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龍翼のディオスクロイ  作者:
七章
42/66

 気分が悪い。二度吐いた。腹の中に何もなくなった段階で、その行為の無意味さに涙が出た。

 異臭と嫌悪感に苛まれながら、ハルミヤはだらりと横たわっていた。朦朧とした意識はいつまでも薄れてはくれず、鈍痛の記憶ばかりを思い起こさせる。

 散った髪の毛、滴った血の痕を一瞥し、また死にぞこなったのかと後悔の念に襲われた。一言二言の挑発を吐いて、激昂を引き出したなら、命を断つこともできたかもしれないというのに――所詮、まだ命が惜しいのだ。その矛盾に奥歯を噛んだ。

 間もなく石床を叩いた足音に、今日は多いなと考える。体を起こすのも億劫になって、視線だけで格子の外を眺めていた。

「ハルミヤ」

 久方ぶりに耳にする名だった。

 様子がおかしい、と思って顔を上げれば、格子を握った男は、唇を白くなるほどに噛みしめている。

「……バルク、か?」

 確認の声は空気に溶けた。じりじりと燃える蝋燭に照らされ、大きな影が不規則に揺れる。互いに一言も発さぬまま、沈黙ばかりが降り積もっていった。

 先に動きを見せたのはバルクだった。前触れもなくその場に両の膝をつく。瞑目し、懺悔する信徒さながらにうつむいた。

「どうして」

 続く言葉は吐き出されない。

 どうして生き延びることができたのか、どうして司祭を殺したのか、どうして捕らえられねばならなかったのか。いくつもの問いかけを導きながら、ハルミヤはそのどれにも答えを出さずに無言を保っていた。鉄格子に縋るバルクの肩が、わずかに震えているように見えたからだ。

(なぜ)

 何故、泣いている。尋ねたくとも声は出ない。唇だけが力なく上下した。

「……生きて、いたのか」

 バルクの呟きに、ハルミヤは目を細める。

 自分の生存が知らされていなかったのも、思えば当然のことだった。神殿は今に至るまで、表だってハルミヤを始末する理由を得ることができずにいたのだから。宿房の襲撃は秘密裏に行われ、ハルミヤ・ディルカという生徒の失踪も自発的な行動と見做されている。

 しかし司祭の殺害が、その建前を神殿に与えたのだ。

 クレマンは、いわば、ハルミヤを異端者に仕立て上げるための供物。嵌められたことに気付いたのは、投獄されてから数日が過ぎた頃だった。

(犠牲にされる、とは、思っていなかっただろうが)

 ハルミヤを神子候補とし、神殿の目の届く場所に置くことで、暗殺を確たるものにする。それが神殿の当初の目的であった。その計画の失敗はクレマンの地位をも危うくしていたのだろう。ハルミヤを捕らえよとの命のもとで晒し出された彼は、身をもってその役目を果たしたのだ。

 バルクの顔を仰ぐ。彼もまた、捕らえるべき相手が誰であるかも知らぬまま駆り出されたのだろう。背中に残る傷跡が痛むように思われて、ハルミヤは小さく身じろぎをした。

「ハルミヤ。どうして、帰ってきたんだ。……どうして」

 続きを促すべく、まばたきをする。バルクがくしゃりと顔を歪めた。

「生き延びられたなら、それでよかったじゃないか。神殿にこだわらなくても、お前なら、違う場所でも暮らしていけたはずだろう。お前だけの頭があれば」

「違う、場所」

「どこだってよかった。こんな……こんな場所に捕まるぐらいなら、もっと別の生き方ができた」

 同じ問いを、何度くり返されたか分からない。その度に鼻で笑ってきた。どんな可能性を与えられたところで、自分にはこれ以外の道を選ぶことなどできなかったに違いないのだ。

 答えないハルミヤに、バルクが何を思ったかは知れなかった。きつく奥歯を噛みしめ、ややあって首を振る。

「俺が、いけなかったのか」

「……バルク?」

「俺があのとき、お前を引き止めたから。見返してやれだなんて言ったから。だからお前は、ここに執着しているのか」

 徐々に目を見開くハルミヤを、バルクはすでに視界に入れていなかった。ハルミヤの四肢に残る殴打の痕から目を背けるようにうつむき、鉄格子に頭を預ける。彼の掌の中で、赤黒い錆がこすれて散った。

「あんなこと、言わなきゃよかった。ちゃんと逃がしてやればよかったんだ」

「バルク」

 声が震える。かぶりを振るのも、バルクを止めんとするのも、彼の後悔を慰むためなどではなかった。

 しかしバルクはそれに気付かない。ハルミヤの胸中を、押しはかろうともしない。

「抱えきれなくなる前に、神殿の外が見えなくなる前に、外へ。俺が引き止めたりなんかしたから……お前のことも考えずに、俺が、」

「やめろ!」

 バルクが肩を跳ね上げる。その段になって、彼は初めてハルミヤの目を見返した。しおれていく表情を見つめながら、ハルミヤは地面を押して起き上がる。

 聞きたくない。聞きたくなかった。

 自分をここに導いたのは自分だ。他の誰を理由にするつもりも、誰のおかげにするつもりもない。学院への道を切り開いたのも、逃げ出したのも、そうして再び神殿を目指したのも、自分の選択によるものだった。その権利を奪われることには耐えられなかった。――そして何より、許せなかったのだ。

「否定、するのか」

 無理を強いた肺と喉が、悲痛な叫び声を上げる。喉奥には痰が絡んだ。それでもなお、ハルミヤはバルクを強く睨み据えずにはいられなかった。

「お前まで、私を。私の存在を、選択を。間違いだったって言うのか」

「そ……んな、ことは」

「やめろ」

「ハルミヤ、」

「もうやめてくれ!」

 叫んだ途端に咳き込んだ。三度、四度、絶え間ない苦痛に、思わず衣の裾を握りしめる。はっとしたバルクが閂を開こうとするが、ハルミヤはその寸前で格子を蹴りつけた。鳴り響いた金属音が、鋭い拒絶の意志を宿す。

 なおも不安げに見下ろす青に、ああ、と嘆息する。この青年は、未だに気付いていないのだ。

「……もう、もういい、お願いだ。――お願いだから……私を、否定しないでくれ」

 罰は救い。苦しみは生。辿り着くまでの道程と、選択。伴う歓びも、孤独さえも、全て自分のものだということ。それこそが、正しくひとりであり続けた自負の先に結実する、何よりもちっぽけな誇りなのだということを――彼は、知る由もないだろう。

 ふり返る。自分を支えてきたのは自分だけだった。たったひとつの支えで均衡を取る術を覚えた。何者も顧みず走ること、走り続けていくことこそが、自分に許された生だった。

(もう、いらない)

 寄りかかる方法を知らない。縋る術を知らない。杖を与えられれば倒れてしまう。それが、たまらなく恐ろしいのだ。

 懲罰房へと続く階段が、にわかに騒がしくなる。忍び込んだバルクの姿が目撃されていたのだろう。がなり立てる声を限りに、乱入した護神兵らによって、彼は外へと引き立てられていった。

 静寂が戻ってくると、ハルミヤはずるずると崩れ落ちた。失うような水分などどこにもないというのに、目尻には涙が溜まっていく。こぼれ落ちる前にとぬぐっては、石床に頭をこすり付けた。

(なぜ許されない)

 自分が諦めて、飲み込んで、納得すれば、それが求められる答えであったのか。

 這いつくばって、傷だらけの指に力を込める。声をこらえることもできずに、いつまでも泣いていた。

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