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龍翼のディオスクロイ  作者:
六章
38/66

 いたか。そっちは。駄目だ、本当に学院の中で間違いないのか。

 錯綜し、すれ違うたびに行き交う他人の声。誰が顔見知りで、誰が興味本位の協力者に過ぎないのかも、今やハルミヤの聞き及ぶところにはなかった。助力を求める声は預かり知らぬところで広がり、顔も名も知らぬ赤の他人が、会ったこともないひとりの少女を探し回っている。まるで喜劇だ、と自嘲する気力さえ湧かなかった。

 斜陽を高窓から取りこんで、学び舎は深紅の衣を纏う。回廊を駆けまわり、むせ込んで立ち止まれば、同情と憐憫とが向けられる。それに一瞥を返すこともなく、ハルミヤは再び地を蹴った。

(クロエ)

 何を望んでいた。何が不満だった。何故ひとりで。何のために。考えても答えは見出せない。当然だ、今まで一度として、彼女の内心に頭を傾けたことなどなかったのだから。

 校舎の外周を巡り終えたアルヘナが、再びハルミヤの元へ戻ってくる。その平然とした表情さえ今は腹立たしかった。

「ハルミヤ」

「呼ぶな、誰が聞いているとも限らない」

 鋭く制しながらも、人の気配が無いことには気付いていた。

 そこは東棟一階だ。日中は教師の個室として用いられている一角であるが、黄昏時ともなれば、彼らは皆一様に神殿へと戻っていく。生徒もそれを心得ているのだ、よほどのことがなければ姿を現すこともあり得ないだろう。

 ハルミヤ自身、普段ならまず訪れることのない区画だった。クロエが迷い込んでいれば、と足を運びこそしたものの、やはりあては外れたらしい。明かりのない廊下には静寂ばかりが満ちていた。

(もう、夜になる)

 午後じゅうを費やしても、クロエの姿はどこにも見つからなかった。念のためにと街へ出ていった者もいたが、その誰もが何の手がかりもなく帰ってきては首を振ったのだった。

 ハルミヤは重々しく息を吐き出す。最悪の事態を想像する勇気は無かった。

「……アルヘナ、一度宿房を見てきてくれないか。戻ってきているかもしれない」

 一縷の望みを託すのは、諦めに傾きかける意志を保つためだ。

 ああ、と素直に首肯したアルヘナだが、ふと顔を上げ、来たばかりの道をふり返る。その直後、抑えられた足音がハルミヤの耳に届いた。

「イシュティア?」

 あどけない呼び声に、ハルミヤはかえって身を固くする。

 ぱちりと目をしばたかせた彼女、リディ・コンスタンの足取りは覚束ない。背に大きな荷物を負っているためだ。その重荷が探し人の姿をしていることに気付き、ハルミヤははっと息をのんだ。

「クロエ、」

「ああ、やっぱり。あなたの知り合いだったのね」

 リディはふらつきながら歩いて来ると、眠る少女の体をハルミヤに預ける。

 受け取ろうとして、その重みにぐらついた。いくらクロエが小柄であるとはいえ、意識を失った人ひとりを支えきることは不可能だ。重力のままにしゃがみ込み、どうにか彼女の上半身だけを抱え込む。

「街で眠っているのを見かけたの。そうしたら、皆が皆、人を探しているみたいだったから。もしかしたらと思って」

「……また街に?」

「今日は昼のうちよ。そんなに心配しなくてもいいじゃない」

 ハルミヤはクロエの体を引き寄せる。――心拍はある。しかし地面に落とされたにもかかわらず呼吸ひとつ乱さないのは異なことだった。リディを見据える瞳には、無意識のうちに力がこもる。

「言い方が悪かった、訊き直す」一呼吸の間を置き、声を落として問いかけた。「……また、神殿へ行っていたのか」

 取り繕う気のない言葉にもリディは表情を変えなかった。ただ若草色の瞳に、束の間、影がよぎったことを除いては。無害な少女の顔で、不思議そうに首を傾げてみせる。

「イシュ、おかしなことを言うのね。神殿なんて私たちが入れる場所じゃないでしょう」

「お前を見た人間がいる。夜に、一人で、神殿の門をくぐっていく姿を」

「夜中だったんでしょう。きっと人違いだわ」

「同じ背格好、同じ顔をした人間が、この学院に何人もいるとでも?」

 ラケイユが見た相手は学院の生徒だった。その事実は揺るがない。藍染めの法衣と胸の紋章を見間違う者はいないだろう。見る者が当の生徒であるというならばなおのことだ。

「この飴も」

 懐に潜ませていたままの飴玉を引き抜く。今朝方リディが配り歩いていたものだ。

「孤児院の近場にある店のものだ。道理で見覚えがあると思った」

 人通りのない区画に軒を構える小規模な個人店だ。幼い頃にはよくその白壁を眺めていたものだが、日中に客が入っていくところを見たことがない。行動範囲が中央通り付近に限られるような生徒たちには気付かれないのも当然だった。

「老夫婦が営んでいる菓子店の品物だ。夜に営業しているはずもない。……そんな店へ、あの時間に何の用があったんだ」

 リディの顔がはっきりと曇る。呼吸を整えさえすれば、彼女とて思考の遅い少女ではない、いくらでも反駁を思いつくだろう。そんな暇を許してなるものかとハルミヤは言葉を連ねる。

「もう一度訊く、リディ・コンスタン。神殿に行って何をしていた」

「……私、じゃないわ、だって私は、すぐに宿房に戻って眠っていたんだもの」

「それならあれは誰なんだ、この学院に、お前によく似た誰かがいるっていうのか」

「い、いたところでおかしくはないでしょう!? あなたの妹だって、……っ」

 リディが口を覆う。――覆ってしまう。

 目に見える動揺は、それが失言であったと認めたようなものだった。彼女は一歩を後ずさる。唇はわなわなと震え、頬にはわずかな赤みが差していた。いくらかの憐れみを覚えるのは、彼女がその性質までを偽っていたわけではないと悟ったからだ。

「リディ。……私は今の今まで、一度として、お前たちに妹の話をしたことはなかったな」

 ハルミヤは努めて冷えた声を吐く。彼女は知っているのだ。この声が、身が、イシュティア・ディルカという娘のものではないことを。ならばもう、外身を取りつくろう必要もない。

 頭上にある顔がくしゃりと歪む。開き直ることもできなかったのだろう、彼女は黙って睫毛を伏せた。

「神殿との繋がり、お前が私のことを知っている理由。それを尋ねるのは後だ。……クロエに何をした」

 しだれ落ちた髪の筋が目にかかっても、ハルミヤが腕に力を込めても、クロエは眉をひそめることすらしない。

「……何も、していないわ。私は何も知らされていない」

「知っている範囲で十分だ。洗いざらい吐いてもらおうか」

 再び退こうとしたリディの周囲に突風を巻き起こす。耳元に風の音を鳴らしてやれば、彼女はきつく唇を結んで足を止める。ひどいのね、と漏らした声は平素より低かった。

「私たちは友達じゃなかったの? ねえイシュ、見ないまま、知らないままでいましょうよ。あなたはイシュティアのまま、私はリディのままで、今までどおりに」

「今までどおり」

 くり返し、微かに目を細めてみせると、リディはほっと息をつく。ハルミヤはその仕草を視界にとらえ、可哀想に、と胸奥で呟いていた。

 おぼろげに気付かされた。彼女もまた、神殿に糸を取られた人形に過ぎない。深淵に踏みこむことは許されないまま、神学院の生徒という立場を利用されているだけだ。ゆるりとねめつければ、意図した答えが得られないことに気付いたのだろう、リディがごくりと唾を飲む。

「お前の言うそれがどんなものであったかは知らない、知るつもりも毛頭ないが」

 喉の奥が引きつれて痛み、遅れて理解する――ほんの少しでも歩みを止めようものなら、足の裏は瞬く間に焼かれてしまうのだ。知らぬ間に身を繋ぎ留めていた絹糸を引きちぎり、血を吐くようにして、ハルミヤは嘲笑った。

「私は、お前たちを友達だと思ったことなんて、一度もなかったよ」

 爪を立て、力を籠めた指先に、胸元を深くえぐられるようだった。黒々とした生温かい塊を吐き出せば、腹の底には空虚だけが居座った。瞠目したリディを突き放すべく、ハルミヤは自らの周りに旋風を編み上げる。刃であり壁、何者をも近付けずに済むだけの鎧を。

「私の敵になる前に、答えろ、リディ・コンスタン。クロエは何故目覚めない」

「……あなたって」

 声を掠れさせ、リディはかぶりを振る。臆病さの抜け落ちた瞳には、ほの暗い冷酷が満ちていた。

「あなたって、まるで矛盾だらけだわ」

「戯言はもういい。……自分がただの学生であることを忘れるな。生殺与奪の権利はこちらにある、下手な言い逃れをするようなら、」言葉を切り、リディの頬に一閃を走らせる。「裂くぞ」と続けて睨みつけても、リディはしかし、唇の端に薄い笑みを浮かべるだけだった。

「自分は貪欲に真実を求めておいて、他人に素性を明かすことはしない。傍に人を置こうとするのに、自分の中身にだけは決して触れさせない。矛盾だらけよ、ねえ、そうでしょう、ハルミヤ」

 回廊を踏み鳴らす靴音がふたつ、確かに二人の元へと近づいてくる。

 はっとして窓を仰げば、すでに夕明かりは藍色へ沈み、淀んだ闇が降り落ちている。施錠の時間だ。ほどなくして巡回が行われ、居残っていた学徒たちは追い出されるだろう。しかし鼓膜を叩く足音は彼らのものにしては荒々しく、切羽詰まった響きを宿していた。

 呆然とするハルミヤの眼前で、リディは酷薄げに笑う。暗がりを背に、注がれる星の光を浴びながら。

「あなたには棄てられない。だってあなた自身が一番、失くしてしまうことを恐れている。そのくせ腕を掴んでおくこともできないんだわ。淡い期待ばかりを抱くだけ抱いて、取り落とす痛みを裏切りと呼ばうだけ。その証拠にあなたは、みんなを信じきることも裏切ることもできないでいる」

 角から除いた影のかたちに、時間切れを告げられる。

 青年と、少女と。彼らの訪れを、リディは始めから悟っていたのだろう。ゆえに時期を待って、ハルミヤの元へクロエを届けたのだ。

 ひ弱な少女を演じきった女優が、くるりと身を翻す。駆け寄ってくる青年たちに手を振って、首だけでハルミヤをふり返った。

「可哀想なハルミヤ。そう言って欲しかったんでしょう。……いいえ、あなたは弱いだけ。臆病なだけよ。その大きな矛盾、私は吐き気がするぐらいに嫌いだわ」

「リディ……っ」

「さようなら、イシュティア。私、あなたのことは好きだった」

 リディは学友たちとすれ違い、数度のやり取りの末に歩き去る。勿体つけるかのような足取り、すらりと伸びた立ち姿、なびいて揺れる茶の髪の一筋さえもが、ハルミヤの脳裏には黒々と焼きつけられた。

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