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龍翼のディオスクロイ  作者:
三章
16/66

 青年の名はロドルフ・シュマン。村に唯一の牧場を取り仕切る男、ドニ・シュマンのひとり息子だった。

 仕事熱心で浮ついた噂も流したことがない、誠実な若者として周囲からの評判は高い。そのロドルフが数ヶ月前から目をかけているのが、親を亡くしてひとりで暮らしているクロエという少女だった。以降毎日のように声をかけてくる青年の存在に、クロエはほとほと困り果てているという。

 村人は誰もがロドルフに協力的だ。山羊を預けに行くだけで囃したてられることもしばしば。心優しい次期牧場主の青年が、薄幸な娘を嫁に取り末長く幸せにする――できすぎた恋愛譚を、誰もが望んでいる。それが耳障りで仕方がないのだと。

「私、まだ、十四歳だよ」

 先のことなんか考えられない。今のことを考えるので精一杯だもの。椅子の上で膝を抱えて、クロエはぽつりぽつりとこぼした。

 牧場に迎え入れられたら、祝言を挙げられる歳になるまで飼われるだけだ。クロエはあえて過激な言葉を選んで自嘲した。今でこそ断定を避けていられるが、いつかは決断を迫られる。そうなれば、自分は断れる立場にいないのだと。

 当人が口にした通り、ロドルフの父親は村の各地に顔がきく。夏季にもなれば王都を相手に商売を行っているらしい。誘いを無碍にすれば、冷めた目を向けられるのはクロエの方だ。

「嫌なら村を出ていけばいいんだけどね」

 勇気もお金もないから――そう笑って虚空を見たクロエは、年の割に大人びていた。

 幸いにも、ハルミヤという同居人の存在は、ロドルフに対する牽制になったようだった。山羊の送迎をハルミヤやアルヘナが担うようになったためか、彼はあえてクロエの家を訪れることはしなくなった。兄の知人であるという虚言を青年が信じたのかどうかは定かではないが、それを確かめるための行動はいつまで待っても起こされない。クロエもまたロドルフの名を出すことをしないまま、半月は穏便に過ぎていった。


 和やかな風が草原を揺らしていく。ハルミヤはアルヘナを伴い、小高い丘に腰を下ろしていた。しきりに掌を上下させては、祈りの言葉を紡ぎ続ける。

「大いなる翼の、その一瞬きをここに」

 法術と同様に、アルヘナの力を顕現させようとする。しかし掌からは、つむじ風どころか、そよ風の一つも巻き起こりはしなかった。何度か同じことを試みても効果はない。くそ、と毒づいて、背から倒れ込んだ。

 草の葉が布越しに肌を刺す。頭上の空は呆れるほどにさっぱりと晴れ渡っていた。それを見上げる顔に影が差すのは、相変わらずの無表情が見下ろしているからだ。緑の瞳に焦点を合わせ、ハルミヤはひとつ息をつく。

「疑わしくなってきた。お前の力、本当に私に流れこんでいるんだろうな」

 法術は、龍との擬似的な盟約を結ぶことにより立ち上げる力だ。銀龍の力を引き出す仕組みに大きな違いがあるとは考えられない。しかしいくら試したところで、動かし続ける口に疲れがたまるばかりだった。

 ハルミヤが眉を寄せる、その傍らで、アルヘナは素知らぬ顔で余所を向く。彼女はどこに焦点を合わせるでもなく、ぼんやりと遠景を見据えていた。

「龍体に戻れないのが何よりの証拠だ。お前の未熟を私のせいにするな」

 あけすけにそう言う。ハルミヤがぴくりと口の端を引きつらせたのには気付かなかったらしい。

 龍は約と無関心の生き物だ。苛立ちをぶつけたところで無駄だと悟り、ハルミヤはひとつ舌打ちをして寝返りを打つ。その拍子に土埃を吸いこんでひとつ咳をした。――それだけで済んだことに戸惑い、やがてほうと息をつく。

(……この体も証拠、か)

 いくらか落ち着きを取り戻し、アルヘナ、と呼びかける。わずかな間の後に、無感情な視線だけが寄越された。

「法術とは何が違う。何故祈りでは術が組めない?」

「その法術とやらが何なのか、私は知らないが。お前がさっきから垂れているその能書きが力に変わることはまずあり得ないだろうな。耳障りだ」

 呆気に取られる。しかしすぐに理解が追いついた。法術の根幹を為す祈りの文言を、銀龍はそもそも求めていないのだ。

 命龍はディルカメネスの神であるがゆえに讃えられ、崇められる。祈りはかの龍と術者とを結び付ける縁だ。ならば当然、アルヘナの力を引き出すのに効果を持つはずもない。何故今の今まで気付かなかったのかと、ハルミヤは唇の端を噛んだ。

「ならばお前は何を求める? お前の力を引き出すにはどうすればいい」

「知らん」

「……っ!」

 怒りに震えた体を、ハルミヤは深呼吸で落ちつかせた。アルヘナに嘲る意志のないことは心得ているが、そうでもしなければ声を荒げそうになるのだ。射殺さんばかりの目で睨みつけていたのが功を奏したわけではあるまいが、アルヘナは「だが」と最後に逆接を添えた。

「お前の激情が私を繋ぎ留めた。お前の意志が約を結んだ。か弱き人の子に、龍を伴うだけの力を与えた」

「何を言っている」

「ならば私の力を行使するのもまた、お前の心なのだろう。建前ばかりの祈りの言葉より、そちらのほうがずっと研ぎ澄まされて美しい」

 端的に、と言い聞かせるのはもはや無意味なのだろう。ハルミヤは深く溜息をついて、ゆっくりと体を置きあがらせる。

 感情論にしか聞こえないそれを、馬鹿らしいと笑い飛ばすことは容易だ。しかし龍の口調には神妙な響きが込められており、揶揄する様子は微塵も見られない。

 ――願えば叶う、などと、子供であっても信じはしないが。

 生温い空気を肺に満たして、汚濁を押し流すつもりで吐き出す。目を閉じ、意識を外界から遮断して、暗闇と無音に自らを据える。くり返し深呼吸を行うにつれ、爪先や髪の気の一本に至るまでに神経が通っていく心地がした。

(想像する、)

 風。空気の渦。大気をかき乱す一陣のつむじ風。満ち満ちた無が有と化し、草原を薙ぐ、その光景。想像の奔流を精製し、洗練させる。

「風を」

 呟いて、目蓋を押し上げる。眼前の空気が揺れた――ように見えたのは、錯覚だろうか。

 期待を込めて足元を見下ろすが、背の低い草はハルミヤの気も知らず、のびのびと葉を伸ばしている。折れ曲がった痕が残っているのは、たった今自分が押しつぶしたばかりだからだろう。

「……何も起こらないが?」

 怨みがましく言ってやれば、アルヘナはふんと鼻を鳴らす。

「うるさい独り言が減っただけ進歩だ」

「お前、それが目的だったんじゃないだろうな」

 知ったことかとそっぽを向かれた。しばらく続く言葉を待ってみても、アルヘナは風に銀糸を遊ばせているだけだ。龍という生き物は猫のように気まぐれなところがあるのだと、ハルミヤは強く心に刻み込むことになる。

 龍と盟約を交わしたところで、自分でその力を扱えないのでは、実質供が一人増えただけのことに過ぎない。その上能天気なアルヘナの様子は、ハルミヤの目的に理解を示しているのかさえも危ういありさまだ。剣になれ盾になれと命ずるのにも不安が残る。

 ディルカメネスを離れて半月。眼中にもなかった小石に躓いた歯がゆさが、ちりちりと焦りを煽っていた。

「くそ、」

「……難航してる?」

 花の香が漂うかのように、ふわり、声がかかる。穏やかな声色はアルヘナのものではなかった。

 振り仰ぐ。声の主を探れば、すぐ後ろにクロエの姿があった。丘の反対側から昇って来たのだろう、普段より早くなった呼吸を整えている。

「草むしりはいいのか」

「ちょっと休憩。畑から、ハルがここにいるのが見えたから。練習はどう?」

 口調は軽い。法術のなんたるかも理解してはいないのだから当然だ。一時は説明を試みたこともあったが、神殿とのかかわりが薄い彼女には頭の追いつかない内容であったのだろう。包丁の扱いを学ぶのと似たようなものだと認識しているに違いない。

「成果は無い。まったくな」

「そう、難しいんだね。ハルにもできないことがあるんだ」

「お前は私をなんだと……」

「わからないよ、教えてくれないことばかりだもの。いつか話してくれたらいいなって思ってる」

 強要はしないけどね。そう笑まれて、二の句を継げなくなる。苦々しい思いで黙りこんでいると、クロエはそうだと声を上げてアルヘナを見やった。

「ね、アル、そろそろ山羊を迎えに行ってもらえないかな。今日のお昼に使いたいの」

「肉をか」

「やだな、乳だよ。あの子は食用じゃないってば」

「食って食えないことは無いと思うがな」

 それだけ言い残すと、アルヘナは素直に立ち上がり、牧場へと足を向ける。齢二千年を越える気高い龍も、今はクロエが養い主であることを理解しているのだろう。徐々に遠ざかる影を見送って、ハルミヤは「それで」と切り出した。

「耕作を切り上げて、もっともらしい理由で人払いをして。私になんの話だ」

 きょとんと目を丸くされる。ややあって、ばれちゃうかなあと苦笑が返された。

 牧場は村の端に軒を構えている。クロエの家やこの丘はそのちょうど反対側にあたるため、歩いていくには少しばかり時間を要する位置だ。普段ならば日が沈むころに行っている出迎えを、昼間のうちから遣っているのも不自然だった。

「相談。……ううん、愚痴。聞いて欲しい話があったから」

「余所者の私にか」

「だってハルは、私のお兄ちゃんの知り合いなんでしょう?」

 クロエは歌うように言い、真向かいにある険しい顔を見て笑った。

 あしらいにくい娘だと悟ったのは出会ったその日のうち。苦手だと感じたのはその数日後だ。しかしその“苦手”は、学院長に抱いていたものとは趣を異にするものだった。

 適当な距離が見つからない。彼女を見極めようとすれば、いつの間にかすぐ近くに立っている。慌てて後ずさろうとしても、すでに手首を掴んで嬉しそうに笑っている。生まれ持ったものをそのまま抱えて育ってきたのかと思ったが、胸中には確かに暗い色を湛えているのだ。

 その影の断片が、今はクロエの瞳に映り込んでいる。それを認め、ハルミヤは小さく息をついた。

「……聞くだけなら聞いてやる。助言は期待するなよ」

「うん、ありがとう」

 どこから話そうか。クロエは呟いて、膝を抱く腕に力を込めた。

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