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龍翼のディオスクロイ  作者:
十一章
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 知っているんでしょうとエツィラは言う。語尾に覗いたのは微かな寂しさだった。

「私たちはきみの代わりに作られた。表ではエツィラ・シヴァイが神子として振る舞って、シルヴァスタと盟約した私だけがずっとここにいた。動けなくなった“兄弟たち(ブラーチヤ)”を、命龍のもとへ還してきたんだ」

 神子エツィラは、ディルカメネスに戻ってきたハルミヤを歯牙にもかけなかった。それも当然だ。彼女は心を持たぬ人形であり、ハルミヤを姉とさえ認識していなかったのだから。

「私は龍の力に耐えるために育てられた子供だった。でも本当はそんな子供なんか山ほどいて、学院の中に、普通に生活していたんだよ。……他のみんなは、全員もとの一人を喪っていたけれど」

 神殿に眠る子供たちの中に、いくつか見知った顔があったのを思い出す。原型でありながら生を許されていたのはハルミヤだけだったのだろう。しかしエツィラが最も神子にふさわしいと認められた瞬間、その姉にもまた刺客が放たれた――神殿の伏せた“奇跡”の全貌が明らかにされることのないように。ハルミヤが逃げ延びてしまったことは、神殿にとって最大の誤算だったのだ。

 もういい、とハルミヤは首を振る。

「十分だ。私が全部終わらせてやる、盟約を打ち切れ」

「ごめんね、できない」

「できない? 神殿への忠義か。それともあいつらを親だとでも思っているのか。馬鹿馬鹿しい、用が終われば切り捨てられるだけだ。情も何もない」

 そうだねえとエツィラは間延びした声で言う。それもあるけど、それだけじゃないんだ。言い訳をするように、自分の左袖をめくり上げる。

 指先から、肘にかけて。だらりと皮膚の溶け落ちた左腕がそこにあった。

 まるで熟しきった果実のようだった。果肉の中に種を作っても、なおこぼれ落ちることのなかった果実のなれの果て。ずぶずぶに腐食した肉が皮膚を巻き込んで崩れ落ちているのだ。中心で真白く保たれた骨は、いっそ不自然なほどだった。

「……見ていて気持ちのいいものじゃないよね」

 そそくさと衣を被せ直して、エツィラは苛むようにそこを押さえつける。

「でも命龍の名前を縛るってこういうことだよ。表に出ているのは左腕だけだけど、体の中身はもう全部やられちゃってるんだ。こうして話をしていられるのも、盟約が私を生かすから。シルヴァスタと離れたらあとは腐っていくだけだよ」

「……痛みは」

 エツィラは何も言わなかった。

 昔から我慢強い子供だった。そうした部分だけが姉に似たのだ。唇を噛みしめたハルミヤに、彼女は傷がつくよと苦笑する。

「一年も経たないうちにこれだもの。もう五年も保たないと思う。神殿の目論見は見事に失敗、あとはいつもどおり、限界まで神子を使って、」

「言うな」

 遮れば、静まり返った礼拝堂に、水音だけが反響する。

 シルヴァスタにとり、修道院は神殿よりも国よりも強く記憶に結び付いた場所であったのだろう。彼女は神子だけをその傍らに呼びよせて、会話を交わす日々を送っていたのだ――神殿が、法術の利用を持ちかけるまでは。

 龍の力によって吹雪の危険を回避したディルカメネスは、外敵の侵入に備える必要性に迫られた。盟約を基盤に編み出された法術は、国の軍備力を強める一方、着実に龍の体を蝕んでいったのだ。原初の神子の死を機に新たな神子が立てられたところで、眠りに就いたシルヴァスタがそれを知る由もない。

 永遠を擦り減らしたのは人の側だ。生み出された兄弟たちにも、龍の命を引きとどめることはできなかった。

「ねえハルミヤ、終わりにしてくれる?」

 はっとして顔を上げる。エツィラはシルヴァスタの体に寄り添い、彼女の顔を振り仰いでいた。

「もう私たちが生まれなくてもいいように。誰も、永遠なんてものに縋らなくてもいいように。みんなが人の痛みを知って、誰も傷つけないような世界が生まれるように」

 指先を握り込む。力を込めた掌は小刻みに震えていた。

 五年と保たない、とエツィラは言った。神殿が別の人間を神子に据える未来、彼女の体はもはや人の形を失っているのだろう。彼女は生きながら腐食されていく激痛に耐え、時間の流れさえ緩慢なこの場所で、そのときを延々と待つほかにないのだ。

 剣が熱を発している。ハルミヤは無言でそれに手を伸ばし、一息に鞘から抜き放つ。おぼろげな光は、銀色の刃に照り返されて初めて鋭さを得た。

「約束する」

 呟いて、振り向いたエツィラに切っ先を向けた。

「いつまでも憶えている。お前を殺したこと、……妹を殺したこと。私は死ぬその瞬間まで抱えていく。お前の心臓の音、血の色、貫く感触まで、全て憶えている」

「……うん」

 自分を騙し通してきたものを斬り払う。見ないふりをやめる。すべて認める。すべて受け入れる。それは皆、妹であり続けた彼女へのはなむけだった。

「エツィラ、私は……お前が羨ましかった」

 ただ生きて。誰かに生を望まれて。何を持たずとも幸せだった。いつだって笑っていた。それが羨ましかった。妬ましかったのだ。鏡にひびを入れたのはいたたまれなくなったからだ。

 エツィラが顎をわなつかせる。けれども歪みかけた唇は、強く引き結ばれた。口角を小さく震わせて、――私もだよ、と笑う。雪原に咲いた花のように。

「生まれてからずっと。きみのことが、羨ましかった」

 刃が走る。迷いを見せれば苦痛を長引かせるだけだと分かっていた。体重をかけ、全身の力を込めて、剣の切っ先を押し出した。ぶちりぶちりと筋を裂く感覚に歯を食いしばり、心臓へと剣先を突き立てる。少女の体が大きくわななき、ハルミヤの耳元には押し殺された呻きが届いた。

 銀色は再び現れる。その光を血の色に染めながら。

 剣ごと抱き止めるように、ハルミヤは崩れ落ちた体を受け入れた。こぼれ落ちていく体温におぞましさを覚えながらも、その心臓が強く拍動するのを感じ取る。

 彼女は死ねない。命龍との繋がりがある限り、並外れた再生力を発揮する。ハルミヤはそれを、自分の身をもって理解していた。

「銀龍アルヘナ。ハルミヤ・ディルカの最後の望みだ」

 銀龍の周囲に風が廻る。無風の修道院を揺らめかせるように、疾く、鋭く。研ぎ澄まされた刃は稲妻さえも伴って、彼女の掌の中に閃きを生む。

「命龍シルヴァスタを殺せ――!!」

 悲鳴にも嘆きにも似た命が、龍の鼓膜を震わせた。

 愚かな龍よと声がする。吹きすさぶ暴風の中心で、アルヘナは悼むように目蓋を下ろしていた。彼女の指先から放たれた風は、ためらいなく命龍へのもとへと翔ける。

「眠れ、シルヴァスタ。私の妹」

 礼拝堂が歪み出す。水は流れを止め、光は虚空に砕け散る。硝子の割れるような音とともに命龍の夢は果て、かつて滅びた修道院が目覚めを迎える。

 世界はようやく傷つき始める。

 ハルミヤはただ、胸の命だけを抱いていた。

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