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龍翼のディオスクロイ  作者:
八章
45/66

 荒い呼吸が聞こえてくる。

 民は疲れきっている。彼らの前を、横を、時には間を縫って歩みを進めていればよく分かった。長い旅路に足腰は鍛えられていたはずであったが、積もり積もった雪の上を行くうちに、その体力も次第に奪われていった。女こそ歯を食いしばって歩き続けていても、老人や子供まではそうもいかない。男衆に背負われる者、肩を借りる者、ふいにうずくまる者がいた。しかし一団が歩みを止めようものなら、皆揃って吹雪に呑まれる。体を震わせながら、遅れる者を見棄てながらも、進み続けるほかになかったのだ。

 行列の中ほどを歩いていた男が、周囲を見回し、にわかに足を速める。ほどなく人々の先頭にまでたどり着くと、そこに立つ少女の横に並んだ。

「王よ」

 銀の髪、蒼い瞳の、齢二十を越えぬ娘であった。こわばった表情を強いて動かすと、なんだ、と苦しげに微笑を返す。

「ガストンが息絶えました。ユベール、マルセルも相次いで」

「……そうか」

 顔を伏せた、娘の唇が震える。健やかな薔薇色を帯びていたはずのそれも、今や冷気に青ざめていた。一度その内側を噛んで、彼女は再びこうべを持ち上げる。

「ならば、彼らのぶんも、歩かなければいけないな。私たちは、ここに、生きる場所を見つけなければ」

 男は押し黙り、十と数歩を進んだところで、低く呟いた。

「……見つかるのですか、本当に」

「トリスタン」

 鋭い声が飛んだ。少女が後続の者に一瞥を投げるそぶりを見せると、男はやや声を落とした。

「雪原を歩き始めて、もう五日になります。万近くいた民も、その二割近くを失っている……誰も彼もが年寄りと子供です。女にも限界が近い」

「来た道を引き返せば、もう二割が死ぬ。この地を出れば再び忌まれるだけだ。そうだろう」

 トリスタン。再び名を口にして、少女は男の顔を仰ぐ。

 彼もかつては先王の片腕を担った男だった。たび重なる迫害の歴史に産まれた流浪の一族は、血脈によって継がれる王にその運命を託している。数ヶ月前に命を落とした父に代わり、一人娘である彼女が王の名を得て以来、彼もまた少女の傍らに控える立場となっていた。

 娘同然の子供に命運を預けることとなった男の心は知れない。しかし彼の思いはどうあれ、二十代を越えて受け継がれた王の位は、民からの無条件の信頼を勝ち得るには十分だった。

 ゆえに、曲げるわけにはいかないのだ。自分の選択が間違いであったと認めたが最後、数百年に渡る逃避行さえ無意味なものとなる。雪鳴りを耳に聞きながら、少女は白く息を吐いた。

「誰の手にも渡らぬ場所へ、行かねばならないのだ。この地を開墾し、壁を築いて、私たちの国を作らねばならない。それがかなわなければ」

 死ぬだけだ。ひときわ低い声で言って、唇を引き結んだ。

 誰も望んで死へ向かうわけではない。死なねばならぬとすれば、それは誰にも望まれなかったときだ。

(なぜ、救われないのだろう)

 重い足を引きずり、積もったばかりの雪を踏みしだいていく。

 涙はとうに枯れていた。吹雪は血液すらも凍てつかせるかのようだ。ため息は吐き出した先から氷の粒となって落ちていく。ひとりひとり、肩の上に積み重なっていく死の報せを受けながら、なおも王は歩み続けなければならなかった。

(私が間違っていたのなら、罰されるのは私だけで十分だろうに……)

 空は徐々に暗くなる。やがて夜が来るだろう。風雪が緩んだのを機とし、気温が下がる前にと休息用の仮の宿を組みたてるよう指示を出す。冷気を防ぐには頼りないが、少なくとも雪避けにはなると踏んでのことだった。

 一面の灰色に、布の屋根がぽつぽつと花開いていく。身を震わせて眠りにつく者たちの、一体どれだけが、朝には屍と化しているのだろう――暗い道行きに思いを馳せ、最後に床に入ろうとしたときだった。

 雪原から、音が消える。

 悲鳴のような風の音が、足元を叩く雪の音が、瞬く間に消え失せる。

「なにが」

 無音が耳をつんざく。呼吸を飲んでふり返った先にそれはいた。

 雪より、空よりもなお白く、自ら光を放つかのような純白の鱗。折りたたまれた翼は蝙蝠のそれに似ながら、白鳩を彷彿とさせる気品を持ち合わせている。細く引き締まった体躯に対し、塔ほどの背を支える足は力強い。唖然としたまま、少女はその場に立ちつくしていた。

「……龍」

 寝物語に聞くばかりの存在。今では子供でもその名を恐れぬ説話の中の生き物が、凛と坐していた。

 雲の間から覗く陽光を浴びて、鱗は白馬の毛並にも似た艶を帯びる。光を凝集したかのような瞳は銀色に輝き、虚ろなばかりの空を見上げていた。ゆるり、その目が向けられて、初めて少女は自分の存在を思い出す。

「何故、かような地を訪れたのです」

 問いかけられたと気付いたのは、龍の頸が自分のほうを向いてからだった。圧されるなと自らを叱咤すれば、曲がりかけていた腰も自然と伸びる。

「私たちに残された場所は、ここしかなかったから」

「この地に住まうと? 吹雪に耐える毛皮も、鱗も持ち得ぬあなた方が?」

 けなしているわけではないのだろうと直感した。言葉こそ厳しいが、問いかけはあまりにも無垢だ。少女はひとつ頷いて、龍の瞳の中に自分を探る。

「行く場所がどこにも見つからないのなら、新たに作るしかない。どこへ行けども憎まれる私たちは、……戦う力を持たない私たちは、そうするほかに道を知らないのだから」

 和解は拒まれた。同じ顔、同じ手足を持ちながら、一族はどこに住みつくことも許されなかったのだ。

 逃げ続けた年月のうち、世界は随分と色を変えていった。それでも彼らを受け入れる場所はどこにも見つからないままだ。

「龍よ」

 白龍が緑の目を細める。美しい瞳だ、と少女は素直に思う。見果てぬ雪原の景色がその色をしていたならば、これほどまでに恐れる必要もなかったのだろうか。

「あなたがここに棲む者であるなら、私たちはあなたを避け、住み得る場所を探すだけのことだ。いくらでも共存の道を探し、望むならばあなたを讃えよう。……だが、もう、追い出されるわけにはいかないのだ。龍よ、雪舞うこの地の、ほんの欠片でもいい。私たちに分け与えてはもらえないか」

 龍はしばらくの間、何も言わずに少女を見つめ返していた。

 人の子の分際で、と激昂を露わにされるのであれば、ひとりでも立ち向かう覚悟はできていた。民のため、やがて建てられるべき国のためであれば、命を賭すことも容易だ。腰に帯びたままの剣の存在が意識され、柄に触れた部分がじんと熱くなる。

 舞うほどの雪が再び降り出したのは、白龍が視線を逸らしたときだった。

「北へお行きなさい」

 囁くように言って、龍はそちらへ面を向ける。

「海岸沿いの風は温かい。ここよりは土地も肥えているでしょう。吹雪に耐え、この地に住まうと言うならば、北上なさい」

「……! 許しを下さるのか」

「人の子が、我らに許しを乞う必要がありますか」

 きょとんとする少女に向かい、龍がひとつまばたきをする。

「世界は龍のものでも、人のものでもない。ここに住みたいと言うのならそうすればいいだけのこと――」

 言葉を遮り、警鐘に似た声が降る。少女が空を見上げれば、鉛色の雲の下を銀の龍が旋回しているのが見えた。かれは少女を威嚇するかのように、風を唸らせながら翼をはためかせ続ける。人に対しよい感情を抱いていないのであろうことは容易に悟られた。

 白龍は憂うように目蓋を下ろす。その動作の女性的なことに、少女はわずかに動揺した。

「あれは私の片割れ。龍の中の龍」

「……兄弟か」

「姉のようなものです。私がかどわかされぬか心配なのでしょう。あなたが随分と勇ましいから」

 誤解だ、と叫ぶと、白龍が肩を揺らす。そのまま翼を開いていくので、笑ったのだろうかと疑う間もなかった。

「お往きなさい、人の子。あなたが龍を求めぬ限り、龍があなたを害することは無いでしょう」

 白い風が走る。獲物に飛びかかる狼のように身をかがめると、彼女は空へと舞い上がった。銀色と白色が交錯し、空の彼方へ消えていくのを見送ってからようやく、白龍の言葉が約のひとつであったのだと思い至る。

 龍の力――それは人には許されない力だ。両者の契約が、龍と人とを破滅に導いたと言われている。

(その力があれば)

 民を、救えるのかもしれない。

 漂いかけた思考を、首を振って引き戻す。安易な道には犠牲を伴うことをよく知っていた。甘言に惑わされ、骸となった仲間のことを、忘れたわけではない。

 元の通りに降りだした雪を避けるように、今度こそ布の屋根の下へと潜り込む。真白の輝きを眼裏から追い払うようにして目を閉じた。






(――龍を、忘れる?)


(できるものか)

(ディルカメネスは、もう、龍を失くしては立ちゆかない)

 だからこそ人は、龍を崇めているのではないか。

 一年を通し保たれた気候、吹雪を忘れた冬。害為す輩は凪ぎ払われ、傷は瞬く間に治癒される。それがディルカメネスだ。白龍シルヴァスタの加護なくしては存在しなかった国だ。始まりの神子は龍との盟約を結び、その足元に神話が作られた。人は彼女を崇め、その勇姿を語り継ぐ――龍の力を得た娘として、永遠に。

 彼女が求めたからこそ、今がある。訪れるべき未来を、自分は知っている。

 あまりにも強大な力を前にすれば、人は、それに手を出さずにはいられない――


「求めなかったよ」


 背筋に氷を押し当てられたかのようだった。

 気付けばハルミヤは、学院の法衣を纏って立ちつくしていた。前後左右に広がる暗闇に、そこが夢の中であることを悟らされる。あちらこちらをたゆたう銀色は、アルヘナの経た歴史の断片なのだろう。途切れかけ、再び結び直された盟約が、ハルミヤの意識を銀龍の元へと導いたのだ。

「あれは一度として龍を求めなかった。雪と風とに民を晒し、数多の骸を生みだしながら、土を掘り起こしては種を植え続けた。耐えきれずに声をかけたのも、力を差しだしたのも、……愚かなシルヴァスタだ」

 ハルミヤの脳裏に、向かい合う龍と人との姿が映る。

 娘は腕に少女の亡骸を抱いていた。彼女の四肢はやせ衰え、飢餓に倒れたのであろう屍のそれとも区別が付かないほどだった。龍の存在には目もくれず、すまない、すまない、と掠れた声で許しを乞い続ける。その輪郭が滲み、二重にぶれた。

 ――ごめん。

 ――……ごめん、なさい。

(ちがう)

 震えた吐息を否定する。違う、神子と自分とは違うのだ。立場も、境遇も、背負ったものも、まるで。

 抱かれた少女は彼女ではない、それを抱いているのも自分ではない。そう自らに言い聞かせ、こらえようと歯を食いしばっても、涙はひとりでにこぼれ落ちていく。

「今一度問う」

 銀龍が囁く。暗闇が氷解する。眩みかけた視界に、指の間をこぼれ落ちていった少女たちの姿がよぎる。

「ハルミヤ・ディルカ。お前が求めるものはなんだ」

 答えは見出されない。黙したハルミヤの手前、掌を叩き合わせるような音を限りに、闇が裂けた。

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