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龍翼のディオスクロイ  作者:
二章
10/66

 ハルミヤの祈りに呼応して、龍の牙はほのかに熱を持つ。

 教本を携える必要はない。用いるべくは行使する龍の力の具体像と、それを引き出す礼讃、そして神より授かった適性のみ。その適性を有しているがゆえに、学院の門をくぐる子供たちは、誰もが皆、生まれつき神に愛された者たちであるとされていた。

 質量を得た大気の槌が、破られる寸前の扉を内側から弾き飛ばす。破片が勢いを得たつぶてと化し、襲撃者たちに襲いかかるのを、ハルミヤは目前に見つめていた。

 粗削りの木片が胸を突いたなら幸運だ。転げまわるような痛みを知らずに済む。しかし杭がひとたび太腿を貫けば、釣具のように食いこんで抜くことも敵わない。大の大人が血を慣れ流して悲鳴を上げる姿は、ハルミヤの足を竦ませるのに十分だった。

「ハルミヤ」

 硬化した思考に、声をかけたのはバルクだ。

(仲間が、いただろうか)

 もしくは知人が、部下が。彼が相手の顔を見ようともしなかった理由を思い知る。明日は我が身と信じ込んでしまえば、一歩たりとも動けなくなるからだ。

 行くぞ、と唸るように告げた声に導かれる。二つの足音にはすぐに雑音が重なった。

 護神兵は寄せ集めの兵、砂糖に群がる蟻だ。数と付け焼刃の法術を盾に取っているに過ぎない。先ほどと同じ法術を形成して放てば、彼らは昏倒してぴくりとも動かなくなった。

 唇を引き結んだハルミヤを背にかばい、バルクは正面からの刺客をいなす。鈍い殴打の音が響いて二人の男が地に伏した。

 拍をつくように飛び出した咳を、ハルミヤは深呼吸で押しとどめる。ふり向いたバルクの背を殴りつけた。

「まだ、追えている」

 それで十分だった。無言の首肯を合図に、再び足を進ませる。

 心臓が制止を訴えるのを、ハルミヤは耳鳴りの向こうに聞いていた。それを無視し続ければ相応の苦痛を受ける。やがて喉元からは泣き声じみた呼吸音が漏れ始め、慣れた異物感に襲われて血を吐いた。廊下に滴った赤黒い塊を、踏み越えるようにして駆け抜ける。

 その水音に気付いたのだろう。バルクは掌に爪を食いこませた。

「悪い、ハルミヤ、本当に」

「……っ、やめ、ろ。お前の懺悔なんか、聞きたくもない」

 我儘を承知で従わせたのだろう、犠牲を承知で連れだしたのだろう。ならば後悔は要らない、脇目もふらずに導いてくれればそれでいい、のに。焦れは言葉にされることなく鬱屈し、血に織り交ぜられて滴り落ちる。

 ――殺していくのだ、と思った。

 ひとつひとつ、自分の体を、その奥にあるものを引きちぎり、ねじり潰しては捨てていく。あとには点々と、自分であったはずの残骸がこびりついているだけだ。

 人気は次第に消えていく。不気味なほどに静まったそこは、おそらく初めから人払いをされていたのだろう。知らぬは本人だけか、と、朦朧とする頭で考える。

 体当たりをするように踏み入れたのは、がらんとした大部屋だった。四方にランプがかかっているのみで、他に調度の類は存在しない。床の石目は規則正しく揃い、居心地の悪さを醸し出している。

「誰もいないのか?」

 バルクは油断なく目を走らせる。だが、部屋は静まり返るばかりで答えを返さない。

 罠だろうか。疑いながら、ハルミヤは背後に意識を向けた。廊下の向こう側から響く足音は、正確に自分を――神子候補の証を持つ人間を目指している。追い詰められるのも時間の問題だろう。

 誘いこまれたのだとしても、他に逃げ道は存在しない。ハルミヤは荒く息をついて、部屋の中央へと進み出る。崩れ落ちるようにして膝をつけば、何の変哲もない床にも、薄く文様が描かれていることが明らかとなる。

 法術を用いれば陣は容易に起動するだろう。唇を引き結び、顔だけでバルクをふり返った。

「私が陣で跳ぶ。……バルク、お前をここに残して」

「分かってる」

 答えに迷いはなかった。ハルミヤはそのことに、わずかに眉を寄せる。

 ハルミヤの身を気遣っておきながら、バルクは自らを顧みない。一人の孤児に過ぎない娘と領主の息子たる青年、どちらの命が真に尊ばれるべきか、考えが及ばないはずもない。それを理解してなお、彼はハルミヤを重んじるのだ。まるで自らの望みを託つかのように、過剰なまでに。

「氷雪より我らを護りし主、命を紡ぐ始まりの龍よ」

 バルクの祈りが陣を呼び起こす。部屋をめぐるように描きこまれた文様が光を放ち、中央に立つハルミヤを取り囲む。伏した目でそれを見下ろして、ハルミヤは小さく口を開いた。

「私を逃がして何になる」

 問いかけは予想外だったのだろう。淀みなく捧げられていた文言が、ひととき虚空に消えた。バルクからの視線を避けるように、ハルミヤは余所を向く。

「私には親も知人もいない。逃げ伸びたところで行くあてはないし、王都を出れば長く生きられるはずもない」

 命龍の力に守護された王都に、四季の変化は訪れない。幼くして尽きるはずだったハルミヤの命が今の今まで保たれてきたのもそのためだ。しかしひとたび壁を越えたなら、荒れ狂う吹雪はいとも簡単に蝋燭の火を吹き消してしまうだろう。

「今からでも私を拘束して奴らに引き渡せば、すべてが丸く収まるんだろう。神殿が望んだとおりに」

 もしも、と考える。神子候補として選ばれることも、本来望んだとおりに神官になることもなかったなら、自分の命はあとどれだけ続いてくれるのだろう、と。

 あと数年であるにせよ、一年と保たないにせよ、常人には遥かに及ばないであろう寿命。十分な医療を受けたところで人並みに生きられるとも限らない。そんな自分に、一体どんな価値があるというのか。誰からも望まれない生を、引き延ばすような価値が。

「いっそ、」

 口にしかけて、やめる。続きを言葉にすることはできなかった。

 すぐに尽きる命ならばいっそ――などと。今にも泣きそうな顔で自分を睨む、青年の前では。

「死にたいのか」

 バルクが問う。ハルミヤは胸に詰まった空気を吐き出して、小さく首を振った。

「……生きていたいに、決まってる」

「なら、いい」

 ほう、と、息をついて、バルクはひとつまばたきをする。

「ずっと昔。お前が孤児院から逃げ出したとき……俺が、初めてお前に会ったときだ。俺はお前に、神官になることを勧めた」

 体も気も弱かった幼少のころ。同じ境遇にあった子供は、しかし自らよりも弱い者にはことに残酷だった。脇目もふらずに孤児院を飛び出して、街中を駆け、泣きながら発作に倒れた夜、ハルミヤの前に膝を折ったのはうら若き少年だった。

「周りの奴らが恐ろしいなら、力を身に付ければいい。神官になって、そいつらを見返してやればいい。そう言ってお前を孤児院に送り返したときのことを、俺はよく憶えている」

 少年の言葉は支柱になった。縋りつくようにして身に付けた学術は、ハルミヤに神学院の門をくぐらせた。入院の報せが届いた日に受けた周囲からの視線――驚愕と嫉妬のない交ぜになった暗い視線を、以来一度として忘れたことはない。

 神官の肩書きは、貧者が持ち得る最後の剣だ。貴族ばかりの蔓延する神学院に、ディルカの名を持つ者はほんの一握り。神殿に上る道がどんなに狭くとも、駆け抜ける以外に選択肢は残っていなかった。

「なあ、ハルミヤ。お前はすごいよ。俺の言った通り、本当に神学院に入って、神官を目指している。才能も何もなくて、親に従うことしかできなかった、俺とは……俺みたいな人間とは違う」

「……バルク?」

 不穏な色を響かせた青年の声に、ハルミヤはついと顔を上げる。バルクは唇の端を引きつらせ、苦しげに笑った。

「最初は羨ましく思った。でもすぐに諦めがついたんだ。お前ならもっとすごい奴になれる、もしかしたら俺が夢見た以上のところに行けるかもしれない、ってな」

「買いかぶりすぎだ」

「いや、俺の目に狂いはない」

 それだけの力を、お前は持ってる。自らに言い聞かせるように呟いて、バルクは体を翻す。

 鼓膜を震わせ続けた靴音は、もうすぐそこにまで迫っていた。バルクは剣を握り直し、深く息をつく。その背中はひとまわり小さく、寂しげに映った。

「だから、さ。……お前みたいなやつは、死んじゃいけないんだ」

 そう、まるで、彼方の星を見るかのように呟いて、バルクは最後の祈りを紡ぎ終える。

 バルク、と呼びかけた声は届かない。歪んだ壁の模様は断絶を訴えた。切れ切れに映る視覚には血を、雑音の混じる聴覚には金属音を捉えながら、ハルミヤの世界は緩慢に色を変えていく。手を伸ばした先に壁は無く、踏み出した足は掬われた。

 遠ざかる青年の肩越しに、ぎらつく刃の光を見る。それが描く軌跡を思い描くのは容易だ。漏れるはずのうめき声も、もう届いては来なかった。

「バルク! バルク……、っ!?」

 わき腹に焼けつくような痛みが走って、外に向いていた意識は唐突に引き戻される。

 突き刺さっているのは短剣だった。顔を跳ね上げても、それを放った相手の姿を探すことは敵わない。直後、がくり、と足元を襲った振動に引き倒されて、放りだされるようにして倒れ込む。転移先を捻じ曲げられたのだと気付いたのは、首元に冷気を感じてからだった。

 悲鳴に似た風音が聞こえる。

 目の前を流れていく、灰のような氷の粒に、望みの果てたことを悟った。

(……ああ、)

 書物は綴る。神子来る前のディルカメネス、氷に閉ざされた極寒の大地――ハルミヤが投げ打たれた先、屍の色に染め上げられた雪原。

 そこはかつて、神に見棄てられた地であった、と。

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