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龍翼のディオスクロイ  作者:
三章
15/66

 帰ってからの少女はまるで別人のようだった。

 汚れた手を清め、上衣だけを着替えると、机の上に放置されていた鍋を火にかける。その隣では菜物をサラダに仕立て上げて、豚の燻製と共に皿に並べていく。スープが熱を取り戻すのを確認すると、こちらも深い椀に注いで机に並べる。ハルミヤは目の前で整えられる昼餉の用意を面食らって眺めていた。

「……お前、いくつだ」

 思わず問いかけてしまう。その頃にはもう、少女は汚れた鍋に水を張っていた。ぐるりと不思議そうにふり返る。

「十四歳だよ。あなたは?」

「十六」

「そっか、やっぱり年上なんだね。もうひとりは?」

「にせ、」

「二十と少しだ」

 そうだろう、と低い声で凄む。危うく飛び出しそうだった数字を想像して目まいがした。

 少女は鍋と包丁を端において、ようやく椅子につく。ハルミヤとアルヘナはその真向かいで並んで座り、揃って神妙な表情を浮かべていた。大小の客人が無言で佇んでいるのを、少女はからからと笑う。ハルミヤに睨まれてごめんねと手を振った。

「ご飯どうぞ。家のものだから遠慮しないで……あ、自己紹介がまだだったね。私はクロエ・ファイエット。ここでひとり暮らし」

「……ハルミヤだ。こっちは」一瞥を隣に向けて、「アルヘナ」と続ける。

 数度にわたり仮の名を用いてきたが、銀龍がそれを嫌がる様子はない。人の営みに溶け込むことに異論はないのだろう。嘘はハルミヤに一任しているようで、口を挟まずに食事を見つめていた。クロエに促されて、ようやく椀を手に取る。

「その格好、法衣。もしかして神殿の人?」

「いや」

 否定してから言い訳を考える。神学院の法衣も、アルヘナの纏う法衣も、正式な神官が支給されるものとは若干意匠が異なっている。いくら王都から離れた村だとはいえ、目ざとい者には気取られるだろう。

「神学院の生徒だ。王都の」

「神学院!?」

 すっとんきょうな声が上がった。クロエは目を丸くしたまま、まじまじとハルミヤを見つめる。

「す、……ごい人なんだ、驚いた。きっとお金持ちなんだろうね」

 少女の言葉に悪意はない。学術を学ぶ余裕を持つのは貴族ばかりなのだから当然の帰結だ。

 ハルミヤの顔が曇ったのを見て、クロエは失言を悟ったらしい。

「何か悪いことを言ったかな。話したくないなら、もう」

「……いや。名字を出さなかったのは私だ」

 名字。おうむ返しに呟いたクロエにうなずいてみせる。

「ディルカ、と言えば理解できるか。私は捨て子だ。親の顔も名前も知らない。孤児院で育って、神学院に入院した。金持ちどころか自分の家もない」

 憐憫を求めたことはない。同情も鬱陶しいだけだ。その一方で、侮蔑や嘲笑を憎んでいた。放っておいてくれと何度周囲を突き離したかはもう知れない。

 ハルミヤの告白に、クロエは瞠目していた。次に現れる態度は憐れみか、嘲りか、その表情からは見当が付かなかった。諦めて顔を逸らそうとしたところで、クロエが皿を置く。

 ――すごいんだね、と。

 漏れた感嘆に、息を飲んだ。

「その法衣は、きっと想像がつかないくらいの努力の証なんだ。そうでしょう? 才能がなければあそこには行けないというけど、才能だけでどうにかなる場所じゃないことぐらい分かるもの」

 至極真面目な顔で言って、最後にへらりと笑う。

「だからあなたはすごい人、だね」

 世辞を疑う。次に台本を、そして他人の思惑を。あるはずがない、と思い至った瞬間にいたたまれなくなる。――その時の自分の顔だけは、一生鏡で見たくないと思った。

(やめてくれ)

 戯れなら流せる。しかし臆面もない尊敬には慣れない。何故なら自分の労はあくまで自分自身とその未来のためで、他者に悟らせるためのものでも、ましてや褒め言葉を受け取るためのものでもないのだから。ゆえに放たれる言葉は、いつ何時も、生まれ持った素質に向けられるものでなければならなかった。意志で捻じ曲げられるようなものであってはいけないはずだったのだ。

 対応に困ってうつむく。首を傾げるクロエの姿が、視界の隅に映っていた。「もしかして」という喜色の混じった声に、嫌な予感を覚える。

「照れてる」

「誰が」

「なんだ、案外分かりやすい人だ」

「やめろ」

「ふふ、ハルはかわいいね」

「その呼び名もやめろ!」

 同じ呼称を使う片割れが、すっとぼけた顔で記憶の中に佇んでいる。無理やりに頭から追いやって、ハルミヤは髪の付け根に手をやった。荒くなりかけた呼吸をどうにか鎮める。

「世話にはなった、が。今日中にはここを出ていくんだ。名前を覚えたところで」

「今日中に? もしかして王都へ?」

 それがどうした、と視線を向けると、クロエは困ったように眉を下げていた。

「この村は護符があるからいいけど、外は大吹雪だよ。王都だなんて、歩いたら何日もかかるだろうし」

 村の所在地を尋ねると、クロエはいくらか考えこんだあとで籠の木の実を運んでくる。ここが王都、このあたりが南との国境、と木の実を並べてから、その中心地付近に指を立てた。

「村がこのあたり。近く……って言っても、歩いたら半日ぐらいのところだけど、海辺にひとつ町があるの。そこは分かる?」

「ああ」

 机の上を脳裏の地図と重ね合わせ、海岸線を想像する。西へと馬首を向け、海際にぶつかったところに位置するその町は、ディルカメネスにとり海路貿易の一要所とされている。王都同様に護符が置かれ、一年を通して活発な交易が行われているという。

「王都に行くならそこから馬車に乗るのが一番だと思う。でも、さすがに今の時期は動かないよ。少しぐらいの雪道なら平気らしいけど、この吹雪じゃ……もう少し雪が溶けないと」

「短く見積もって、あとひと月」

 暗い声で呟いて、アルヘナに視線を向ける。当の彼女が龍体には戻れないというのだから、再び飛ぶことはできないのだろう。むしろこの村の近くに墜落できたことのほうが奇蹟なのだ。

 吹雪の激しさはすでに身をもって味わっている。待つほかに策が無いことは明らかだった。

(そのひと月で、現状はどう変わる)

 姿を消したハルミヤは、卒業間近に気を狂わせた失踪者の扱いを受けるだろうか。疑問を抱く者はどこにもおらず、神子候補として選び出されていた事実が公にされることは無いのだろう。そうして数日もしないうちに、エツィラの継承の儀が行われる。

 神殿が望んだとおりの先行きだ。ハルミヤが生き伸びていること、そして龍と盟約を交わしていることだけを除いては。だが、力があったところでエツィラの元にたどり着けないのでは意味が無い。

「ねえ、ハル」

「なんだ」

 不本意な呼び名は固定化したらしい。渋い顔で反応を返すと、クロエは木の実を片付けながら口を開く。

「馬車が動くまでここにいるといいよ。贅沢はさせてあげられないけど、食事と寝床ぐらいはどうにかなるから」

「……いや、だが」

 無言でクロエを見る。彼女は照れくさそうにほほ笑んで、籠を片手に立ちあがった。

「私ね、もともとは四人家族なの。両親は死んじゃって、お兄ちゃんはもう家を出ていったから、こんなふうに暮らしているんだけどね。だから部屋はあるし、賑やかになるの、嬉しいし」

 寂しかったから。

 ぽつりと漏れたそれが彼女の本音だったのだろう。ハルミヤが返事に迷っている間に、クロエは取り繕うようにして首を振った。

「お仕事、手伝ってもらえたらありがたいかな。畑のことと、山羊のこと、それと」

 言い終わらないうちに、家の扉が開かれる。最初に肩を震わせたのは他ならぬクロエだった。木の実の籠を胸に抱え、戸惑いも露わに扉を見やる。

 彼女の視線がハルミヤのそれと交錯する。はしばみ色の瞳によぎった影は、濃い。

(怯え、か?)

 続く咳払いは勇気を駆り立てるためのものだったのだろう。クロエは小走りで扉へと駆けていくと、最小限の動きでそれを開く。姿を現したのは長身の男だった。ロドルフさん、と、クロエが呟くのを耳にする。

「やあ、クロエ。今日は牧場に来なかったから心配したよ。昨日、風邪でも引いたんじゃないかって」

「ああ……ごめんなさい、畑のこと、忙しかったので」

「読んでくれれば手伝うって、前々から言っているだろう? 頼りないかい」

「そ、そうじゃないんです。ええと、自分のことは自分でやりたいから」

 歯切れが悪い。傍から会話を流し聞きながら、ハルミヤはぼんやり考えていた。ハルミヤのような初対面の相手にさえ嬉しそうに食いついていくというのに、ロドルフに対してはあえて距離を置こうとしている節がある。

 ちら、と客人を見る。たくましい体つきには存外に整った顔が乗っていた。牧場という単語が出るからには、おそらく彼女が山羊を預けている相手なのだろう。ならばアルヘナが黄色い花を受け取った相手も彼だ。その花弁はクロエの髪とも、青年の髪とも同じ色をしていた。

「花、届いたかな。……飾ってはくれない?」

「貰いものだから、枯れちゃうといけないので。奥で水に差してあります」

 そう、と、ロドルフの瞳が弧を描いた。見るからに悦に入った様子の彼を、ハルミヤは胸の内で嘲笑する。

(なるほどな)

 彼らに悟られぬよう、それとなく部屋の端のくず籠に意識をやる。正しくは、その中に身を潜めている、三段に折りたたまれた花の残骸を。

 家に入った途端、クロエの蛮行は躊躇もなく行われた。贈り物をと咎めることはしなかったが、彼らの横顔を伺っていればその理由も察された。ハルミヤは椀の中のスープを腹に収めながら、会話に耳を傾け続ける。

「ねえ、それで、考えてはくれたかな。前に言ったこと」

 クロエが口の端を引きつらせる。続いて発されたのは愛想笑いだった。

「すみません、ええと」

「牧場のことだよ。クロエが来てくれれば、親父もお袋も喜ぶ。……初孫、見せてやりたいし、さ」

 クロエの笑みが凍る。籠の下で組まれた指先が、きつく掌に食い込むのを見た。

「……初孫」

「いっ、今すぐにってわけじゃないさ。でも、そう、……ゆくゆくは。クロエもひとりで生きていくのは寂しいだろうし。きみの雌山羊だって、ちゃんと世話をして、子供を産ませてやった方がいい。大切なんだろう?」

 山羊はもともとクロエのものではなかったのだろう。おそらくは逝去したという父親が、彼女に譲り渡したものだ。ならばその山羊は、クロエにとって形見も同然の存在に違いない。

 ――思い浮かべる。頼りない足で道を行き、ロドルフの牧場へと向かっていくちっぽけな山羊の姿。はしばみ色の瞳が、怯えるように揺れているのを。

「できれば、今日、返事をもらえたらと思って。春先には忙しくなるから」

「……あの」

「歳のことなら心配はいらないよ。クロエがもう少し大人になるまで待つつもりでいるし」

「ロドルフさん、私」

「親父は村のうちでも力を持ってる。もう寂しい思いはしなくて済むから、ねえ、」

「――クロエ」

 からん、と、椀が机に転ぶ。

 沈黙が鼓膜を苛む。自分の場違いさに苛まれるようだった。全員の視線を集めたハルミヤはその椀を取り上げて、クロエに向けて揺らしてみせる。

「スープが終わった。もう少し作り足してくれないか」

 ハル。名をなぞるように、クロエの唇が動く。

 ロドルフはたちまち不快を露わにした。家の外壁に手を突いて、ハルミヤを睨み据える。

「悪いが、きみ、少し黙っていてくれないか。今は大事な話をしているんだ、きみも余所者なら弁えて」

「余所者じゃない」

 断言してロドルフに視線を返す。はあ? と顔を歪めた彼の前に歩み寄ると、下からねめつける。

「私は彼女の兄の知人だ。世話を頼まれてここにいる。重要な話だというなら、一度私を通してもらおうか」

 啖呵を切ることには慣れていた。――他人に褒められることよりも、ずっと。

 その声色が真実味を帯びたのだろう。一概に嘘だと言いきることもできなかったのか、ロドルフはクロエとハルミヤを見比べる。ハルミヤの刺すような瞳にたじろいで、一歩を後ずさった。

「クロエ。とりあえず、この話は後にするよ。それじゃあまた。おやすみ」

「え、あの」

 逃げるようにして駆けていく背中を、クロエは呆気に取られて見送っていた。籠を抱えた腕を上下させて困惑を浮かべる。最後に、再び椅子に着いていたハルミヤを視界の中心に入れた。

「……ありがとう、ハル」

 鼻を鳴らしたハルミヤの前で、椀は裏返されている。

 満腹を示すそれを認めて、クロエはくしゃりと破顔した。

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