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龍翼のディオスクロイ  作者:
三章
19/66

 いつだって願っていた。

 懸命でいること。一切れのパンと一椀の山羊乳を糧に豊穣を生みだすこと。大地の恵みに、その成長に力を貸すこと。そうして必死に生きていることを、神様は見ていてくれる。助けに来てくれる。誰かが。きっと。いつかは。がんじがらめの自分のことを。

 そうしながら、否定していた。

 都合のいい助けは訪れない。戒めを結んだのが自分であるように、楔を打つのもまた自分でしかないのだと。後悔と贖罪の狭間に自分を陥れ、もがき苦しみながらもそこに留まろうとしているのは、臆病なクロエ・ファイエット以外にありえないのだから。

(勘違いをしていたんだ)

 自分の目の前に現れた少女が、救世主だと思いこんだ。身をゆだねていれば、彼方へと連れ去ってくれるだろうと淡い期待を抱いた。救いの手を取ることを、自分は、ずっと昔から拒み続けてきたというのに。

(ならこれは、罰、なのかな)

 自分に覆いかぶさる、大きな影を見定める。

 日差しのようだった瞳は血走り、獣に似た獰猛さを宿していた。両腕には過剰なほどの力がこめられ、クロエの肩に鋭い痛みを走らせる。糞尿の臭いが鼻をつくのはそこが牛小屋であるせいか。

 窓と鉄の門扉は完全に締め切られている。むっとする熱気と臭気のせいで頭はぐらついた。両手首は縛りあげられ、犬のように柱へと繋がれている。声を上げたところで気付く者はおらず、縄を解くことも不可能だ。思いつく案を全て試み終えたころには、自分を誘拐した男の名前が頭にあった。

「ロドルフ、さん」

 呼べば、青年の瞳はいくらか穏やかさを取り戻す。硬い皮膚に覆われた手のひらが頬をなぜ、愛おしむように髪を梳いていった。クロエがいくら顔を背けても、その手から逃れることは敵わない。

 彼が姿を現したのは、自分の行く末を悲観し始めたときだった。彼が扉を後ろ手に閉め、クロエの元に跪いた時分にはまだ、好青年らしい佇まいは残されていたはずだ。

 放して下さい、の、一言で、彼は態度を一変させた。食らいつくかのようにクロエを押し倒し、力無い反抗を完全に封じ込んだのだ。

「クロエ。俺は、待ったよ」

 ぞっとするほどの甘い声で囁く。場所が場所でなければ、体勢が体勢でなければ――そして何より、相手が相手でなければ、その言葉は娘を理性から酩酊させていたのだろう。

「これからだって、待つつもりでいたんだ。きみが心と体を整えて、俺のところに来てくれるまで。信じて、ずっと。……それなのに、クロエはどうだ。毎日毎日山羊と畑の世話ばかり、しかも得体の知れない二人組を連れ込んで、挙句の果てには奴らと一緒に村を出ていくって?」

「……そんな、こと」

 言っていない、とは否定できなかった。冗談めかした一言であっても、一部の本心も混じっていなかったとは言い切れない。

 黙りこんだクロエを見やり、ロドルフは顔を歪める。手が伸ばされて、クロエの体をかき抱いた。

「――!」

 熱の混じった吐息が耳に入り込む。鼓膜を震わせて、その内側にまで侵入しようとする。身を凍らせたクロエに、ロドルフは低い声で呟いた。

「行かせるもんか。クロエはこの村で、俺の牧場で暮らすんだ。誰よりも幸せに、そうだろう、クロエ。俺の傍にいるのが、きみにとって一番の幸せだ。自分を負担に思っているのなら心配は要らない、山羊はもういないし、畑や家は売り払うさ。失ったぶんの寂しさは俺が埋めるから」

「嫌、です、ロドルフさん、やだ……っ」

 耳朶を食まれて怖気が立った。無遠慮な唇は耳の後ろを伝い、首の付け根を通って胸元へと這い降りる。きっちりと留められた留め具が一つ一つ外されていくのを悟り、クロエは大きく身をよじった。振り払われたロドルフは、苛立ちも露わにその頬を張る。

 痛みは遅れてやって来た。そうしてやっと、彼は自分の敵なのだと思い知る。

 村での居心地や将来へと、悠長に思いをやる余裕はない。じん、とくすぶる鈍痛を噛み殺して、クロエはロドルフを睨みつけた。

「私の幸せを、あなたが勝手に決めないで」

 孕み続けた鬱憤は、転げ落ちるようにこぼれ出す。

「私は今まで、一度だって、これっぽっちも、あなたを好きになったことなんかない。妻になるつもりなんて無いし、子どもを産むなんて絶対に嫌! あなたと……あなたなんかと祝言を挙げるぐらいなら、今すぐにでも雪原に出てのたれ死んだほうがよっぽどマシだわ!」

 再び、今度はより強い衝撃が、クロエの横顔を襲う。堪えきれずに転がって、藁と土埃にまみれた床に顔を擦りつけた。異臭を嗅いで大きく咳き込んでも、呼吸を整える時間は許されない。気付けば胸倉から掴みあげられて、壁へと押し付けられていた。

「言うことを聞かない山羊には、こうやって仕置きをするんだ。もちろん愛しているからこそだよ、そうでなきゃすぐにでも放りだしている。大切に、躾をして、育ててやらないと可哀想だろう? きみも同じだ、クロエ」

「……可哀想、そう、可哀想! 私が可哀想だから、それを助けてやった自己満足が欲しいだけ。あなたが愛しているのは私じゃない。可哀想な私を救い上げてやる、お優しい自分自身なんでしょう!?」

 クロエの肩を掴む手に力がこもる。えぐられる痛みに悲鳴が漏れた。それでも身を、意志を、譲り渡してなるものかと、目蓋だけは開いたままでロドルフを睨みつけていた。

「自惚れ、ないで。私はあなたの山羊なんかじゃない」

 翻弄されることに慣れていた。悲劇はいつも、遠い場所からその手を伸ばしてくるものだった。ならば独り残された自分は、諦念を抱えながら歩いていくしかないのだと思っていた。逆らおうとしたことも、顧みたこともなかった。

(被害者でいるのは楽だったから)

 ようやく知った。伸ばされた手を取るのは、自分でしかないのだと。

 クロエは自らの足で地面を踏みしめ、全身に力を込める。ロドルフはわずかに気圧された様子を見せた。しかし相手が娘一人であることを思い出したのか、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。

「……どんなに嫌でも、子どもはできるんだよ」

 幼子に語るかのような声が、クロエの鼓膜を震わせたその時。

 堅く閉ざされたはずの鉄の扉が、散り散りに弾け飛んだ。


     *


 牧場に立つ小屋の一つ一つを探し回り、たどり着いたのは牛小屋の前だった。

 扉には内側から鍵が掛けられているのか、ハルミヤの力では叩いてもびくともしない。クロエの名を呼んだところで、その声は高い空に空しく響いていくばかりだった。

「……くそ、」

 扉に耳を押しつければ、微かに人の声が伝わってくる。聞き慣れた声を判別することは容易だった。となれば、口論を交わす相手はひとりしかいない。

 アルヘナに頼んだ人手が訪れるまでに、まだ、長い時間がかかるだろう。人が集まったところで扉が開かれるわけでもない。もたつく救援の手をよそに、扉の向こうで何が行われ得るか――想像するだに吐き気がした。

 思い出す。クロエの山羊が吊られ、解体された光景を。それだけの行為に及んだ彼が、話し合いだけで事を済ませるはずもなかった。

「クロエ、……クロエッ!」

 握った拳で扉を殴りつける。しかし幾度叩きつけても、関節に鈍痛が残るだけだ。わずかな凹凸に擦れた肌が裂け、骨が軋めば、龍の力はそれを端から再生させようとする。滲んだ血が痕を残すのを一瞥し、ハルミヤは歯を食いしばった。

 鉄の扉に、悲鳴が伝わる。押し殺した声であっても、ハルミヤの意志を固めるには十分だった。

 二歩三歩と後ずさり、震える息を吐きだした。掌の皮膚を悔い破らんばかりに爪先を握り込み、全身の筋肉に力をこめる。

(押しこめる、型は、要らない)

 法は要らない。術は要らない。ただ傲慢なまでの、力を。龍の纏う気配そのものを。自らの元へとたぐり寄せ、引きずり出す。蒼穹を渡る風でも、野の花を揺らす風でもなく、大地を掘り起こす嵐を掌に。身を覆う大気は銀糸を揺らし、ハルミヤの激情に呼応する。

(……クロエ)

 彼女は、羨ましい、と言ったのだ。春に、光に、愛されて生まれてきたかのような子供が、誰にも生を望まれなかった娘のことを。それでいてクロエは手を伸ばさない、よじ登ろうともしない。自らの編んだ縄に囚われて、茫漠と広がる空ばかりを眺めている。

 質量を得た風を、ハルミヤは槌のごとくに叩きつける。内包された無数の刃は鉄を貫き千々に裂いた。崩れ落ちた扉を乗り越えて、小屋の中へと入り込んだ。

 土埃が舞い、藁くずが立ち上がる。轟音に驚いた牛たちは叫び声を上げて駆けまわる。その柵の中心で、ロドルフは目蓋を限界まで開いてハルミヤを凝視していた。ハル、と呼ぶ声につられて視線を下げれば、彼の影にはクロエの姿がある。

 手首をくくられ、布服をくつろげられ、頬には赤い殴打痕を残して。その出で立ちを目にした途端、ハルミヤは脳裏に閃光が散るのを感じた。

 空を裂いた指先に従い、クロエを戒める縄が断ち切られる。クロエを阻むロドルフの腕を、無色透明の刃は返す刀で切り裂いた。赤い飛沫をかぶりながら、クロエはようやくハルミヤの元まで辿りつく。

「な、なんだ、お前はっ」

 ロドルフに刻まれた傷口は浅い。腕の骨にも届いていないだろう。滴り落ちる血を無表情で見下ろして、ハルミヤは一歩を踏み出した。

「覚えておけ。力で奪ったものは、より大きな力に奪われるものだとな」

 学院で手にした首座が、瞬く間に価値を失くしてしまったように。放る言葉は嘲りだった。

 ロドルフは腕を抑えてじりじりと後ずさる。それから一目散に馬小屋を走り出ていった。足音が聞こえなくなるのを見はからい、ハルミヤはひとつ息をつく。クロエの名を呼ぼうとして、初めて、法衣の裾を握った手に意識が向いた。

「クロエ」

「……ごめん、ハル」

 はしばみ色の瞳に、大粒の涙が浮かぶ。雫は見る見るうちに目尻に溜まり、ぼろりと落ちた。一度頬を伝わせてしまえばもう留まるところを知らない。クロエは声を上げずに、涙の粒だけをこぼし続ける。

「ハルが、いなくても。だいじょうぶだって。言ったのに」

 ぜんぜん、だめで。ごめん。ごめんなさい、ハル。

 ぽつりぽつりと漏れる声は涙の形をしていた。掬い取ってやれたらと胸が軋むのを、ハルミヤは歯を食いしばってこらえる。自由なままの手は、気付けばクロエの目元を乱暴に拭っていた。

「もういい。いいから」

「ごめんね、ハル、ごめんなさい」

「いい、責めているわけじゃない。……怒ってもいない、から。泣きやんでくれ」

 慰めの一つも出て来ない、自分の口下手を呪う。右へ左へと視線を迷わせてから、仕方なしにクロエの服を整えてやる。手こずりながらもどうにか元の通りに留め金をかけると、クロエはその上で、ほころぶように泣き笑いの表情を浮かべていた。

「……ふふ、ふ、ハルは不器用だなあ」

「うるさい」

 仕返しとばかりに目尻を拭ってやれば、クロエはくすぐったそうに首を引っ込める。ぱちぱちと瞬きをくり返して、目を腫らしたままでにっこりと笑んだ。

「ありがとう、……ありがとう、ハル」

 ああ、とぞんざいに返事をして、ハルミヤは余所を向く。クロエの顔を見ていられなかったのが半分、そろそろアルヘナが戻ってくる頃だと考えたのがもう半分だった。そのまま牧場の方向を見つめれば、思った通りに白銀の髪が煌めいていた。

 後に続くのは人の群れ。そこにロドルフの姿を認めて、ハルミヤは呼吸を止める。傍らを行く大柄な男は彼の父親だろうか。

「……これはどういうことだ!?」

 怒声が響きわたる。その目の前には、崩れ落ちた扉の残骸が残っている。

 ――遠く、望まれぬ未来の足音が聞こえる。ハルミヤはクロエを背に追いやって、彼らを迎えるべく一歩を踏み出した。

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