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龍翼のディオスクロイ  作者:
七章
43/66

「出ろ」

 バルクがハルミヤのもとを訪れてから十日ほど。手足の鎖は、あっけなく地に落とされた。

 無論自由が与えられたわけではない。ほどなく歩行用の手枷が嵌められ、なす術もないまま引き立てられることになる。道中、同様に捕えられていた罪人たちに憐みと羨みの入り混じった瞳を向られるので、とうとう時が来たのだと悟らされた。

(アルヘナよりも先、だったか)

 どちらを先に処したところで、片方の頸が落ちればもう片方の命もまた果てる。それを察していたわけではないだろうが、抵抗の意志を見せない少女を選んだのは賢明な判断だったといえるだろう。今やハルミヤには、虫一匹殺す力すら残されていないのだから。

 桶の水と布とで申し訳程度に体を清められ、比較的汚れのない衣が与えられる。首には竜の牙の模造品が下げられた。

 その後通されたのは、小ぢんまりとした礼拝堂だった。

 どうやら罪人のために作られた懺悔室であるらしい。見張りの兵と一人の神官に出迎えられ、ハルミヤは促されるままに膝をついた。

「……異端者ハルミヤ・ディルカ。神の徒を弑し、神に仇なさんとした罪人よ。そなたの罪は、浄罪の崖にて清められることとなる」

 浄罪の崖は王都の北方に位置する。突き出した崖の足元には海原が広がっており、その海流の複雑なこともあって、突き落とされた罪人は二度と浮かび上がらないとされている。罪の程度の重い咎人が、身を衆目に晒しながら処されるための刑であった。

「祈りを」

 瞳を閉じる。微笑んで去った片割れの背中が、温度を失くした少女の寝顔が、まなうらに現れては消えていくようだった。

 傷心にひたる猶予は与えられない。背を叩かれ、立つように命ぜられる。神官の無感情な視線を受け止めてから、ハルミヤは礼拝堂を後にした。

 回廊から門へ、そうして神殿の外へ。連れ立つ護神兵の数は次第に増える。しゃらりしゃらりと小型の鐘の音が響き始めた段階で、ハルミヤの周囲には神官と護神兵との行列が作りあげられていた。皆が皆、一定の歩幅を保ちながら、春待ちの風を切ってゆく。

「罪人か」

「中に誰がいるんだ?」

 処刑の噂も市井にまでは漏れていないらしい。暇を持て余した上流階級の者たちが、好奇心も露わに行列に混じっている。とはいえ死刑囚の顔をうかがうことは敵わず、命龍の加護の及ばない土地を北上するとあっては、野次馬じみた観客の数もやがて半分以下に減ることだろうと思われた。

 外門を抜け、耳を刺す冷気を無視しながら、点々と残る雪の間を進む。

 潮騒と鉄の足音、手鐘の響きが輪唱し、鉛色の空へと鳴り渡っていった。海原に撒かれるべき花々は微かに香り、行列の最中に立つハルミヤの目を細めさせる。ゆるやかな傾斜を帯び始めた道筋に、群衆の歩みはいくらか遅れを見せた。

「断罪を」

「異端者に粛清を」

 遠く、声が聞こえる。目をやれば、処刑場にはすでに幾多もの観衆が揃っていた。

 崖の脇には王家の旗がはためき、その周囲を近衛が取り囲む。いくらか離れた地点に神官たちが群れを為しており、彼らの背後には町民たちがぽつぽつと立ちつくしていた。それらを眺めながら歩を進めるうち、大仰であった行列も徐々に解体されていった。彼らは崖の中腹までハルミヤを先導すると、片手で数え切れるほどの護神兵を残して散っていく。

 とはいえ逃走を企てる気は起こらなかった。身をよじって逃げようとしたところで、手枷の施された身ではすぐに絡げ取られてしまうだろう。周囲の兵は今もハルミヤに視線を注いでいるのだ。

 護衛にも似た彼らが立ち止まるので、ハルミヤは一度、同様に歩みを止める。すぐさま発される無言の訴えを感じ取り、小さく息をついた。

(自分で歩けということか)

 罪人は自らの意志で罪を雪ぎ、命龍の慈悲を乞わねばならない。ディルカメネスに住まう民は、その生死のすべてを神たる龍に委ねているためだ。

「ハルミヤ・ディルカ」

 呼び声を受けて顔を動かすと、背後には鉛を持った護神兵が連なっている。球体のおもり、重量を持つ装飾品――目の前に並べられた全てを、彼らは着々とハルミヤの四肢に取り付けていった。ひとつひとつを丁寧に固定されれば、もう些細な揺れで外れることもない。鉛の塊を周囲に抱えられながら、やっとのことで崖の上にまで行き着いた。

 海鳴りが耳朶を叩く。髪は潮風になぶられて揺らめいた。飛沫を上げる海面を見下ろし、曇天と見比べて、ハルミヤは静かに首を振る。

「懺悔を伺いましょう」

 傍らの神官に申し出られ、ゆるい呼吸のあとに瞳を閉じた。

(……懺悔)

 彼らは、一体自分に、なにを懺悔せよというのだろう。肺の底から吐き出した息が、白く滲んで空気に溶けた。

「私には、雪ぐべき罪などありません」

 ただ、産まれ、拾われ、生きてきた。一度として分不相応なものを願ったつもりはない。持てる力に見合った立場を、当然与えられるべき見返りを望んだだけだ。

 取り上げられたから爪を立てた。それ以上を奪われぬように。力が緩めば蹴落とされるから、休むことさえ許されなかった。疑って、疑って、疑って、ほんの欠片でも露わにされた侮蔑には噛みついた。一度そうした生を選んでしまったなら、もうふり返ることは許されないのだ。自ら傷つき、傷つけてきたすべてを、否定することだけは。

 神官が忌々しげに眉を寄せる。ハルミヤは彼に背を向けて、眼下の白波を瞳に映した。

 群衆のささめきが風に乗り、耳の端をくすぐっていく。重ったるい潮の香りを取りこんで、土は確かに湿り気を帯びている。区切られた視界の中で、青と白とが鉛色に沈んでいた。

「神よ」

 あなたは私を愛さなかったが。

「……私は、あなたを」

 睦言を吐きだす。信仰の名を借りた妄執を。

 そして。


     *


 ――笑った。

「……ハル、ミヤ」

 信じられなかった。

 唇の端を吊り上げて。目尻を下げて。眉を緩めて、力を抜いて。それだけの筋肉の動きを、いつ何時においても露わにすることのなかったあの少女が、この場、この状況で、笑ったなどと。

「ハルミヤ、」

 ひとりでに動き出す足を、意志で止めることは敵わない。体こそ夢遊病者のようによろよろと進んでも、両の目は頭上の娘に固定されて動かなかった。

 亡霊じみた足取りにぎょっとした兵たちは、わめきたてながらラケイユを引き止める。なりません、どうかここに、それ以上は。腕を掴んだ掌は、くり返しの嘆願より力強く静止を訴えていた。

(やめろ)

 そんな馬鹿な話があるか、と思った。

 あれは星だ。命を賭して瞬かねば存在することにも気付かれぬ、空に浮かんだ塵塊だ。おぞましいほどの孤独の中に、自らを焼きながら生きている。

「やめろ……!」

 歩みを止めさせるな。傷つくことを止めさせるな。そうせねば生にすら臨めぬ、彼女の爪を折り取るな。

 自分が何を強請り、叫んだのか、それさえも明らかではなかった。気付けば自分の体は数人の兵に取り囲まれ、駄々をこねる子どもがされるように地面に縫い止められていた。懸命にハルミヤを射続けようとした瞳に、束の間の白がよぎる。

 雪原の蒼玉。雲間の蒼星。白の衣に包まれた、か細い四肢の少女が雪を散らす。旋風が渦巻き、黒塗りの髪を巻き上げる。踏み出した彼女が、笑みをこぼして落ちていく。

 慟哭の声を上げたのは自分だけだったのか。

 あまりにもあっけない水音を境に、世界は呼吸を止める。鼓膜は空気の振動を無視し、苛むような囁きも、さんざめく嘲りも、自らを案ずる兵の声も、その全てを拒絶した。鈍色に染まった視界には白黒の花弁が舞い、作り物じみた香りをくゆらせる。

 沈黙のあわいに泣き声を聞いた。

 母を求める幼子に似た声。あるいはそれは、鳴き声であったのかも知れなかった。

「――けるなよ、ハルミヤ――!!」

 銀色が海を裂く。燃えさかる猛りを、その双眸に横たえて。

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