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龍翼のディオスクロイ  作者:
二章
12/66

 銀龍の翼が空を覆っている。風が止んだのはそのせいか、と、ハルミヤは頭の端で考える。どこからか漏れてくる光を反射して、その内側は星空のように瞬いていた。

「娘。その様子では長くはあるまい」

 龍の足元で、ふわりと雪が舞いあがる。笑われたのだと気付いたのは、ねめつけるような頸の動きを見たときだ。その挙動は得物が弱るのを待つ猛禽に似ていた。

「命龍に護られ、のうのうと暮らしていればよいものを。馬鹿な娘だ。短いその命を、自らすり減らそうとは」

 不本意なのだろうがな。付け加えて、命龍はざらついた目蓋を下ろす。

「羨ましいことだ。望まずとも死の訪れる命、限られた時間」

「なにを、言っている」

 龍がぴくりと体を揺らす。眼下の少女を、今の今まで屍も同然と見做していたのだろう。瞳に関心をちらつかせ、ハルミヤの元へと顔を寄せる。伴って、銀の髪には熱を帯びた吐息がかかった。ハルミヤは不快感に眉を寄せてから、そんな余裕が残っていたことに遅れて気付く。

(まだ、生きている、のか)

 それともこれは、龍の与えた猶予か。ハルミヤはやっとのことで顔を動かして、龍の目を見上げる。銀龍が面白がるように尾を揺らした。

「人は幸運だ。自ら築いた巣の末路を、知らぬままで死んでいく」

「……死にたい、のか?」

「お前が現れねば、ここを死に場としてもよかったのだがな。その龍の臭いが、私を呼んだ」

 龍の牙を据えた護符のことだろうか、と、掌を開閉させる。転移の直前まで握りしめていたはずのそれも、這い進もうとするうちにどこかへと落としてきたらしい。感覚のない指先には、ぱっくりと割れた傷口がいくつも残っているのみだった。

「命龍の牙は、もう、ここにはない」

 諦めろ。ハルミヤが吐き捨てても、龍は気分を害した様子もない。軒先の野良猫を見つけた子供の如く、自分を睨みあげる少女へと好奇を向け続けていた。ハルミヤはいくらかたじろいで、ごくりと唾を飲む。

 書物は弁を尽くして龍の巨大さを語る。しかしそれらを残した賢者たちでさえ、直に龍を目にしているわけではない。命龍との面会が叶うのは神子に限られており、龍の姿は彼らの数少ない言葉によって伝えられる。想像の世界に、龍本来の姿形を探ることは不可能だ。

 その龍が、目の前に佇んでいる。色の宿らない瞳は、品定めをするかのようにハルミヤの体の上を移ろっていた。

「人は死ぬ。龍とて不死ではない。生を遂げるまでの時間に、ただ途方もない違いがあるだけのことだ。しかしそれを人間は恐れ、踏みとどまろうとする。愚かなことだ、自らの死に向かえぬがゆえに、お前たちは龍に縋りつく」

 謳うような言葉の端々に、寂寞が顔を覗かせていた。ハルミヤはしばらくの無言をおいて、龍の指し示す解を探る。

「命龍のことか」

「そう、お前たちがかどわかしたあの白き龍。我が最後の同胞。愚かな龍だ。人などを信じたばかりに捕らわれた」

 龍との盟約を交わした初代の神子にして、ディルカメネスを建国した原初の娘だ。その名こそ書物に残らねども、雪原に残された国と神殿は、今も彼女の歴史を語る。

 盟約が国を生み、神を作り、信仰を育んだ。受け継がれる神子の座こそがディルカメネスの根幹だ。しかし銀龍は、その神話すらも嘲笑う。

(最後の同胞)

 龍の言葉を咀嚼して、嚥下する。死を間近に迎えて、ハルミヤの思考はより一層冴えていった。まばたきで答えを導き、冷えた空気を吸う。

「寂しいのか」

 途端、水を打ったかのような静寂が漂った。ひりつく空気に気圧されてたまるかと、ハルミヤは腹に力を込める。銀の土台にはめ込まれた緑石が、音もなく細められた。

「……寂しいかと言問うか、娘。この私に」

 確認は重圧を纏って降りかかる。呑まれぬようにと歯を食いしばれば、傷口のナイフは思い出したかのように主張した。激痛で鋭気を振るい起こし、ハルミヤは頬を吊り上げる。不格好な笑みでも虚勢を張るには十分だった。

「何者も存在しないこの雪原に、用があるのでなければ何故留まろうとする? 答えをくれてやる、お前は孤独が恐ろしいんだ。その生に、誰も寄り添わないことが。だから死を羨む。ただ羨み、行く末を儚むばかり――何ひとつ、望みもしないで」

 求めれば、手にするだけの力がある。しかし龍は欲を抱かない。人の想像も及ばぬほど長い生の中で、先だってすり減らされてきたのはその感情なのだろう。

 ハルミヤはそれを、せせら笑う。

「人間を、命龍を、お前は愚かだと言う。だが私から見れば、お前の方がよほど愚かだ」

 望めばいい。願えばいい。求めればいいのに、手を伸ばしもしない。振るわない力など持っていないも同然だ。

 雪を擦った指先が、龍の足先へとたどり着く。白亜の爪は冷えきっていた。その爪が肉を切り裂いていたのは、幾年昔のことなのだろうと思いを馳せる。

「私が、会わせてやる」

 爪先が跳ねる。自然、払いのけられる形になった腕を、ハルミヤは企みを抱えたまま見据えていた。

「命龍シルヴァスタのところまで、私が連れて行ってやる。……代わりに、その力を。龍の力を私に寄越せ」

 一言一句に力を込めなければ、龍には容易にかわされる。さりとて勢いだけが空回りすれば唾棄されるだろう。突き刺さる値踏みの視線に負けじと、ハルミヤは銀龍を睨み返していた。傾けられていた龍の頸はゆるやかに伸びゆき、やがて空を引き裂く柱に変わる。その高みから、声は朗々と降ってきた。

「……縋るか、娘」

「私に許す年月など、お前からすれば短いものだろう」

 餌を投げる。釣り糸の影は見透かされているだろう。釣人の意思もまた。そうしてもなお喰らいつかせることができなければ、飢えた釣り人は死にゆくばかりだ。

 ゆえに、堪える。しかしどれだけ待っても牙の合間からはひとつの言葉も漏れない。がなりたてる心臓を黙殺し、再び肺を空気で満たした。

「賭けてみろ、銀の龍」

 嘘は要らない。しかし謀略を捨て去ればただの道化だ。

 意識の先で、銀龍は瞳を閉じ、ゆるやかに開く。考え込むときの癖なのだろうとハルミヤは分析していた。ようやく開かれた口の中に、磨かれた牙が鋭く光る。

「娘、名を」

 ――かかった。

 興奮を腹のうちに抑えこんで、ハルミヤは深く息をつく。

「ハルミヤ。ハルミヤ・ディルカ」

 龍は知らないだろう。それが忌まれ続けた名であることを。龍が龍であるがゆえに力を持ちえたように、その名を抱えたゆえに奪われ続けた日々が存在することを。知る必要はない、と胸に呟いて、ハルミヤは銀の龍を仰いだ。

 月光が差したなら、星の光が照らしたなら、銀の鱗はより艶めくのだろう。しかし雪原に吹きつけるのは、脆い命を刈り取るばかりの雪と冷気だけだ。一歩を恐れて立ちすくめば、たちまち埋めつくされて朽ちていく。

(似合いだな)

 美しくある必要も、安らかである必要もない。ただ激情に身を任せ、走り続けていればいい。

 銀龍の唸りに空気が震える。遠くに鈴の音を聞いた気がした。世界が時を止めたかのような錯覚に背を押され、ハルミヤはふらつきながら体を起こす。その腹からは、ナイフが揺られて落ちていった。

「名はやらん。代わりに命をくれてやる」

 そっけない一言は、盟約と同義。

 覆いに包まれるかのような感覚には身に覚えがあった。指先から手首へ、肘へと熱が伝い、無数の傷口を癒していく。わき腹で開いていた深い傷跡も、血さえ止まってしまえば塞がるのは時間の問題だった。

(法術……いや)

 根源こそ似通っていても、仕組みは全く異なるものだ。しばらく考えて、先の言葉の意味を察する。盟約に捧げられた龍の命が、ハルミヤのそれと結びついたのだろう。龍の抱えていた力は、ハルミヤの負傷を補って余りある。その結果が傷の治癒だ。さらに熱が喉を、そして胸の奥にまで触れていくのにうろたえ、ハルミヤは呆然と立ち尽くす。心臓を絞めつけていた拘束が断ち切られたかのように、呼吸はふいに楽になった。

 片や銀龍は、胡乱げに地を鳴らす。人に縛られ、一方的に負担を受けるのだから当然だ。ハルミヤの一瞥を受けて、虫を追い払うように頸を振った。

「ハルミヤ、ゆめゆめ忘れるなよ。お前の命は私の命、逆もまた然りだ。お前の意志が約を繋ぎ、私の力が証となる。自ら棄てようものならこの盟約、無かったものになると思え」

「……誰が、死ぬものか」

 人並みの体、人以上の力。手にしながら死を望むほど愚かではない。ハルミヤは無言で掌を握り込み、開く。両手で同じことをくり返してから龍を見上げた。

「名を明かす気はないんだな」

 当然だとばかりに、銀龍が余所を向いた。ハルミヤはその様子を眺め、いつか講義で聞いた内容を思い出す。

 法術が広く用いられるのは、ディルカメネスの誰もが命龍の名を知っているためだという。長い時を経て龍に抱かれ続けた真名は、力に寄り添う第一の支柱と化している。ゆえにそれを知られることは、首に手をかけられることに等しいのだと。

「ならば私が名前をつける。構わないな」

 いつまでも龍などと呼んでいては、命龍と混同して不便だ。銀龍の無視を了承と取り、ハルミヤはしばし虚空を見た。

「アルヘナ」

 弾かれるように飛び出したのは、異言語の名だった。「どこから引いた名だ」と銀龍が耳を揺らす。ハルミヤは素知らぬふりで首を振った。

「……忘れたな」

 咄嗟の嘘に龍は気付かなかったようだった。文句が出ないのはまんざらでもないためか、それとも感慨を抱くことを知らないためか。隠れて胸を撫でおろしながら、ハルミヤは脳裏をよぎった揶揄を追いやろうと躍起になっていた。

 アルヘナ。双星よ宝玉よとうそぶく青年が、かつて歌うように囁いた星の名だった。仮の名を、と、記憶を辿った瞬間に思い起こされたのが腹立たしい。紛らわすように雪を蹴って、その冷たさに体を震わせる。温度の感覚が戻ってきたのだろうと結論付けて龍を呼んだ。

「王都へ戻る」

 向かう先は片割れの元だ。今まで何を隠してきたのか、すべて吐かせてやらないことには気が済まなかった。

 ハルミヤが雪原へ飛ばされたことに、神殿方も気付いているだろう。追手をかけないのは標的の死を確信しているためだ。転移際の殺傷や虚弱な体がなくとも、荒れ狂う吹雪の中では人は半日と生きられない。自分も同じ運命を辿ろうとしていたのだと思い返して、ハルミヤは今になって身震いをする。

 アルヘナの翼が風よけになっているとはいえ、いつまでも雪原に留まっていては再び死の縁が見えてくるだけのことだ。指先に息を吐きかけ、ハルミヤは頭上を見上げた。

「私を乗せることはできるか」

「お前が振り落とされなければな」

「なら振り落とさないように飛んでくれ」

 責任の在り処を押し付け合うのも無意味だ。アルヘナは渋々身を伏せる。龍は思いのほか痩身の生き物であったが、それでも背は高い位置にあった。手足を伸ばしてどうにか乗りあげ、腰の据わりのいい場所を探す。無機質めいた感触に温もりは無かった。

「雪に落としてやるのも一興だが」

 口の端を吊り上げる龍に、命を共有していることを忘れるなと叫んでやる。たちまち傷の癒える体を手にしたところで、呼吸を失えば心臓は止まるだろう。人間が脆いと称される理由だ。

 アルヘナは至極つまらなそうに、時間をかけて両足を起こす。本来の位置に戻った龍の背は大人の人間の頭を優に超える高さにあった。

 身を凍らせたハルミヤの背後で、折りたたまれていた翼が伸ばされる。

「気は遣ってやろう。落ちるなよ」

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