シュテルン・ラオシュ公爵
◇
数日後。王城へ向かう道すがら
シンマァは背筋が凍る思いで目の前の人物を凝視した。
通り道に立っていたのは、師匠であるゾンネの……いわゆる“特別な相手”であるシュテルン・ラオシュ公爵だった。スカイブルーの瞳には、愛する獲物を逃さない獣のような執着の光が宿っている。
(……やばい、師匠に殺される……!)
今朝、ゾンネが家を出る際、シンマァに告げた言葉が耳に蘇る。
『シンマァ? もしシュテルンに私の行先を尋ねられても、絶対に教えないで。……いいわね?』
あの時、ゾンネは研究服の襟元を少しだけ緩め、艶やかな吐息混じりにシンマァを諭した。まるで、シュテルンに追いかけられることを予感し、楽しんでいるかのような表情で。師匠のその怪しげな余裕を思い出し、シンマァは逃げ出したい衝動を必死に抑え込んだ。
シュテルンは、静かに追い詰めるような鋭さをもってシンマァの前に立った。
彼はゾンネの行き先を直接尋ねるような野暮はしない。まずは獲物の逃げ場を塞ぐように、余裕たっぷりに世間話から入る。
「こんにちは、シンマァ嬢。こんなところで会えるなんて、私は幸運ですね。おや、ずいぶんと急ぎ足ですね。王城を離れて遠出ですか? 籠の中身を見たところ……どうやら、かなり希少な薬草を狙っているようですね」
シュテルンは、シンマァが隠そうとした籠を軽く指先で指し示した。その瞳は微笑んでいるようでも、その実、シンマァの微かな動揺も逃すまいとする探るような光を宿している。
「そんなに焦らなくても、誰も君を止めませんよ。……けれど、その方向だと、確か『静寂の廃坑』へ続く道ですね。あそこは今の時期、魔獣の出没も多い。……彼女……。ゾンネも、そのあたりに興味を惹かれていると聞いていましたが……」
シンマァは冷や汗を流しながら、必死に平静を装う。
「……師匠のことなんて、私は知りません。最近は忙しくて、すれ違いすらしていませんから」
「ふむ……そうなのですか? しかし君のその左手の指先、少しだけ採取用の薬品で汚れているようですね。師匠と別行動をとったばかり、という顔に見えるのですが……」
シュテルンは、追い詰めるような視線をシンマァの顔に貼り付けたまま、距離を詰める。シンマァの逃げ場を完全に封じ込めるような、圧迫感のある笑みだった。
「さて、シンマァ嬢? そろそろ本当のことを教えてくれますか? ゾンネは、今どこにいるのでしょう?」
「師匠? さあ、私は存じ上げません……!」
シンマァが引きつった笑顔で通り過ぎようとした瞬間、シュテルンの手が優雅に懐へ伸びる。
取り出されたのは、錬金術師なら誰もが喉から手が出るほどの幻の書籍『禁忌の秘薬素材集』。
「ゾンネは今夜、あの場所へ行くんですよね? 教えてくれれば、これは君のものですよ?」
シンマァは絶句した。それはゾンネが長年探し求めていた、幻の書籍だった。
(ああ……! ラオシュ様の持ち寄る賄賂と、師匠の行き先を特定する力の精度が年々上がっている……!)
「……師匠は、カサミネ地帯へ。……それと、オタケビ洞窟の月光石も狙っているはずです」
本能的に白状してしまったシンマァに、シュテルンは満足げに目を細めた。
「ありがとうございます。さすが私の最愛の錬金術師の弟子ですね。……お礼に、この書籍をあげましょうか」
ホクホク顔で書籍を受け取るシンマァに対し、シュテルンは踵を返しながら、最後に背後を振り返って意味深な笑顔で告げる。
「そういえば、今日、鍛練場には宰相のアイスベルク殿がいるはずかと。彼も君に……会いたがっていた気がしたんですが……」
(……え? どういう意味?)
シンマァが戸惑っている間に、愛するゾンネを捕獲するためにシュテルンは迷いのない足取りでカサミネ地帯向かっていった。
シュテルンの言葉が脳裏にこびりついて離れない。
『鍛練場には宰相のアイスベルク殿がいるはずかと。彼も君に……会いたがっていた気がしたんですが……』
――その言葉が本当なら、少し遠回りをしてでも、彼に顔を見せに行きたい。あのアイスベルク様が、私に会いたがっているなんて。
けれど、今の私には今日中に手に入れなければならない希少な材料があった。
(アイスベルク様に会いたい……でも、これを逃せば次回の収穫は数日後になってしまう。……錬金術師として、材料を蔑ろにするわけにはいかないわ)
シンマァは自分自身を言い聞かせるように何度も深呼吸をした。アイスベルクへの想いに後ろ髪を引かれながらも、彼女は錬金術師としての矜持を優先し、足を踏み入れたことのない森の奥へと深く分け入っていった。
――深い森の奥、木漏れ日さえ遮られる静寂の領域。
夢中で希少な薬草を摘み取っているうちに、空の色が不穏な紫へと変わっていた。
(……しまった、日が落ちる……!)
背筋に冷たいものが走った瞬間、湿った風が吹き抜け、背後の茂みが大きく揺れた。
振り返った先には、飢えた牙を剥く魔物の群れ。数で圧倒され、逃げ場は完全に断たれた。シンマァは杖を構えたが、震える手では満足に魔導装置の力も発動できない。
(嘘……こんなところで……)
鋭い爪が空を切り、死を悟って目を閉じたその時だった。
――凄まじい衝撃波が森の静寂を切り裂いた。
氷の結晶が弾けるような音とともに、魔物たちが一瞬にして霧散する。温かい腕が、震えるシンマァの腰を抱き寄せた。
「……ッ、何をしているんだ、お前は!」
耳元で聞こえたのは、張り詰めた極限の緊張と、抑えきれない怒りに震えるアイスベルクの声だった。
いつもの冷徹な表情はどこにもない。そこには、獲物を失う寸前だった獣のような、激しい動揺と焦燥だけがあった。
「……あ、いす、べるく……様?」
「二度と、二度とこんな場所へは来るな。……殺してしまいそうになる」
彼はシンマァを抱きしめる力を強め、その首筋に顔を埋めた。宰相としての威厳も、冷淡な仮面もすべてかなぐり捨て、ただ「愛しい者が傷ついたかもしれない」という事実に憤り、震えている。
その抱擁があまりに必死で、シンマァは彼がどれほど自分を案じていたのかを悟り、心臓が熱く跳ね上がるのを感じていた。
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