第7節:(無表題)
「対抗せねばならない――――」
それはうわ言のように放たれていながらも、ここに地下マグマめいた念を釘付けするものだった。だが声の主はいつであろうと青白い。
「ああ、ここも小説か? 俺は今、描写されているのか?」
近代スカルプチャのように細身で、背は高い男だった。一見10代にも見える顔面には至る所に皺が刻まれて、これぞ年齢不詳的雰囲気を醸していたが、一方どこかを探せば纏わりつくような色気があったかもしれない。
「ということは俺は既に本来の俺じゃあないかもしれないんだな。だから――」
彼は、より一層に狂っていた。その言動は普段にまして破綻していた。私にはその混沌とした精神がよめなかった。
「『力』に、対抗せねば――――」
そして彼は、吸血鬼だった。
彼がこういったような妄想にとらわれるようになったのは、つい三日ほど前のことだった。と思う。 一応私も精神分析技師の端くれではあるが、なにぶん吸血鬼の精神は元から読みにくく、それでこう、彼の心に関する事象は不確定なニュアンスにしかならない。とにかく、私が彼の正気を疑うきっかけになった一言は以下の通り。
「ああ、俺の周りのものたちがすべて俺と敵対するようにみえる。何故だ?」
彼はその言葉を発した直後から、この屋敷中を監禁シロクマ(あるいは籠の中の鳥)のごとく歩き回りはじめた。その際、あらゆるタンスの角にあらゆる箇所の指をぶつけたが、時には「痛い」とわめいた一方、時には眉をひそめるのみで何も言わなかった。このランダム性はあたかもシロクマのようだ。シロクマを載せる氷は徐々に融解する。やがてシロクマは最早地上に立つことはできなくなる。
シロクマはどうでもいい。その時から、おかしな吸血鬼はさらにもう少しばかりおかしくなった。ヒトの首筋にかぶりつき、ほとばしる血液を啜り取るような趣味の悪いこともやめた。だが、吸血をやめた吸血鬼はもはやアイデンティティとかを保てていないように思うので、私はこれから彼のことを単にクキュナー・トゥーヌスィムと呼ぶことにする。これは別に彼の本名でも、偽名でもなく、simply人間としての名である。
彼は、今朝も熱いコーヒーが好きだ。それは私が淹れる。どうやら私の方がコーヒー豆の扱いがうまいらしいのだ。
「ま、メタフィクショナル時空じゃ何を言っても無駄だがな。」
クキュナー氏は朝日に融け、部屋の空気に漂った。吸血鬼は日光に弱い(当然、栃木県にも弱い)。やはり彼はメタフィクション的妄想に憑りつかれているのだ。私の顔は翳った。
「――おい大倉、今日の朝飯は何だ。」
「――はい? 今なんと?」
名乗り遅れたが、私は大倉という名字で、クキュナー氏の――端的に言えば――手下である。主に彼の代わりに家事をする。
「だから――――腹が減ったんだ、俺は。」
「オムレツかスクランブルエッグです。もし御所望なら目玉焼きでも。」
「ラーメン」
新キャラクターが登場しました。閉鎖空間での男性主従っていいよね。
第5節はもうちょっと待ってください 別に大した内容のある節じゃないので飛ばして読んでも大丈夫です