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龍翼のディオスクロイ  作者:
七章
44/66

 海流のぶつかりあう衝撃が、うねりとなって耳元に届いてくる。こぽりこぽりとたゆたう音を聞きながら、ハルミヤは何者かの腕に抱かれているような感覚を覚えていた。

 意を決したつもりでいても、いざとなれば身構えてしまうものらしい。着水の直前に取り込んだ空気はまだ腹の底にくすぶっている。それを吐き出す勇気も持てないまま、身をよじる力も湧きおこらないままで、動かぬ体だけが重石に引かれ、ゆっくりと海底に吸い込まれていった。

 浮かび上がっていく泡の粒を見送りながら、水面越しに空だけを眺め続ける。その元を歩いていた時分には、ただ暗いとしか思わなかった鉛色の空――しかし一度水底に沈んでみれば、雲間に揺らぐ淡い光でさえもひたすら鮮烈に瞳を焼いた。そうしてこれから訪れるであろう暗闇と、その先にある沈黙を予感する。

(眠る、のか)

 心臓が高鳴っているのに気付く。死の瞬間は、恐らく、苦しむことになるだろう。空気を肺に取り入れられない苦痛ならばよく知っている。だがそれを乗り越えてしまえば、あとは。

 その容易さに笑いだしそうになる。もうもがく必要も抵抗する必要もないのだ。最後に残されたものが奪われるのを待つだけでいい。あれだけ必死に執着し、踏みとどまろうとしていたのが、今となっては愚かに感じられるほどだった。

 ついに口からあぶくを吐き出した。大きな空気の塊に手を伸ばす。掴み取った、と思った瞬間に、指の間をすり抜けて消えていった。

 さようなら。誰にとも知れず告げて瞳を閉じる。視界が閉ざされる寸前、閃光を見た気がした。

(……ひかり、)

 海が淀む。衝撃に続き、胸に不自然な質量を押しつけられる。潮流よりも大きく身を揺らされるので、わずらわしさに耐えかねてうっすらと目蓋を上げた。

 瞳孔を刺す銀の光。――強大な、生命の主。

 太陽が遮られたにもかかわらず、水底は一斉に輝きを受け止めている。水面に、貝に、銀の鱗に、どこからか漏れ出した光が乱反射し、歌い出すかのごとくに煌めき始める。目を奪われれば、もう再び眠りにつくことはできなかった。

「ハルミヤ――!」

 泣き声。

 否、叫び声だった。空気を震わせ、水をもかき乱して、響きわたってはさざめきを呼ぶ。

 爬虫類に似た瞳の獰猛さに、ほんのひととき恐怖した。目を瞠ったハルミヤの前に、牙の並ぶ大顎が開かれる。馬鹿なと思う間もなく、胸から足首にかけてを一口に咥えられた。手足に繋がれた鎖が、一瞥の元に断ち切られる。水を掻くのは両翼だった。

 ぐんぐんと上り詰める。連れ戻される。身に受ける重い抵抗は拒絶のようだった。誰も望みはしない、誰にも望まれはしないのに。嫌だ、やめろ、帰りたくない、と願ったところで龍は無慈悲だ。

 水面を破る。悲鳴が聞こえた。静寂を失くした絶望に、放りだされる心地がした。

 砂の上に転がされて、やっとのことで呼吸の仕方を思い出す。喉奥から海水を吐き出し、涙をこぼしながら何度もむせ返った。苦しい。苦しい。呼吸を、心臓の鼓動を、言葉を――脆弱な命にしがみつくには、抱えなければならないものが多すぎる。

「なぜ、生かした……!」

 砂地に手をついたが、起き上がろうとすることは敵わなかった。一蹴りのもとに転がされ、仰向けにされた体に爪先が乗る。擦り減った刃を押し付けられれば、喉からはひゅうと呼気が漏れた。

「自惚れるなよ小娘」

 重圧はすなわち憤怒だった。銀龍の尾が浜を打ち、多量の砂を巻き上げる。その最後の一粒が海に呑まれる頃には、観衆の誰もが口をつぐんでいた。

「貴様の命を繋いでやったのは誰だ。私の命に縋りついたのは誰だ。この私を世界に繋ぎ留めておきながら、貴様はのうのうと死の安寧を選ぼうと言うのか」

 骨が軋む。背が砂地にめりこみ、地に触れた素肌には不愉快な感触が走る。内臓もろとも押し潰されそうなほどの圧迫感に歯がみをしても、頭上の緑眼は冷酷をたたえたままで揺らがない。

 頸が曲がり、牙が近付く。

 湿った吐息を浴びながら、ハルミヤの視線は龍の瞳に注がれていた。

「ハルミヤ」

 囁くように。あるいは希うように、龍はその口で呪いを下す。

「お前は選んだ。私と共に生きること、這いずりながら生き延びることを。その言葉が私を縛りお前と結んだ。ゆえにハルミヤ、お前の命はすでにお前のものではない。盟約がその心臓を動かし続ける限り、私は決してお前の死を許さない」

「……っ、お前一人の許しなどで生きていけるものか! 人を知らない龍の分際で……」

「だから愚かだと言うのだ」

 横腹から蹴り飛ばされ、体はわずかに宙に浮いた。二度、三度と叩きつけられ、転がって、砂粒を噛む。尾は再び地を揺らし、銀龍の憤懣を示した。

「同情を欲するなら縋れば良い。泣き叫ぶことなら獣にもできる。矜持を捨て、地を這い、無様に、憐れみを乞うてみろ。……それもできない、立ち上がることもできないで、何が許しだ。笑わせるな。人に産まれておきながら人に成れぬのも、すべてお前の臆病がゆえだろう」

 ――立てよハルミヤ。

 塔の頂点から声が降る。

「独りでありたいならなにも望むな。さもなくば縋れ。龍か、人か、選ぶのはお前だ」

 いっそ残酷なまでの拒絶だった。奥歯をぎりと噛みしめて、ハルミヤは砂に爪を立てる。濡れそぼった体に潮風が吹きつけ、ただでさえ低下していた体温を奪っていった。

 体の芯から震えが走る。見れば、忘れかけた傷が口を開いている。痛みと痒みに苛まれてようやく、自分が呼吸をしていることに気が付いた。

(望むとも、望まずとも、生かされねばならないのなら)

 せめて、自ら。

 両掌を砂地について、ふらつきながら体を持ち上げる。長く力を籠めることのなかった腕は、そこに至って頼りなく揺らいだ。一度、二度、転びかけては踏ん張って、やっとのことで立ち上がる。

 身に受ける風は唐突に強まり、視界は急激に広まった。見れば護神兵らの剣の切っ先、槍の穂先、弓の矢先は放射状にハルミヤへ向けられ、畏怖と敵意にぎらついている。その場から一歩でも歩み出そうものなら、ハルミヤという存在への認識は、神殿の脅威へと再び塗り替えられるのだろう。

 銀龍が鼻を鳴らせば威圧するように尾がしなる。観衆の間にどよめきが走った。

「龍」

「龍が」

「シルヴァスタではないのか」

「馬鹿を言え、命龍が罪人に手を貸すものか」

 怯えが伝播する。一方で突破口はどこにも見いだせない。龍の力を引き出せる自信もなかった。過去のやり方をなぞり直しても、そよ風のひとつも起こせはしないのだ。アルヘナに任せ強引に離脱したところで、逃げ場はどこにも見つからないだろう。

(生き延びたところで、同じだ)

 結局は崖の上に立たされている。

 ハルミヤが周囲を睥睨する一方、護神兵は得物を構え、ハルミヤの出方をうかがっていた。互いに息を詰めたまま、誰ひとりとして動こうとはしない。

 膠着を切り開いたのは、彼方の足音だった。浄罪の崖を回りこみ、人混みをかき分けて、何者かがハルミヤへと近づいていくる。その混乱に護神兵らの怒声が混じったところで、青年の影が群衆を抜け出した。

 貴人じみた装いだった。首元まで止められたシャツ、汚れひとつないタイの上、金刺繍の為されたベストを羽織る。はためきもしない脚衣を身にまとえば、その足の長いことをつくづくと思い知らされる。

 彼は勢いあまって転倒しそうになりながら、二歩三歩とつんのめって踏みとどまる。ようやく雲を抜けたばかりの太陽の光を、透きとおる金糸が弾いた。

「……ラケイユ?」

 とうに喉は枯れている。ゆえに驚愕に覇気を失ったそれは、声を持たない呟きのはずだった。

 しかし彼はついとふり向いて、見慣れぬ苦笑を浮かべてみせる。秘めごとを交わす子供のような無垢ささえもちらつかせながら。誰の制止も耳に入れず、今度は確かな足取りで、砂の上を歩いてくる。

「ハルミヤ」

 そうして呼ばれる。迷いなく伸びた指先が肩をなぞった瞬間、ハルミヤの膝はかくりと折れた。浜に両膝を、次に尻をついて、彼の双眸を呆然と見上げる。逆光に輪郭を濃くした影の形を。

 ラケイユはそんなハルミヤをかばうように立つと、ぐるりと観衆を見渡した。足を開いて立てば、蜜色の目がぎらつく。

「彼女――ハルミヤ・ディルカの身柄は、現ディルカメネス国王ギュスターヴの代行たる我が意志のもと、王宮にて預かることとする。これは私の判断、ひいては王室の判断によるものである」

「っ、馬鹿なことを!」

 真っ先に声を上げた神官に、数百の視線が集中する。彼はいっとき戦いた様子を見せたが、唾を飲み下してハルミヤを指さした。

「その娘は死刑囚だ! 司祭クレマンを殺害し、三十七もの護神兵を死に追いやった! 神に背いた大罪人だ、王家の独断が通じるとでも」

「その龍を」言葉を切り、ラケイユはアルヘナに顔を向けるそぶりを見せる。「手中に収めたのもまた彼女だ。命龍シルヴァスタの加護が国を吹雪から守るのであれば、かの龍の呪いが国を脅かすとも知れない。新たな龍の存在が認められた今、安易な死刑が、ディルカメネス全土をも死の淵に追いやるとしたら?」

 神官が言葉に詰まる。王家の人間としての立場を明らかにしたラケイユに対し、彼は一人の神官に過ぎない。当然国の重みを背にして発言するほどの胆力は持ち合わせていなかったのだろう。親の仇を見るような目でラケイユを睨んだが最後、一歩を退いた。

 龍の呪いの真偽はどうあれ、それが神殿への牽制になったことは確かだった。ラケイユの合図に応え、護神兵らの間から、王国兵がなだれ込んでくる。紅の旗を背にした彼らに囲まれながら、ハルミヤの視界は徐々に煙っていった。

 意識の途切れる寸前、ふいに肩越しにふり返った金が、痛ましげな色を宿す。

 幻を見たのだろう、と思った。

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