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龍翼のディオスクロイ  作者:
八章
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 くゆる、甘い花の香り。こもった空気に溶け込んで、追いかけようとすれば離れていく。嗅いだ記憶のあるそれの名前をたぐり寄せようとするうちに意識が冴えた。

 続いて目に入ったのは、幾何学模様の天井と、石造りの柱。汚れひとつない壁にかけられた油絵は果物を描いたものだった。部屋の隅の机では香が焚かれ、淡く煙を漂わせている。花の香りがしたのはそのせいなのだろう。

「あ……お目覚めですか?」

 消え入るような声に、初めて第二者の存在を悟った。

 小ざっぱりとした女中服の少女だ。ハルミヤの枕元まで寄ってきて、ぱちぱちと目をしばたかせる。

 癖のついた金髪とまるい頬は幼い印象を感じさせた。呆然と青い瞳を見上げていると、彼女は覗きこむようにして身を乗り出してくる。

「お体のほうはいかがですか。酷く、お怪我をされていたようでしたけれど」

 気遣わしげな視線が鎖骨のあたりを滑る。正確にはその裏側、肩甲骨の狭間を。異端者を示す焼き痕は、まだはっきりと残されているのだろう。

 そこに至っていま一度自分をふり返る。どうやら眠っている間に着替えさせられていたようで、肌触りのいい布に身を包まれている感覚があった。砂利や汗もよくよく拭われたのだろう、今は清潔な寝台の上に横たえられている。

「……どれぐらい」

 低い声で問うと、少女は小さく肩を揺らした。ええと、と天井を見上げる。

「ここにいらっしゃってから丸一日でしょうか」

 答えている間にも、彼女はきょろきょろと視線を漂わせている。どうやら気にかかることがあるらしい。ハルミヤが黙りこむと、申し訳なさそうに居ずまいを正した。

「で、殿下をお呼びしてまいります。少々お待ち下さい」

「いい」

 声は部屋の扉から響いた。

 そこにラケイユの影を認めるや否や、少女は肩を震わせ、一礼のもとに身を引いていく。逃げるように部屋を出ていく様子は栗鼠のようだった。足音は壁越しにも伝わる有様だ。女中としての勤めも日が浅いのだろうということは容易に察せられた。

 彼女の姿を横目で見送ってから、青年は寝台へとまっすぐに歩み寄る。身を締める服装がそうさせるのだろう、歩調は固く、背筋はぴんと伸ばされていた。学院の中では流していたままの髪も、今は丁寧に撫でつけられている。露わにされた耳元に光るのは紅の石だった。

 神殿の純白、王家の深紅。神たる龍と血なる王、だ。どうやら気を失う寸前に聞いた名乗り上げも嘘ではないらしい。ハルミヤの目に気付かぬわけではないだろうが、彼はそれを咎めることもなく、ただ和やかに笑うだけだった。

「すまない。あまり人慣れしていないから」

「王室の人間は、人慣れしていない娘を女中に置くのか」

 ラケイユは虚をつかれた様子で息を詰めたが、すぐにくつくつと笑い出す。その片手間に椅子を引いてくると、寝台の隣に腰を下ろした。

「まだ手習いの途中でね。あんなことがあった後で」息を切って、肩をすくめる。「大騒ぎになっている。誰から誰までこぞって駆けまわっているから手が足りない」

「騒ぎ」

 ハルミヤが眉を寄せると、彼はそうだねと頷いた。

 指先を組み合わせ、やや顔を背けると、何から話そうかと思案する様子を見せる。その横顔に言いつけた。

「最初から話せ。お前のことから、全てだ」

「……俺のこと、と言ってもね。きみが考えていることが全てだと思うよ」

 言いながら、指先を胸に添える。目礼をして、歌うように告げた。

「ディルカメネス王国、現王ギュスターヴの第一子にして王太子、ラケイユ・ルイ・ブランシャール・ド・ディライ。未来の国王と言ったほうが通りはいいかい」

「そんな人間が、何故学院に通っていた」

「神殿の内部事情を探るにはちょうどいい場所だろう? 危険に晒されることもない、不要とはいえ教養を身に付けることもできる。王子の存在自体は神殿側に悟られていただろうけど、あちらも学院の生徒には表だって手出しはできない」

 学院から一個人を特定する手間は、砂漠の中から麦の粒を探すためのそれに等しい。神子候補としてあぶり出す――ハルミヤにしたような強硬策も、そうそう取ってはいられないだろう。神殿が学院に信頼を置いていることは、確固たる事実として示されていなければならないのだから。

(私の処刑が契機になったか)

 学院が起こした不祥事は、神殿に取り調べの権利を与えたことだろう。ラケイユが割を食う形になっていてもおかしくはない。日の光が窓を照らすこの時間、彼が学院にいないことがその証拠であった。

 ハルミヤの思考が終わるのを待っていたのだろう、ラケイユはいくらか時間を置いてから再び口を開く。

「それにあの場は色々と動きやすくてね。第一に、王太子なんて肩書きを持った人間が、他愛もない理由で国外に出られるんだ。表面上は、疑われることもなく」

(この男……)

 言葉を受けるにつれ、苦々しい思いがこみ上げる。思い当たる節はいくつも見つかった。

「なら、あのとき港にいたのも」

「理解が早いな。うん、そういうことだ」

 神殿の統制を受けるもことなく、相応の身分の人間を他国へ送り出すことができる。閉塞した王家にとってはこの上なく便利な駒といえるだろう。

 しかし一方で、彼が街路に身を晒す危険を伴っているのもまた事実だった。国々の境を身一つで歩くともなれば、偶然すれ違った粗忽者に刺殺されてもおかしくはないのだ――その背後に、誰が潜んでいるのかも知る術のないままに。ハルミヤが眉をひそめるのに気付いてか、乾いた苦笑が落とされる。

「俺には実弟がいるから、最悪の場合は彼が王位を継ぐことになるだけだよ。……そうでなくても譲ってやりたいのが本音だけど、まあ、これはどうでもいい」

 わずかに垣間見せた影も、次の瞬間には瞳の奥に消し去っている。「ここからが本題だ」と前置きをして続けた。

「きみのことだけれど、今は客人として王宮に迎え入れている。銀の龍、アルヘナと名乗った彼女も」

「龍の姿のまま?」

「人の姿だよ。不便だと考えたのか、こちらの意図を酌んでくれたのかは分からないけど。……とはいえ、あの一度だけでも、処刑場においては十分な見せ物になった。彼女が銀龍としての姿を露わにしてくれたおかげで、こちらにはきみたちをかくまう大義名分ができたんだ」

 新たな龍を王家の監視の下に置く、ということだ。それが死刑囚を保護することのたてまえになったのだろう。丁重な手当てを受けたのであろう体、それを覆う豪奢な毛布に目をやり、芋づる式に理解する。

「客人などという形を取ったのは、龍の力を目当てにしてのことか」

 しばらくの無言が降りる。ややあって、ラケイユがやれやれと首を振った。

「……察しが良いのも、程度を過ぎると少々怖いね」

「そうでなければやってこられなかったからな」

 状況を把握すれば余裕が生まれるらしい。減らず口を叩き、鼻を鳴らす。

 ハルミヤと銀龍の存在は、王家にとって起死回生の手段になり得るだろう。龍とそれを抑えつける手綱、そして何より二匹目の龍が現れたという事実が、王家側に確かな力を与えるのだから。

(思惑はどうあれ、害される心配はない、か)

 ひとまずの安全を確信できただけでも十分だった。こわばっていた肩から力を抜いて、幾分か緩んだ目をラケイユに向ける。彼はおやと眉を揺らした。

「随分と余裕だ。利用されてもいいということかな」

「少なくとも寝首はかかれずに済む。夜な夜な乱暴をされることもない」

 気を張らなくとも眠っていられる、ということのありがたみを思い知らされたところだ。新たな傷を負うことが無ければ、体の痣も徐々に消えていくだろう。

 一度目を閉じ、再び開き直してみれば、ラケイユの瞳には別の色が映っている。正体を見極めようとする暇もなく、それは巧妙に隠れていった。彼はおもむろに立ち上がると、椅子を文机に戻す。

「話が早くて助かるよ。その意志を国王陛下に表明してもらえるなら、しばらくの平穏はきみのものだ。……ああ、この部屋は好きに使ってくれていい。なにかあればさっきの女中に言ってくれ。応えうる限りで叶えるように伝えておく」

「おい」

 ぎょっとして呼びかけた。すべきことは済んだ、とばかりにさっぱりとした表情をしているのだ。どうやら現状の説明以外のことをするつもりはないらしい。

「面倒なことになりたくないなら、王宮をひとりで出歩くのは避けるのが無難だな。きみへの風当たりも強いだろうから。どうしてもというときは俺を呼んでくれればいい」

「おい、ラケイユ」

「ともあれまずは食事か、数日はここに運ぶよう手配しておこう。苦手なものは」

「……な、特に、なにも……いやそういうことじゃない、」

「良かった、それじゃあまた後日顔を見せることにするよ。ごゆっくり」

「聞け――!」

 叫び、閉じきった扉に枕を投げることになる。ぽふんと音を立てて転がったそれを睨みつけた。

 よく理解した。彼が人の話を聞かないのは、立場や格好を変えたところで同じことなのだ。気を逆立てることの巧みさも生来のものなのだろう。酷く消耗した気分で寝台を殴っても、怒りを向けるべき相手はもういなかった。歯がみをしたところでふと我に返る。

(……呼び止めてどうする)

 彼がここに留まったところで、投げかけるような問いはひとつとして浮かばないのだ。

 ならば腹を立てる必要もない。とんだ空回りをしたと息をついた。血の上りきった脳を冷やすように、数度に分けて深呼吸を行う。毛布をかぶり直し、ごろりと寝返りを打った。

(わけがわからない)

 頭がうるさい。――今は、何も考えずに眠りたいというのに。

 次第にうつらうつらと揺らぎ始めた目蓋を、これ幸いと閉じようとする。しかしそれを見はからったかのように先の少女が姿を見せたので、ハルミヤは必死で舌打ちを堪える他になかった。

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