魔性
煙草はやはりパイプに限る。巻きタバコだと味気なくてね。
パイプをくゆらせていると、先日、友人にそんなことをこぼしたのを思い出した。
本当はそんなことはない。
パイプのほうが紫煙とウイスキーの匂いが染み付いた、大人の社交場のようなこのバーでは恰好がつくのだ。
時計を見ると、編集者との約束まではまだ随分とあった。遅刻癖のある私がこの場所での待ち合わせにはきちんとやって来るのには、理由がある。
ほの暗い店内でいつの間にか周りの話し声も止み、それを待っていたかのように店の奥にあるステージの幕がゆっくりと開けられていく。
ステージの上ではスタンドマイクを前に美しい女性がスポットライトを浴びている。バックでアルトサックス、トランペット、ピアノ、ドラムス、ウッドベースがムードのあるジャズを奏で始めると、彼女は歌い始めた。
柔らかく透きとおり、それでいて芯のある歌声は彼女を人間の形をした楽器ではないかとさえ思わせる。
時に感情的に、切なげに、軽快に歌い上げる彼女だが、美しいけれど憂いをたたえた表情を崩さない。それすらも彼女の魅力であり、私や客たちをひきつけてやまない。
今、私の神経はすべて彼女へ向けられている。
「おや、先生お早いですね」
ふいに私の目線から彼女がいなくなり、目の前に見知った男が現れる。
「原稿ならちゃんとあるから、早くどいてくれたまえ」
乱暴に原稿の入った封筒を渡してやると早速確認をし、ありがとうございます、と笑顔を向けられた。
「それにしても、えらいのに惚れましたね」
さっと頬に赤みがさすのを感じたが、こればかりは自分ではどうしようもない。
編集者はそれを面白そうに見て、ステージを一瞥しこちらへと向き直り顔を寄せる。
「あの娘、影がありませんぜ」
そんなことはとうに知っている。
スポットライトに照らされているにもかかわらず歌姫の足元に影はなく、店の壁に埋めこまれた鏡にもバックバンドは映っているが彼女はどこにもいない。
「知っているさ」
彼女が何者かなんて正直どうだっていいのだ。この歌声に酔いしれていたい、彼女を見ていたい、ただそれだけだ。
何か言いたげな彼をさえぎるように、私はふたたびパイプをくゆらせた。
〈了〉
お題小説 タバコ、楽器、鏡