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龍翼のディオスクロイ  作者:
四章
26/66

 夕陽はとうに沈みきり、闇は刻々とその色を濃くしていた。街並みは昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。家の窓にちらちらと明かりが灯り始めるのを横目に見ながら、ハルミヤは足を引きずるようにして歩を進めていた。

 帰ろうとする意志が希薄になるのは、頭にのしかかる問題が重みを増しているからだ。今日という一日で、考えるべきことが何倍にも膨れ上がった気さえしていた。

「ハルミヤ」

 うつむいた頭に声がかかる。前を向けば、月の光を弾く銀糸がそこにあった。

 帰りが遅いことを気にかけたのか、もしくは龍の力が紡がれていったのを不快に感じたのか。相変わらずの無表情からはその理由を読み取ることもできなかった。ハルミヤが歩み続ければ、アルヘナは当然のようにその横に並ぶ。

 伝言があったわけではないらしい。いくら進んでも、アルヘナは無言を貫いたままだ。業を煮やしたハルミヤが「クロエは」と問うと、ああ、と気の抜けた声が戻ってくる。

「残してきた」

「宿は取れたのか」

「ああ」

 少なくとも路頭に迷うことはしなくて済みそうだ。ハルミヤは思わず安堵の息を漏らす。クロエが役者であるはずもない、おそらく宿の人間が都合のいい勘違いを起こしてくれたのだろう。

 それとなく背後をふり返るが、宵闇には誰の影もない。どうやら刺客も完全にハルミヤを見失ったらしい。宿を突き止められる心配はなさそうだと足を速めた。

「アルヘナ、確認したい。私とお前で神殿に乗りこんで、数百の兵を相手にしたとしたら、勝ち目はあるか」

「万に一つもないな」

「……そうか」

 分かりきってはいたが、落胆は隠しきれなかった。アルヘナはちらとそらを見て続ける。

「私が龍の姿であったなら、……そしてお前がちょろちょろと邪魔をしないというなら、この国を焼き尽くすことなど造作もないがな。人の姿ではそれも敵わん。この命もお前に縛られているというのでは」

 ハルミヤの死が銀龍の死だ。逆もまた然りである。アルヘナが制御しきれる力も、ハルミヤのそれと同程度に抑えつけられてしまっているのだろう。矢傷程度であれば数分で癒えるとはいえ、心臓を貫かれれば当然死に至る。

 武力行使はかなわないということだ。別の手を考えなければならないと再確認したところで、ラケイユの提案が蘇った。

 ハルミヤという少女一人を隠すのに、学院以上に都合のいい場所は無い。閉ざされた空間には外部からの手が届きにくく、学徒らを見分けることは敵わないだろう。だが逆に、一度それと確信されてしまえば、宿房にも学び舎にも逃げ場はない。

 まるで洞穴だ。飛び込むことは英断か、蛮勇か――悶々と悩み続け、気付けば宿にたどり着いていた。アルヘナに従い、足音を殺して部屋に踏み入れる。

「……クロエ?」

 ランプは灯されていても、求める人影がない。窓は開け放たれたまま、荷物は放られたままだ。襲撃を危ぶんだが、寝台に目をやったところで杞憂であったと気付いた。

 長くそこに腰かけ、そのまま倒れ込んだのだろう。足を外に投げ出した姿勢でクロエが寝息を立てていた。寝返りを打てば落下しそうなものだが、不思議と姿勢の均衡は保たれている。きい、と床板がきしむのに気付いたのか、彼女ははわずかにうなってから目を覚ました。

「ハル、……あ」

 目蓋をこすり、申し訳なさそうに眉根を下げる。しかし体を起こす気力までは起きなかったようで、横たわったままでごめんと呟いた。

「寝ちゃってた。待っているつもりだったのに」

「いや、いい。遅くなったのは私だ」

 行列を追い、エツィラを引き止めるだけのつもりでいたのだ。護神兵に追われることまでは考えていなかった。窓の外を見ればとうに高く月がのぼっており、明かりを落としている家の影も見受けられる。

「探し人、見つかった?」

「……ああ」

 変わりきった彼女を、自分の妹と呼ぶことができるのであれば。そう付け加えることまではしなかった。

 エツィラを呼び止め、自分の存在を認識させる。ハルミヤの目的は果たされたはずだった。しかしその結果に満足することは到底できそうにない。

 無意識にハルミヤの視線が落ちる。寝台の影はいっそう陰りを増していた。

(正面から入り込んだところで捕らえられる。機を待っている余裕もない)

 結局、打ち得る手はひとつだけだ。それを選ばぬというのであれば、早々に諦めて姿を隠すほかにない。

(……そんな、ことが、できるものか)

 宿房を追われ、バルクを犠牲にして逃げ伸びた。理由を知ることも許されず、雪原に放られた。雪原を這いずる屈辱、肌を刺した氷の粒の痛みも、未だ鮮明に思い出せる。

 なにより、銀龍への誓いが命を縛っている――力を、と望んだのは自分だ。逃げることなど許されない。

(一度落とした命だ)

 どのように粗末に使ったところで恐れることはない。指一本の爪先でも神子の座にかすらせることができるなら、あがく理由には十分だ。

「クロエ」

 聞いて欲しいことがある。

 前置きをして語る中身は未来に限られる。理由も、目的も、知らされぬままの願いに、クロエは無言で耳を傾けていた。








 頑なな音色の靴音。淀みを孕んだ空気。高所の小窓はくすんで淡く、舞い散る埃が光の柱を立ち昇らせる。どこからともなく流れくる香は、神に捧げる供物のひとつであった。

(ああ)

 耳が、目が、鼻が、体を包んだ法衣の藍色が、この場所を覚えていた。ハルミヤという存在を作り上げ、研磨し続けた、学院という名の箱庭を。――そして同時に思い知らされた。自らの帰る場所は、ここ以外には存在しないのだと。

 郷愁の念を瞬きで断ち切って、ハルミヤはひとり、迷いなく廊下を歩む。フードは目蓋の上までを覆い隠し、光を弾く銀の髪も衣服の中に収められている。顔を伏せれば彼女の名を囁く人間はいなかった。代わりにちらほらと向けられる目は部外者に対してのそれに違いなかったが、ぶ厚いフードは彼らの視線を遮る役割も果たしてくれた。

 大扉はいつかと同じ重々しさをもってハルミヤを出迎える。擦り減った金色を指先でなぞり、ハルミヤはそれをそっと握りこんだ。冷えた感触に拒絶を覚えながら、扉を三度、規則正しく叩く。返事を待たずに押し開けば、部屋の主は深い色の瞳でハルミヤを見上げた。

「学院長先生、」

 こみあげる衝動に、感慨の名を与えたくはなかった。唾と共に飲み下し、鋭く息をつく。唇を噛みしめて顔を上げた。フードをはぎ取り、瞳の色を露わにすると、学院長テオドール・キュヴィエは重いため息をついた。

「ハルミヤ」

 空いた間は長く、苦痛だった。続く言葉を待つつもりもない。ハルミヤは数歩を歩み出る。

「目通りの時間を取ってくださったこと、心より感謝いたします。けれど再開を言祝ぐ余裕のないことをお許しください。私の身に降りかかった出来事を、あなたはご存知でいらっしゃるはずだ。……おそらく私自身よりも」

 バルクに宿房の襲撃を知らせたのも、ハルミヤを救うようにとけしかけたのも、目の前に座る学院長その人だった。

 しかし彼はまた、一神官であることはもとより、ハルミヤとエツィラに降った神託を傍聴していた人物でもある。言葉を交わしている間にいつ護神兵が乱入してきてもおかしくはないのだ。緊張を解かぬよう、掌に爪を食いこませる。

「私は知りたいのです。何故この身が狙われねばならなかったのか、何故エツィラが神子とされたのか。あなたが何を知り、私には何が知らされないままでいるのか」

「ハルミヤ・ディルカ、ならば問おう」

 薄暗い青の瞳は彼の経た年月を感じさせた。言葉をのんだハルミヤに、テオドールは静かな眼差しを据える。

「命を賭してここに戻り、エツィラの影を追い求め、無知の器に答えを満たしたとして。……きみは何をしようというのだね」

 走り続けるための理由。足先が向かう場所。幾度となく迷い、自らに問いかけてきた言葉に違いない。ハルミヤは表情を変えることもなく、常通りに息を吸った。

「奪い返します」

 ぴくり、とテオドールが眉を揺らす。吐き出した声は、氷のような鋭利さを宿していた。

「私が得るはずであった未来を。取り上げられたものを、奪い返す。そして私は、私を弾きだしたすべての人間に、この生を認めさせてみせる」

 躊躇すれば、蹴り落とされる。戸惑いは震える足を折る。細い道を進む娘に、迷いを抱くだけの猶予はないのだ。行き着く先が闇に閉ざされていたとしても、ふるい落とされたくないのなら走り続けていくしかない。

 挑むように見つめた先、テオドールは憐憫と悲哀とをその表情に浮かべている。彼は両指を組み合わせ、堪えるようにきつく結んだ。

「……ハルミヤ。あくまでも宿命に向かうつもりでいるのなら、私にそれを止める力はない」

 テオドールは机上の一枚の紙を引き寄せる。流暢な文章が綴られたその書類を、ハルミヤは幼い頃に一度だけ目にしたことがあった。まさかと呟いて瞠目すると、彼は首を縦に振る。

「誓約書だ」

 誓約書。すなわち神学院への入院を誓うための書類だ。連綿と続く誓約文の下部、ぽっかりと開いた空間が、そこに埋められるべき文字列を待っている。

「知の輩に全てを与えるのが我が学院の務めだ。真実への恐れを捨てた、貪欲なる学徒を歓迎しよう」

 手渡されたペンを握り、インクの壺に先端を浸した。

 どくり、どくりと鳴りやまぬ心音は高揚を訴えている。しかしハルミヤを抑えつける臆病はどこにも存在しない。身の内の全てが、その意志を支えていた。

「さあ、きみの名を教えてくれないか」

 二度目の文章に目を通し、深呼吸で手の震えを落ちつける。息を止めてペン先を走らせた。

 テオドールは文字列を見据え、予定調和の物語を儚む大人のように眉を寄せる。しかし学院長の座につく老人は、公平に、あるいは冷徹に、憂いを頷きの影へ消し去った。

「叡智を求める若者に祝福を。……学院はきみを歓迎しよう」

 鐘の音が轟く。

 始業を告げるその響きは、ハルミヤの退路を残酷にかき消していった。

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