腹の中も蛙と同じだと思ったね。内臓に絡まる血液なんて、ハンバーガーのケチャップと変わらないよ。

 

 ベテランの麻酔科医がドジ踏んで、麻酔が切れて患者が目を覚ました時には笑っちゃったよ。

 手術を終えた患者たちは、食事も水も飲めないから、口から鼻から管を突っ込まれて、まるで人間アンドロイドだよ。

 手術が終わればたちまち追い出されるから、外科病棟のベッドが温まることはないよ。



ー整形外科病棟ー 

 整形外科は賑やかだよ。ていうか、うるさいよ。ギプスをはめられコルセットをして、身体は動かせなくても口だけは自由だから、おしゃべりで退屈をしのぐのさ。

 

 リハビリ中で起き上がれない若者が、ビールを飲みたいと言うから鉄管ビールを飲ませてやった。ウイスキーの水割りが飲みたいと言うから味噌汁の水割りを飲ませてやった。

 

 首の骨をへし折った大学生が、頭蓋骨に穴を開けられて天井からロープで頭を吊るされていた。スノボーとスキーとどっちに行こうか、それともラブホで夜明けのコーヒーを一緒に飲もうかって偉そうに軟派するから、トイレコールを無視してやった。

 


―内科病棟ー 

 内科病棟はね、はっきり言って暗いよ。メス一本で勝負を賭ける外科と違って地味だからねえ。長期療養の患者が多いから空気まで澱んで精気がないよ。

 

 ここに居るとたくさんの生と死を見つめることになる。全快を喜んで退院して行く人がいるし、手術だと言われて外科病棟に移されて行く人がいる。

 特別療養施設に送られる寂しげな老人がいて、どこにも行けずに命の炎を絶やして霊安室に送られる人がいる。人それぞれの運命がたくさん転がっているのさ。

 

 病棟の廊下の隅っこで老婆がしゃがみ込んで泣いていた。六十年も連れ添った夫が末期のガンに侵されて、命の尽きる日が近いことを知らされてハンカチで涙を拭っていた。

 西日に滲む老女の涙が血に見えて、私の心臓は凍り付いてしまいそうだったけど、老夫婦は幸せだったのかもしれないと今なら思える。辛くても悲しくても大切な思い出を糧にして、これまで二人は一緒だったのだから。


 

 まあとにかく、看護師の資格さえ取っちまえばこっちのもんさ。

 九州の大学病院にしばらく勤務して、お仕着せの見合いを蹴飛ばして勘当されて、東京の病院に勤めて二十年。

 さらに江戸川を渡って千葉へと流れ、ここ千葉市立極楽安楽ごくらくあんらく病院第二内科病棟の看護婦長をつとめて早や十年。時代の流れで看護婦の呼び名が看護師に変わり、今じゃ師長と呼ばれているよ。



 さて、話はこれからさ。

 東京の病院にもタチの悪い患者は何人もいたけれど、ここの第二内科病棟九号室の連中ほど手に負えないやからはいなかったね。

 西暦がちょうど二千年になって、二十一世紀が始まった頃だった……。


次の第一話から第九話まで、病院内で起こった常識はずれの出来事を、一話完結で紹介します。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ