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スナック  作者: ヤマダ
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くちびるに愛を

 とんとんとん、と包丁が小気味のいい音を刻む。まな板の上に並ぶにんじんは、冷えた朝の光に鮮やかな橙を反射させている。

 少しずつ埋まっていくお弁当箱を横目に、刻んだ野菜を煮えた湯に入れ味噌とだしを加えると一気に香ばしい香りが広がる。

 愛する人の命をつくるごはん。料理の隠し味は愛だというけれど、その通りだ。

 美味しそうな匂いに誘われたかのように、ぺたぺたというスリッパの音が近づいてくる。

 これが私たちのいつもの朝。

 「おはよう」あなたがまだ眠たい声で言う。

 おはよう。私は振り返り応える。

 そこにはいつも通り、毛むくじゃらで立派な角を持った大きな獣が立っているのだ。

 これも私たちのいつもの朝。


 私が初めて魔女に出会ったのは、二年前の結婚式だった。

 純白のウェディングドレスと対照的な漆黒のドレス。誰もが顔をほころばせ私たちを祝福する幸福な空気の中、彼女だけが禍々しい何かを放っていた。周り、いや、あなたには分からないように。私にだけ分かるように。

 だから彼女が近寄ってきたとき私は恐くて仕方がなかった。

 微笑みを浮かべているが私には分かる。

 あれは怒りを隠すためのお面だ。彼を奪われた恨みや憎しみが痛いほど伝わってくるのに、表情は変わらない。

 そして魔女は耳元で呪文を唱え、悠然と去っていった。

 呪ってあげる、と。

 あの時、悪意というものが心をえぐるのを知った。あなたに心配をかけたくなくて何もなかったようなふりをしたけど、きっと気づいていたよね。

 震える手を握ってくれた、そんなさり気ない優しさに、あなたと会えてよかったと心から思った。

 でも、その本当の意味が分かったのはそれから幾日か過ぎた頃。


 あの日の私は取り乱し泣き乱れ、まさに手に負えない状態だった。

 だって朝目覚めるとあなたの代わりに大きな獣がいて、突然のことに逃げ惑う私を追いかけてくるのだから。

 捕まったら食べられてしまうと思った。悲鳴をあげながら小さな新居を鬼ごっこみたいに必死で駆け回るけど、体力も尽きすぐに部屋の隅に追い詰められてしまった。

 獣の顔が近づき覚悟を決め、目をぎゅっとつむる。

 最後に彼に会いたかったな。

 私の唇に獣の口が触れ、そっと離れた。

 しばらく恐ろしくて身を硬直させていたが、何も起きないのを不思議に思い固めを恐る恐る開けてみる。

 そこには私を心配そうに覗き込むあなたの姿があった。


 少し窮屈そうにスーツを着こんだ獣は、上手に箸を使って朝ごはんを食べている。向かい合って座る私たちの間には親密な沈黙。

 こんな光景にもすっかり慣れてしまったことがなんだか可笑しい。

 「何か顔についてる?」

 あなたは不思議そうに尋ねる。気づかぬうちに、にやにやが顔に出ていたらしい。

 「なんでもないよ」

 そう。なんでもない。


 「それじゃあ、行ってくるね」

 私は玄関に立つあなたに鞄を渡し、いつものように唇を重ね合わせる。いってきますのキス、そして呪いを解く唯一の方法。

 「いってらっしゃい」

 人間の姿に戻ったあなたは少し照れくさそうにしながらドアを閉めた。

 そんなあなたの姿を私は少しだけほっとして、少しだけ不安になき持ちで見送る。

 あなたは目覚めるたびに獣の姿になっているなんて知らないし、私も教えるつもりもない。そんなことをすれば、優しいあなたは私を傷つけないために静かに去ってしまうから。

 だから、いつか、あなたが元の姿に戻らなくなったとき。その事を考えると不安で胸が苦しくなる。

 あなたが傷つかないように私があなたから離れる。それは仕組まれた、愛。

 魔女は私が憎いだけではなく、いまだにあなたを思い続けているのだろう。

 「さて、と」

 少しの感慨の後、不安を振り払うように腕を大きく回す。

 考え込んだって仕方がない。掃除だって洗濯だって、生きていくためにやらなければいけないことは山ほどあるのだ。

 魔女の呪いを解いた後、物語の最後はハッピーエンドで締められているが、それほど現実は甘くはない。ただ、私はそれでいいと思っている。

 その時が来るまで惜しみない愛を。

 私たちの物語は、いつまでもいつまでも続いていくのだ。


〈了〉

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