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龍翼のディオスクロイ  作者:
四章
21/66

 陸に降り立ったその時から、尾行の気配を感じていた。

 新しい風を拒む保守派の輩か、火の粉を煙たがる神殿の刺客か、それとも。思い当たる節が多いのだから、区別をつけること自体に意味は無い。考えるべくは、今、自らの命を守ること。誰に望まれずとも、生きて故国の地を踏むことだけだ。

「いかがなさいます」

 低い声での囁きに、青年は空を見た。頭上にはからりとした晴天。朝方は日差しを遮っていた雲も、知らぬ間に風に流されていったのだ。夜にはさぞや美しい星が見えることだろうなと栓のないことを考える。

「……馬車が動いているのは確かなんだ。出発さえしてしまえば、逃げきれる」

「追いつかれたら?」

「そのときはそのときでしょう」

 青年の帰り道は狭い。道中の死を望まれているのは確かだった。そうでなければ、たった二人の遣いを海の果てまで送るはずがない。

 傍らの老紳士が低く唸った。眼差しには安穏を宿すことの多い彼も、今ばかりは険しい表情でうつむいていた。自分などにあてられたばかりに、不憫なことだ、と、青年は同情を抱かずにいられなかった。

 街路は潮の香りに満ちている。冬を知らない港町に、急ぐ人々の足音は高く響きわたる。人ごみに紛れて逃げ伸びられれば僥倖だが、背後の追想者はそれを許してはくれないだろう。

 老紳士が腰の長剣に触れる。擦り減った柄飾りは、主と共に過ごした年月を物語っていた。

「いざというときには、私が御身をお守り致します。どうか私の背後へお下がりください」

「……師を盾にしたい弟子が、この世のどこに?」

「萌芽を戯れに摘み取る老いぼれもまたおりませぬ」

 師の決意は固い。言葉を尽くしたところで聞き入れはしないだろう。ならば“もしも”の訪れを避けるのが弟子の役目だ。青年は悟られぬように溜息をつく。

(誰も。……親も、俺も、誰も、望んでいないというのに)

 青年の帰るべき場所は変わらない。

 極寒のディルカメネス。命龍の眠る地。傾いたまま静止した、不格好な形の国だった。


     *


 北の大国に港町は三つ。そのうちハルミヤらがたどり着いた港は、もっとも王都に近いとされるひとつだった。

 商人たちは王都と港とを往復し、さらに国内各地や海の彼方へと旅立っていく。ディルカメネスで盛んに作られる毛皮や織物、蜜蝋には、調度や嗜好品として高い値が付けられるためだ。彼らの出入国を管理する商人の元締めが拠点を置いているということもあって、この港は常時人の出入りが激しい町だった。足を踏み入れるなり喧騒は質量を伴うようになる。

(騒がしいな)

 ハルミヤは渋い顔をした。法衣を纏う者、異国の衣装をまとう者がいて、命龍の護符の存在を知らぬらしい旅人は穏やかな気候に目を丸くしている。

 羽織っていた上着を畳みながら、クロエは興味深そうに露店の数々を眺めていた。アルヘナはそんなクロエを注視している。目を離さないように、とハルミヤがきつく言いつけたためだ。そうでもしていなければ、好奇心のままに走り去ってしまわないとも限らないと考えてのことである。

「ここに来たの、何年ぶりだろう」

 クロエがほうと息をつく。ハルミヤは再び街路の景観に目を向けた。

 目抜き通りには厚手の布を敷いた商人たちが座り込み、異国の品々を広げている。どこからか漂ってくるのは香辛料の刺激だろう。冬季ともあって目の眩むような値段がつけられているが、ときおり貴人の小姓が訪れては瓶詰めを得て去っていった。

 一歩でも大通りを逸れれば、道幅は途端に狭くなる。地の利を生かした主婦たちは窓と窓の間に紐を通し、好き放題に洗濯物を吊っていた。その真下、階段や木箱のせいで視界の悪い裏通りを、町の子供たちは脇目もふらずに駆け抜けていく。

「ふふ、人だらけ。王都はもっと多いのかな」

「そもそも面積が違う。比較にならないな」

 しかめ面で首を振る。クロエはそうだねえと納得したように呟いたが、次の瞬間には道を行く幌馬車に目を奪われていた。異文化の交差する港町とあっては、村娘には真新しいものばかりに違いない。

「ふらふらどこかに行ったりするなよ」

「うーん……努力するね」

「せめて約束してくれ」

 ハルミヤの不安は尽きない。そもそも無駄金を叩く余裕などないのだ。

 手元の路銀は三人を王都へ運ぶので手一杯だ。旅程は早くて二泊三日、雪道を行くともなればさらに一日を覚悟するべきだろう。その間の食費のことも考えなければならないとあっては頭も痛むというものだった。

 安価な食料では保存に向かず、旅費を擦り減らしては元も子もない。クロエが手ずから持ち出してきた貯金も慰め程度のものだった。どうしたものかと街並みに目を走らせて、ハルミヤはぴたりと足を止める。

「どうした」

 いち早く気付いたのはアルヘナだった。先へ行こうとしたクロエの襟首を掴み、ハルミヤをふり返る。

「……いや」

 見つめる先には小道が走り、石畳の上に柔らかな影を下ろしている。見覚えのある人影が通った気がしたのだが、いくら眺めていてもしんと静けさを返すだけだ。

 見間違いかと歩みを再開しようとしたとき、その小道に影がよぎる。今度は五、六人の大所帯だ。誰も彼もが片手に剣を握っているのを認めて、ハルミヤはぎょっと目を剥いた。

(追われているのか)

 過ぎ去った相手が自分の知人でなかったとしても、事態がただごとでないのは確かだった。先を行った人物が逃げ切れなければ、白亜の石畳には赤い花が散ることになるだろう。

 いくらか考えて、舌打ちをする。目に留めてしまったのが運の尽きだ。

「用事ができた。アルヘナ……いや、クロエ、先に御者と話をつけておいてくれ。すぐに追いつく」

「え、ハル?」

「アルヘナ、お前はクロエから離れるな」

「ああ」

 孤児院の教師になった気分だった。両者に早口で言いつけると、ハルミヤは小道へと入り込む。後ろから追い縋るクロエの声も、アルヘナが追走を制したのだろう、やがて遠くへと消えていった。

 裏通りは入り組み、どこへ続くとも知れない。しかしほぼ分岐が存在しないこと、前を行く集団の足音で追跡が容易であることは大きな救いだった。気付かれないように一定の距離を保って追えば、彼らはやがて人手を分けるようになる。逡巡して、片方に従った。

 逃走者は港町の北部、馬車が停留する広場を目指しているようだった。追手もそれを理解しているのだろう。二手に分かれたのは逃げ切られる前に仕留めるためだ。

 前を行く男たちが立ち止まり、次々に剣を握り直す。先回りをした三人が道を塞いだのだろう。追手の合間から道の先を覗けば、二人の人影が背中合わせに立ちつくしていた。背の低い一方の顔を確かめて、ハルミヤは自分の目に狂いが無かったことを知る。

「――、……う!」

「……に、…………か」

 言い争う声の判別は不可能だ。しかし話し合いは当然決裂に終わったらしい。

 先頭に立つ男が駆けだしたのを見て、ハルミヤは物陰から飛び出した。同時に龍の力を練り上げ、掌の中で形取る。風に寄せて放てば、鋭利な刃が矢のごとくに打ち出されていった。

「誰だ!」

 いち早く気付いた男のくるぶしを裂き、鮮血を飛び散らせる。悲鳴は彼らの視線を引いた。迫りくる男たちが距離を詰めるよりも早く、撒き上げた瓦礫で彼らの膝頭を打ち砕く。鈍い音が響き、苦悶の声がそれに続いた。

 その次第を目にした青年が、ハルミヤの顔を確かめてはっと息をのむ。

「……お嬢さん?」

「除け!」

 一喝し、彼らの横から刃を放つ。逃げに転じようとしていた二人を引き倒すことには成功したが、残された男はすでに剣を掲げていた。虚空を切った刃を消し去るが、新たな術を作りあげるには時間が足りない。ハルミヤは地を蹴って、ひとまずは距離を取ろうとする。

 動いたのは老人だった。

 上段の剣を柄で弾き、肩口に一太刀を浴びせると、逆側の足から切り返す。鮮やかにさばかれた長剣は銀色の軌跡を残した。

 風の音が鳴り、刺客が倒れる。痛みに耐えきれずに気を失ったようだった。

「いや、見事」

 布で剣の血を拭いながら、老いた男が会釈をする。そこに至ってよくよく見れば、彼が身に付けているのは、学院の職員が纏う法衣に違いなかった。

「法術ですかな。助かりました」

「いえ。ご無事で何よりです」

 一礼を返して、ハルミヤは今度こそ青年――ラケイユに向き直る。

 蜜色の目は珍しく剣呑な光を帯びてこそいるが、他の出で立ちは一月前に出会ったときのままだ。着崩しのない法衣、整った顔立ち、「お嬢さん」と呼ぶ声の耳触りまでも。文句を吐き出そうとしたハルミヤの前に、彼は早足で詰め寄った。

「……っ!?」

 予想だにしなかった機敏さに、避けるのが遅れた。

 潮風に素肌が晒される。突如掴まれた法衣の襟が、鎖骨付近までずり下げられたせいだ。そこに何もないことを確認したラケイユが、険しい顔でハルミヤを仰ぐ。

「護符はどうしたんだ」

 法術を用いる者が持つべき護符を、ハルミヤは手にしていない。それを悟られたのだ。

 青年の手を払い落して、ハルミヤは彼を睨みつける。その視線を真正面から受け止め、ラケイユはひとつまばたきをした。

「それだけじゃない。この一ヶ月、どこに行っていたんだ。あれほどひたむきに神官を志していたきみが、どうして学院から姿を消した?」

「お前こそ、何故こんなところをうろついている? 理由のない外遊は禁止されているはずだろう。こいつらは何者だ、どうしておまえを狙っていた」

 一呼吸の間、二人は互いに睨みあっていた。

 ハルミヤに事情を説明するつもりはない。宿房の襲撃も、龍の力を手に入れるに至った理由も、明かしたところで利益は生まれないだろう。――特に、龍の存在に疑念を抱いていた彼に対しては。根掘り葉掘り聞きだされるのも癪だった。

 ハルミヤがあくまでも黙秘しようとするのを悟ったのだろう、ラケイユはやれやれと首を振る。

「俺は図書室の本の仕入れの帰りだよ。こちらは付き添いの教授殿。彼らは……そうだな、俺が持ち帰った本が、それほど希少だったんじゃないか」

「馬鹿にしているのか」

 嘘に真実味を持たせる気などさらさらないのだろう。学院の図書館の本は、そのほとんどが各地からの寄贈によって集められてきたものだ。一個人、それも学院の生徒が自ら買い求めに行くはずがない。

 それに、と、ハルミヤは教授であるという男に一瞥を放る。

 彼の腕前は並大抵のものではなかった。しかし剣術の演習を担う教授たちの中にその姿を見かけたことはない。護神兵を並べ立てたとしても、彼ほどの剣の腕を持つ者を探し出すのは困難だろう。再びラケイユに目を戻すと、彼は余所を見ながら肩をすくめていた。

「馬鹿にするも何も。俺が本当のことを話す必要はどこにもないだろう」

 続く声は幾分か低い。ラケイユは拗ねた表情を装って、眉を上下させる。

「きみが事情を明かそうとしないなら、俺だけが自分のことを話すのは不公平だ。それなら体のいい嘘で収めておくのが道理じゃないか? ……ああ、もちろん」歌うように、言葉を継いで。「俺のことを深く知りたいと言うなら話は別だけど」

「ふざけるな、誰が……!」

 反射で毒づいてからはっとした。見上げれば、常と同じ微笑みがそこにある。

 嵌められた、と。気付いたところでもう撤回はできない。すでに会話は途切れ、ラケイユは素知らぬ顔をしている。射殺さんばかりのハルミヤの視線も軽々と受け流された。

「さて、俺のような学徒風情は、これから麗しの王都に帰るわけだけれど」

 ラケイユは姿勢を正し、芝居がかった動作で片手を差し出す。

「よければ道中ご一緒しようか、お嬢さん」

(……ああ)

 嘆息が漏れた。何度にも渡り上塗りしてきた認識を、ハルミヤは今日も強固にする――この男のことだけは、大嫌いだ、と。

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