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龍翼のディオスクロイ  作者:
九章
53/66

 孤児院に暮らしていた頃の記憶は、ハルミヤにとっておぼろげなものでしかなかった。

「ハルミヤ。今日は喜ばしい報せがあるんだ」

 光を透かした藍の色。縁取られた左胸の紋。若き神官の手に恭しく捧げ持たれた、塵ひとつない学院の法衣。それに牽引されるようにして蘇るくすんだ夕日の影、いつ何時も孤児院に漂っていた埃の匂い。

 神官に並び、孤児院の院長は誇らしげに笑っていた。

「今期の学院の新入生としてきみが選ばれた。入院試験を突破したんだ」

 その言葉に実感を抱いたのは、法衣に袖を通したときだった。

 厚地の布を肩に負い、地を擦りそうな裾をたくし上げた自分を窓に映し見て、ようやくああと声がこぼれたのだ。同時に映った別の子どもたちの顔に、なんとはなしに優越感を覚えたのも確かだった。

「おめでとう、ハルミヤ」

 院長が笑う。

 孤児院に勤める者たちは、そこに暮らす子供たちの名字を呼ばない。意味を為さないと知っているからだ。代わりに個人を示す名は、学院長テオドールによって与えられた者が半数、自らの親から授かった者がもう半分。ハルミヤも院長に名を受けたうちのひとりだった。

「エツィラ、きみもだ」

 ――連なるようにして呼ばれた名も、また。

 振り返る。眼前に広がった、窓に映ったものとまったく同じ景色。けれどもそこに伸びた影は、似た姿をしてこそいても、決して自分自身のものではなかった。

「……ミィ、」

 呼びかけは懺悔に似ていた。

 一足先に法衣を纏ったエツィラは、困惑の瞳で姉を見つめている。そこにちらりとよぎった罪悪感が、ハルミヤの胸に氷塊を投げ落した。

「驚いたよ。奇跡みたいだ。二人揃って試験に合格だなんて」

 祝いの声は彼方へ流れ、圧迫感が鼓膜を支配する。

 なぜ、なぜ、何故。何故お前が、お前なんかがそれを着ている。お前が何をしたというんだ、代わりに何を捨てたというんだ。そんなものは必要ないだろう、お前にはいらないはずだろう――次々とあふれだす詰問は、名前も与えられぬまま、喉の奥で死んでいった。

 今なら理解できる。見誤らずに掴みとれる。

(あのとき、確かに、私は)

 双子の妹に、嫉妬を覚えたのだ。


     *


 歓声に揺り起こされる。それをフード越しに耳にしながら、ハルミヤはそれまで地に這わせていた視線を持ち上げた。花弁は絶えず撒き上げられ、あちこちを火花のように舞い踊る。耳をそばだてれば歌が聞こえた。光を、龍を、神殿を、国を言祝ぐ、祝いの歌だ。

「ハルミヤ」

 ふいに届いたささめきに、ああ、と生返事をする。それからすまないと付け加えた。

「考え事をしていた。なにか用事か」

 何度か呼びかけを続けていたのだろう。横に並んだラケイユは、今や余所見もせずにハルミヤを見下ろしていた。瞳を和らげ、いや、と首を振る。

「長々と地面を睨んでいたものだから、気になっただけだよ。無理やり引っ張りだしたことは自覚しているけど、そうも嫌そうな顔をされると」

「気のせいだ。この状況下で、無神経だとは思っていたけどな」

「少しぐらい無神経でないと、付き合ってもくれないくせに」

「黙れ」

「はいはい」

 悪態こそつくものの、ラケイユがそれとなく人ごみを選んで歩いていることにはすでに気が付いている。巡回する護神兵の目に付かないようにとの配慮なのだろう。その如才なさにハルミヤはひとり舌を巻いていた。

 しかし人波に揉まれ、ラケイユを見失いかけるのも何度目かわからない。四つ目の大通りを渡り終えたところで、ハルミヤは荒々しく息を吐いた。

「わざわざ街にまでくり出して何がしたいんだ。人に呑まれたいならひとりでやればいい」

「きみがいないと意味がないんだ。悪いけどもう少し頑張ってくれ、子供みたく背負われたいわけじゃないだろう」

 ラケイユはひらひらと手を揺らす。茶化すな、と切り捨てて、ハルミヤは首を振った。

「お前はいつもそうだ。大事なことだけはてこでも話そうとしない」

 恨みを込めて睨んでやれば、ラケイユは意外そうに瞬きをする。

「きみを裏切ったことはなかったろう」

「気まぐれだろう。もしくはただの同情だ。いつ気が変わるとも」

「変わらないよ」

「……どうだか」

 言い合ったところで疲れるだけだ。ハルミヤは早々に会話を断ち切って歩を進めようとする。しかしラケイユは頑として動こうとしなかった。

「おい、」

「裏切らないさ。見捨てない」確かめるように繰り返す。「ずっときみを見てきた。拾い上げたのは、それでは足りないことに気付いたからだ。……もう十分だ、たくさんだ。何度も同じ茨の道を行くなら、きみのその手は俺が引く」

 左手が掬いあげられる。それを意識したときには、くるりと器用に握りこまれていた。骨ばった指、薄く汗のにじんだ掌の感触に、ハルミヤは思わず息を詰める。

 そのまま何事もなかったかのように先導され、腕を引かれるままに歩きだす。耳に残った声はいつまでも消えず、鼓膜と耳殻の間で反響するように思われた。ほら、と解放されたのは、通りの一角にさしかかったときだ。

 中央街を離れたのだろう。見れば人気は少なく、祝祭の賑わいも遠方にある。唐突に手を離された反動で、ハルミヤは長椅子の上に腰を下ろしていた。

「ここで少し待っていてくれ。あとで迎えに来るから」

「おい、説明は」

「しないよ。話せばきみは逃げ出すだろうし」

「逃げ……誰が」

「そうやって、せいぜい気を張って座っていてくれ。さっきの今で神殿に売り渡すようなことだけはしないから」

 ラケイユは耳の紅石に触れながら、これに誓って、と付け足した。とはいえ自身の誓いに重みのないことは彼とて百も承知なのだろう。ハルミヤの反論が飛ぶ前にと早足でその場を離れていく。

「なんなんだ」

 ぼやき、フードを引き下げる。思い出したように左手が熱を持つので、水気を払うように振り払う。最後に小さく舌打ちをした。

 一日の我慢だ。そう自分に言い聞かせる。ラケイユの気が済むまで付き合って、フードの対価を払い終えたら、あとはどこにでも好きに出ていけばいい――ぼんやりと考えた末に、ハルミヤはふと思考を止め、目蓋を下ろした。

(そうして、何をしようと言うんだ)

 学院にいたころには目的があった。雪原に放り出され、王都に戻ってきたそのときにも。だが惰性で王宮に居を置いている自分に、どんな目的があるというのだろう。

 力なく息をつく。両の掌を見つめ、その中に風を生み出そうと試みた。当然のようにそうしていた日のことを思い出しながら、龍の痕跡を自分にたどる。しかし術は一向に編み上がらなかった。諦めて手足を放り出せば、倦怠感だけが体に募る。

 ――お前が望むものはなんだ。

 ――きみ自身が求めていることを知りたい。

 連なる声に追い立てられる。ハルミヤは唇を噛み、しばらくして、わかっているよとひとりごちた。

 どんな忠告にも、どんな問いかけにも、応えることをしなかった。馬鹿馬鹿しいと叫んで投げ出した。逃げ回っていたのは自分だ。そうしているうちに、いつか自分すら見失ってしまった。がむしゃらに怒り憎んだ、あの激情さえも薄れてしまった今、ふと立ち直ってみれば、ハルミヤという少女に残されたのは虚ろな生への執着だけだった。

 本当に愚かだったのは誰だ。本当に盲目であったのは。望むことすら諦めていたのは。

 うまく呼吸ができず、縋りつくように顔を上げる。奇しくも通りがかった人影がハルミヤの前に立ち止まるところだった。

 纏う法衣は神官に与えられるものだが、使い古された風はない。街中を歩いていたのだろう、粉塵こそまとわりついているものの、皺やよれは見当たらなかった。ハルミヤは辿るように持ち主の顔を見上げて、そこで呼吸を止める。

「イシュティア」

 こわばった口元から、名前がひとつ、こぼれ落ちた。

(…………あ)

 迷いが生じる。

 取り繕うことはできた。できたはずだった。言葉を尽くして否定すれば。しかし焦りが前に出た。逡巡の果て、ハルミヤが始めに選んだのは、青年の顔から目を逸らすことだった。

 瞬間。失敗した、と悟る。

(逃げだ)

 硬直した頭が、ふたたび回り始める。ラケイユがハルミヤをここへ導いた意味、それを明かさなかった理由にようやく思い至った。逃げるだろうからと苦笑を交えた訳にも。

 手はほかにもあった。それでも逃避しか選べなかったのは、ほんの欠片でも、負い目を感じてしまったからだ。

「イシュティア」

「違う」

「イシュティア、だろう」

「違う……!」

 駄目だ。駄目だ。踏み入らせては、立ち入らせてはならない。見つけ出されたが最後、暴かれてしまう。伏せてきたものまで全て。目を背けたものまでもみな。顎が震え、呼吸の仕方を忘れても、大きく首を振り続けることしかできなかった。逃げることしか選べなかった。

「……っ、こっちを見ろ、ハルミヤッ!!」

 叫びが耳朶を叩く。

 知らず、肩が跳ねた。喉奥に小さな悲鳴が響く。目を背け続けることはもう許されなかった。

 ゆるゆると顔を上げる。始めに視界に入ったのは空色の瞳だった。続き、その奥に映る怯えきった娘の顔。青年の通った鼻筋も、日に焼けた肌も、数ヶ月前に目にしたときと変わりはない。ただ顔面に浮かぶ表情だけは、ひとまわりもふたまわりも大人びていた。

 セルジュ。

 かろうじて動いた唇に、けれども、声が伴うことはなかった。

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