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龍翼のディオスクロイ  作者:
九章
55/66

 燭台の火がちりちりと燃えている。固く人払いのされた王太子の自室で、ハルミヤとラケイユは向かい合って机を囲んでいた。

 机上に広げられているのは神殿の構造図だ。階層ごとにより分けられ、個々の部屋の用途や形状が描かれている。数歩離れた位置では、アルヘナが興味を持つでもなく、しかし無関心を貫くでもなく、黙ったまま二人を眺めていた。

 冷気を帯びた薄暗闇が揺れる。地下を示す図を中央に引き出して、ラケイユはそれに重石を乗せた。

「やることは決まっているんだな」

「しつこい」

 祝祭帰りの道すがら、そして現在、人気を避けて部屋に集まってから。何度となくくり返された確認に、ハルミヤは同じ答えを返してきた。

「エツィラに会う。神子も、神殿も、もうどうでもいい。ただ妹に会いに行くだけだ」

 憑き物でも落ちたような顔をしている、と言われた。口にしたのはラケイユだ。彼の言いようを鼻で笑ってやりながら、ハルミヤはしかし、実際にその通りなのだろうと考えていた。

 視界は広がった――外側にも、内側にも。目指すものが明らかになった以上、戸惑いを抱く必要もなくなったのだ。ハルミヤは構造図に目を落とし、出口と階段との位置を確かめていく。それを追うように、ラケイユが印代わりのピンを立てていった。

「ひとり、護神兵に協力者がいてね」

 彼は言い、一階の図を横に並べる。神殿内部に通じる道は三つ。正門と裏門、そして内部に置かれた転移陣だ。順に指し示してから、ラケイユは再び裏門に指を置いた。

「彼が見張りに回る時間帯……早朝を狙う。祝祭日の間は神殿と町との警護に人が割かれるから、普段よりは侵入も容易いだろう。当人からも確認を取っている」

「バルクか」

 ラケイユが息を詰める。ほんの一瞬であっても、ハルミヤが疑いに確信を得るには十分だった。

「昨日といい今日といい、手回しの良さには感心するばかりだな」

「……俺もきみの察しの良さには感心するよ」

 浮気はできないな。早口で続いた独り言を取り上げるつもりはなかった。ハルミヤは「それで」と問いかける。

「私が法衣を着て潜り込む。アルヘナ、その服装はどうにかなるのか」

「必要ならば姿形はどうとでもなる」

「なら私とアルヘナ、バルクで中を調べる。目指す場所は――」

 ラケイユが指先を滑らせる。そうして地下一階の深部、構造図の壁を抜けた先の空白を叩いた。訝るハルミヤに、「図には書かれていないけど」と伝える。

「確かに道があるというんだ。護神兵殿の話の限りでは、ここ以外の場所には訪れたことがあっても、龍の姿を見かけたことはないという。疑いをかけるには十分だろう」

「……そううまくいけばいいがな。脱出はどうする」

「それもあちらに任せるほかにない、というのが正直なところでね」

 いくつかの壁際を示しはするものの、どこにも信頼性はないという。神殿は神官と護神兵以外の立ち入りを禁じているのだから当然だ。ハルミヤは厳しいなと眉を寄せる。

 龍の力は不安定だ。アルヘナを護衛にするとて、神殿にはびこる護神兵を相手にするとなれば多勢に無勢だろう。見つからないように進んだところで、警備が敷かれている以上は強行突破を行うときが訪れる。

 ラケイユも同じことを考えていたのだろう。机から身を離し、首を傾けた。

「心当たりはあると言っておられたけど。真意は測れないな」

 でも、と逆説を置き、肩をすくめる。

「少なくとも、神殿と手を組んでいるということはない」

「証拠は」

「……手放しの信用はできないかい」

「際の際まで身分を隠した誰かの例があるからな」

 手厳しいなとラケイユは笑い、それまで握りしめていたものを机に転がした。

 紐にくくられた、うっすらと光を透かす純白、子供の掌ほどの剥片。何度も目の前に晒されてきたものだ。見間違いようもなかった。

「護符、……あいつのものか」

 頷きを返される。ハルミヤは唾とともに苦みを飲み下した。

 ハルミヤが怪我を負うたび、彼と出会うたびにその護符は光を放ってきた。無数の傷を塞いできた龍鱗は、持ち主の首元を離れた今、静かに影を落としている。

 法衣の着用が神官の証明であるなら、紺青の制服と護符こそが護神兵の身の証であった。彼らがその一方を失うことは、神殿に臨む権利が剥奪されることを意味している。安易な理由で他人に引き渡すようなものではない。

 特に、王家の人間に対しては。

 理解してハルミヤは息をつく。信じるよ、と諦め交じりに呟いた。

「友人だった。そのつもりでいたんだ。今さら疑う理由もない」

 たとえ確執を抱いていたとしても、それは一方的なものでしかない。バルクがハルミヤに一方的な罪悪感を覚えていたのと同じことだった。

 何より、手段にこだわる余裕はとうに捨て去っている。心臓の昂りを胸に覚えて、ハルミヤは深く呼吸をした。

「突入は明朝、だったな」

 机上の龍麟を拾い上げる。護神兵一人に与えられる護符としては上等なものだ。彼が神殿に仕えた年月のことを思い浮かべれば、唇は皮肉に歪んだ。

 セルジュの六年。バルクの七年。放り出された時間は、娘ひとりが負うには重い。それでもなお彼らは託したのだ。一度は自分の命すら投げ出そうとした、ハルミヤ・ディルカという名の子供に。奥歯を噛みしめ、ハルミヤは胸に揺れた焦れの行き場を探す。

「ハルミヤ?」

 無言で立ち尽くしているのを不審に思ったのだろう。探るようなラケイユの呼びかけに、ハルミヤはなんでもないと応える。

「自分の命も随分重くなったと、そう感じただけだ」


     *


 冷え切った床に、少女の面影が揺れている。

 その広間において、照明の類は意味を為さなかった。どこからか漏れる薄明かり、揺らめくその光を反射し、飲み込んで、石材の床は永久に照らされ続ける。震える影はさざ波のようだった。

 頭を転げて、身じろぎをする。髪は薄布のように広がり、少女の目蓋に肩先にと降りかかった。払いのける気力も湧かなければ鬱陶しいとも感じない。白に塗りつぶされた天井を、彼女は無心で見上げていた。

「……痛いな」

 呟く。そこでようやく疼痛を生んだ左腕を見やり、少女は静かに笑みを浮かべた。

 少女を現実に繋ぎ止めるのは今や、体の痛みとそれを認識する自身の感覚だけだった。広間に置き去りにされてから一体どれだけの時間が経ったのか――何度夢のない眠りを経、何度静寂の中で目を覚ましたかも、もう覚えていない。

 けれど、それも、いつかは終わりを迎えることなのだろう。

 喉は乾かず、腹も減らない。永遠を体現したかのような体は、しかし確実に悲鳴を上げていた。耐えきれなくなったときがこの刻苦の終着だ。

「神子様」

 声がした。勢いも付けずに体を起こし、少女はうんと答える。

「きみも還っていくんだね」

 首肯が返る。

 白を基調とした法衣、数多の石や金糸に彩られた装飾品を身に付けた少女がもうひとり、祈りを捧げるようにして広間に跪いていた。手首は細く、叩けば折れそうな儚さを持ち合わせている。自らを棚に上げ、かわいそうにと呟いた。

「何日経った?」

「二十と三日」

「何日、保った?」

「二年と五十日」

「食事をしたことはあった?」

「いいえ」

「赤ちゃんを抱いたことは?」

「いいえ」

「名前は呼ばれた?」

「いいえ」

「幸せだった?」

「…………」

 理解しかねる、と言わんばかりの沈黙が漂う。

 少女はまたかと目蓋を下ろした。彼女の到来で三十度目を数えた問いかけであったが、一度として肯定を返された試しがない。誤魔化すように首を振って、ふらつきながら立ち上がる。

「うん、……うん、還してあげる。だからもう一度生まれておいで」

 軋む体に鞭を打つ。相手の目の前に膝をつき、伏せられた睫毛の奥を覗き込んだ。明けの明星も浮かばぬ空、目覚め始めたばかりの朝の色。よく知る瞳より、どこか薄く、呆けた色。自分の瞳もまた同じ輝きを持っていることを、少女は痛みをもって胸に刻んでいた。

 違う。――違う。

 けれども、違うからこそ生まれてきたのだ。

 浮き出た肩甲骨に指を這わせ、腕の中で壊してしまおうとするようにかき抱く。この体はいつから温度をなくしてしまったのだろうと、栓なき想像に身を震わせながら。胸の中ですうと眠りに就いた彼女におやすみなさいと囁いた。

 思い浮かぶのは他人。同じ顔を持つ唯一だった。

「もう一度なんて、なければいいのにね」

 聞き咎める者はいない。一瞬きの合間に、少女の腕は虚空を掻いていた。

 ――還っていったのだ。二年と五十日前、彼女がディルカメネスに生まれ落ちたように。

 光の粒子が散っていく。少女は祈るような心地で見送った。喪失感に耐えるよう、指先をきつく握りこむ。爪の食い込んだ掌は、インクを落としたような黒ずみにまみれていた。

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