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龍翼のディオスクロイ  作者:
九章
52/66

 なにが視察だ。寝台の中、呟いた途端に咳が出た。

 カーテンの隙間から漏れる朝日、その合間にちらつく埃の影を、ハルミヤはしばしの間眺めやる。時間は学院であれば始業の数刻前といったところだろう。

 付き人という立場を与えられながら、ハルミヤの待遇は客人であったころと変わらないままだった。仕事をするといってもラケイユの執務に同行するか外出の荷物を整えるぐらいのもので、ほかは女中たちがすべてこなしてしまう。手持無沙汰になって庭園をうろつきまわるのが日課になっていた。

 この日も変わらず、髪を梳きながら寝台を降りる。すぐに足音がして扉が叩かれた。

「おはようございます、ハルミヤ様。シャルロットでございます」

「ああ」

 起きていることを伝えると、少女の顔がひょこりと覗く。すでに朝の仕事を終えたのだろう、女中服には煤の跡があった。

「本日は殿下と町へ出られるのですよね。お召し物も普段とは別のものをご用意いたしました」

「あまり豪勢なものは……」

「ええ、人目につかないものを、ときつく申しつけられております」

 シャルロットが抱きかかえていたのは、麻で織られた町民服だった。上衣と下衣とがひと繋ぎにされ、裾や袖はゆったりと取られている。法衣の上着に似てはいるが、薄手の生地であるために風通しがいい。仕着せに比べれば、身を締める部分がないぶん気は楽だった。

 ハルミヤが粛々とそれを身につける傍ら、シャルロットは今にも踊りだしそうに表情を輝かせている。そうでした、と取りだしたのは髪飾りの詰まった小箱だ。ハルミヤはげんなりとそれを見る。

「……シャルロット」

「か、飾り気のない町娘なんていませんわ! こちらの花飾りなら高価には見えませんし、……身分を隠していらっしゃるとはいえ、殿下とお並びになるのですもの。今日は祝祭日ですし、少しぐらいは」

 急に、空気が薄くなったかのように思われた。ハルミヤは肺の浅い部分で呼吸をし、やがて疲れきって首を振る。

「祝祭は、お前が期待するようなものじゃないよ」

 思いのほか、低い声が出た。

 年に一度、三日に渡って続くディルカメネスの祝祭日。原初の神子が命龍との契約を交わしたとされる春季の一日を始まりとし、国を挙げて龍と神子とを言祝ぐ祭りの期間だ。国じゅうから集まった商人は市を開き、楽団は聖歌を奏で続ける。

 そんな祝祭日に重ね執り行われるのが、神学院の卒院式だった。わずか数人ばかりの生徒が学院を離れ、神殿へと召し上げられる祝いの日。初々しく新品の法衣を纏った彼らは王都のあちこちで喝采を浴び、期待を胸に自らの未来を思うのだ。

 しかし彼らはまた気付くことになる。祝いの言葉に紛れこんだ揶揄、新たな神官を取り込もうとする貴族たちの存在、清廉潔白な信仰の輩など数えるほどもいないということ――そうした後ろ盾がなくば、彼らもまた神殿の床を踏み続けることすらかなわないということに。

「あそこは獣の巣窟だ。神殿のつてが欲しい貴族は、皆が皆舌なめずりをしながらこの日のことを待っている」

 ハルミヤは化粧台の前に座り、髪に手が掛けられるのを待つ。肩を落としたシャルロットを鏡越しに見て、仕方なく振り返った。

「別に、楽しむことを非難するわけじゃない。私にはそれができないというだけだ」

「申し訳ございません……」

 しぼんだ声がこぼれた。

 考えずともいいところにまで気を傾け、それゆえに自ら傷ついてしまう。人の心の機微には聡いが、受け流すには純朴が過ぎる。ラケイユが彼女を自分にあてがった理由が分かった気がした。

 構うなとは言わず、顎を引く。シャルロットの名を呼んだ。

「花飾りをつけるんだろう。目立たない分には構わない、好きにしてくれ」

 シャルロットが息をのむ。

 こわばっていた頬は、やがて彼女が手にした青花のように、あどけなくほころんでいった。


「遅い」

 扉を開けるなり、叱責が飛ぶ。次いで振り返った相変わらずの無表情を、ハルミヤは諦め交じりに眺めやった。

「あちらこちらと連れ回されているお前が悪いんだ」

 与えられる衣服を片端から放って捨てたのだろう、寝台や絨毯の上にはドレスが散乱していた。絹糸で織られたそれらは穏やかな艶を帯びており、裾や袖には余すことなく刺繍が施されている。どれも見るからに値の張りそうな代物だった。ハルミヤをアルヘナのもとへ導いたシャルロットもまた、室内の異様な有様に口元をひきつらせている。

 しかし何よりも異様なのはアルヘナ本人に違いない。埃一つなく整えられた部屋の中に、彼女はひとり、薄汚れた法衣姿で佇んでいるのだ。神官を王宮内から追い出したばかりの国王が見れば卒倒しそうなものだった。

 アルヘナはハルミヤの頭から爪先までをねめつける。その間に憤慨も冷めてしまったらしい、目を細めて言った。

「夢で会って以来か。随分と憔悴しているな、ハルミヤ」

「え」

 声を上げたのはシャルロットだった。またご無理をなさったのではと背中に怒気を露わにする。その口が言葉を吐き出す前に、ハルミヤは彼女の肩を押した。

「悪いが出ていてくれないか、こいつと話がある」

「ハルミヤ様!」

「あいつが来たら龍のところにいると伝えてくれ、文句はあとで聞くから」

「ちょ、ちょっと」

 ぐいぐいと追いやって、扉を閉めてさえしまえば、シャルロットはもう入ってこない。代わりに「殿下とお呼び下さいませ!」と一声叫んで廊下を歩いて行った。

 怒りを秘めた足音を聞き流し、あとが怖いなとハルミヤは溜息をつく。喉を空気がすり抜けるたび、引っ掻かれるような痛みを感じていた。

「……体調が悪い。傷の治りも遅くなった。盟約が薄れたせいか」

「薄れているというのであれば、それはお前自身の責任だろう」

 アルヘナはなんでもないことのように言い放ち、寝台に腰を下ろす。腕を組んで続けた。

「お前が海に飛び込んだとき。私が龍の姿を取り戻したのは、お前から意志が失われたためだ。他のなによりも力強く盟約に爪を立てた、生への執念がな。ゆえに盟約は消えかかり、私を結ぶ戒めが解けた。……お前が再び生を選んだ今、もう同じことはかなわないが」

 緑の瞳は爛々と輝き、ハルミヤを見据えている。本来の姿を得た龍を引き止められる者など、ディルカメネスには存在しなかっただろう。

 死を受け入れたことが、結果、ハルミヤを救い出す契機となったのだ。その皮肉に下唇を噛む。アルヘナが薄く笑んだ。

「だが、未だお前の拍動は揺らいでいる。その有様では力を引き出すこともできまい。雪原で私を惹きつけたあの激情も、ずいぶんとまあくすぶったものだな」

 ハルミヤは唇を結ぶ。嘲りを滲ませた声色は神経を逆撫でこそしたが、言い返そうとする気力は湧かないままだった。

 そうして思い返す――生を望むことそのものが意志であるというならば、雪原に放り出されたあのときほど、命に縋りつこうとした瞬間はなかっただろう。

 動かぬ手足を責め、自らを排斥した神殿を憎み、なにより一つとして理由を知らされなかったことに憤った。行く先も見えぬ吹雪の中、ハルミヤを這いずらせていたのは自他に向けられた怒りと憎悪、すなわちアルヘナが激情と呼ばう感情に他ならなかったのだ。

 銀の毛先が目の前にしだれ落ちて、ようやく長く黙り込んでいたことを自覚した。気付けば透明な瞳がハルミヤを映している。

「あれだけ時間を置いておいて、わざわざ私に顔を見せに来たのだ。夢でかけてやった問いに答えが出たのかと思ったが」

 どうやら違うらしい。至極どうでもよさそうに嘆いてみせながら、アルヘナは余所を向く。その横顔は霧のような憂いを纏っていた。

 ハルミヤは胸に引っかかるものを覚えて、ふと顔を上げる。

「アルヘナ。夢がお前の見たもので、私がそれを覗いたのだとしたら、あれはお前自身の記憶か。……命龍シルヴァスタは、お前の妹なのか」

 問いかけは確信を伴っていた。しかしアルヘナは表情の一つも変えず、滑らかに視線を滑らせるだけだ。沈黙の果て、音もなく溜息を漏らす。

「龍は龍の死から生まれる」

 そう、諳んじるかのように、銀龍は言った。

「死した龍の記憶を命に焼きつけて、新たな龍は生を受ける。屍の上、彼方の野原、氷山のふもと、最果ての地に。そこには親もなければ子もない。無論兄弟の縁も生じない。私とシルヴァスタはただ、同じ地に生まれ育ったというだけのこと」

 ハルミヤは眉間に皺を作る。生殖を行わない生物の例に心当たりはないが、アルヘナがハルミヤを謀る理由も思い浮かばない。信じるほかにないとはいえ、素直に受け取ることも拒まれた。

「死んだだけ生まれ直すというなら、お前たち龍は生まれたその日のまま、数を減らしていないのか。人間と交わりを持ったときのまま変わらず?」

 だとすればそれはおかしなことだ。太古、龍は大地のいたるところに存在し、その脅威をあまねく知らしめていたというのだから。同じだけの龍が生き延びているとすれば、ディルカメネス一国のみが彼らの力を享受するような状況は起こり得ない。

 アルヘナは頷くでも首を振るでもなく、黙って目蓋を下ろす。

「龍が消えるとすれば、それは約を破ったときだ」

「……約」

「人との盟約のもとに、多くの龍が姿を消した。それは確かなことだ。彼らは新たに生まれることはなく、記憶を受け継ぐこともなかった」

 だからこそ。区切りを置いて、アルヘナは目を細める。

「シルヴァスタ。あの龍は愚かだ。永遠などという、ありもしないものを約した」

 ひときわ空虚な響きが、部屋に静寂を満たしていった。散らばった衣服の残骸すらハルミヤに屍を想起させ、積もり積もった過去を思わせる。

「負った傷を癒したところで、痛みを忘れるわけではない。病を覆い隠したところで、皮膚の内側で膿み腐るばかりだ。シルヴァスタの約したもの、永久の栄光など、この世のどこにも存在しない。この国とて龍の力で誤魔化した偽りの楽園に過ぎん。あのシルヴァスタが自らを削り作り出しているだけ」

「命龍が、身を削っている?」

 口を挟めば笑われる。その通りだよと龍は獰猛に口角を持ちあげた。

「龍の気配は失われている。刻々と、お前たちが気付かぬほどの時間をかけて。だがそれもいずれ終わりを迎えるだろう。尽きぬ命がない以上、命龍もまた、ひとつの生物に過ぎないのだから」

 神の死がもたらすもの。想像することは容易かった。

 いくら命龍が弱りを見せたところで、神殿は決してそれを明かそうとはしないだろう。だが綻びはどこかに表れるはずだ。

(先代の神子が夭逝したことにも関係があるのか……?)

 ハルミヤの熟考を、ノックの音が遮った。

 返事を待たず扉は開かれ、廊下に立つ青年を招き入れる。髪を下ろしたラケイユは藍染めの法衣を身に纏っていた。肩をすくめ、「そろそろシャルロットの胃が心配だな」と軽口を飛ばす。

「お前、その格好」

「経験上、街を歩くには便利でね。……ああ、その髪飾りはいいな。似合っている。さすがはシャルロットの見立てだ」

「どうでもいい。おい、本当に目的は視察なんだろうな」

「まあ建前は」

「そんな事だろうと思ったよ!」

 叫んだところで、ころころと笑われるだけだった。

 祝祭の視察など、そもそも本来一国の王太子が自ら行う仕事ではないのだ。大方父王の許可も得ず、彼ひとりで決行したことなのだろう。シャルロットの慣れきった対応から伺うに、ラケイユが供をつけないのもそう珍しいことではないらしい。

 引き止めるべく言葉を尽くそうとも、ラケイユには端から聞き入れるつもりがないのだ。ハルミヤの首元にかかったフードをさらうと、銀の髪を覆うように被せる。

 ――対価に。

 無言の命令は、ハルミヤの口答えを許さなかった。

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