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龍翼のディオスクロイ  作者:
序幕
1/66

落ちた片星

 塔の形に似た影が二つ、雪原に色を落としていた。

 硬質な鱗、強靭な四つ足、折りたたまれた二対の翼。鋭利な牙こそ大口の中になりを潜めてはいるが、その瞳の獰猛さ、鮮烈さばかりは、覆い隠すもののないままでそこにある。

 龍である。

 一柱は降り注ぐ粉雪の色を体に宿している。もう一柱に比べひとまわり小さな体躯は、女人のような丸みを帯びて優美だ。彼女はいくらか穏やかな双眸をまたたかせ、躊躇いがちに口を開く。

「別れを。……告げに、来たのです」

 もう一柱の龍が、尖った耳を動かした。続きを促すそれに、白龍はゆるりと顔を伏せる。

「あなたをひとりにしてしまうことを、とても心苦しく思うけれど。それでも私は、彼女に力を貸すと約してしまったから」

「愚かな龍よ」

 黙りこんでいた龍が嘲笑う。その性質を表すかのように、鱗は銀の色をしていた。地に流していた尾を揺らし、積もりかけた白雪を振り払う。

「名を与え、力を与え。それで我らに何が残される。時か、知恵か、命か? そのどれもを、我が片割れよ、やがてお前は分け与えてしまうのだろう」

 愚かな、と。くり返して、銀龍は喉を鳴らした。

 沈黙の降りた雪原に、舞い降りる雪は羽毛のようだった。温もりを持たない龍の表皮に降りかかったところで、氷の粒が溶かされることはない。わずかな震えに揺り落とされ、死した同胞の上に積み重なって行くばかりである。

 かつて、まだ無数の龍が天空を駆けていた時代。人と龍とを隔てていたのは、断絶を定めた盟約だった。利害のない盟約が交わされ得たのは、龍がその相手に据えられたためだ。生きとし生ける生命の中、命よりも約を重んじ自らを律する種は、龍をおいてほかにない。

 途方もない時の流れを越え、一線を跨いだ者が誰であったのか、今となっては知ることも敵わない。だが人との関わりを持つようになったばかりに、龍はやがて命を絶やし、屍となって大地に埋もれた。残された龍もまた散り散りに行方を眩ませ、ひそかに朽ち、あるいは自ら命を断っていった。

 人の支配する現世に、息づく龍を探し出すことは不可能だ。ゆえに、銀龍にとり、白龍は最後の同胞。欠くことのかなわぬ半身であり、片割れと呼ぶべき存在であった。

(……だからこそ言おう、片割れよ)

「お前は利用されるばかりだよ。龍の力は人には毒だ。我らは奪われ、彼らは溺れる。力有る者は、力無い者と共にいるべきではない。特にお前は」

 訴えに、白龍は口を結ぶ。緑の瞳が地に下ろされ、銀の鱗の上を滑った。長引いた無言は、しかし、了承を導きはしない。

「私は、彼女を信じています」

 透きとおる声。銀龍の爪が雪を掻くのに、白龍が気付かぬわけもない。しかし白龍は、言葉を呑むことをしなかった。

「凍えるばかりのこの地に、彼女は場所を求めました。死すべき場所ではなく、生きるべき場所を。あの細い両肩に、幾万の重みを負って……。あなたも知っているでしょう? 言葉を、交わしたのでしょう? それでもなお、彼女が力に溺れる娘に見えますか」

「あれが人であったとて、人の全てがあれではないだろう」

「それでも。……それでも、ねえ、私は信じているのです」

 銀龍のまなうらに、剣を携えた少女の面影が蘇る。

 彼女の父は、排斥を受けた民の王だ。彼らが戦を避け、逃げ伸びた先に広がっていたのは、雪原が続くばかりの土地であった。長い旅路に王は命を落とし、かくして民の命運が託されたのは、齢二十にも満たない一人娘の双肩。彼女の表情がほころびを見せるのは、龍を相手にするときのみだった。

 ――私は誰よりも弱いから。だから皆に頼らなければ、立っていることすらできない。

 そうこぼした娘は翌日、万を越える人々を従えて雪原を渡ってみせた。しかし最果ての地、名もなきそこに、穏やかな暮らしが待つはずもない。終わりのない開墾が続くにつれ、飢餓と寒さに負けた者から命を落としていった。

 彼らはやがて来る滅びを待つだけだ。耐えきれずに盟約を持ちかけたのは、情深い白の龍だった。

「私に頼らない彼女に、力を貸し与えるだけ。ほんの少しだけでいいのです。それすら許されないというのなら、何故私たちは情を抱えて産まれたのですか」

「……後悔するに決まっている。お前の力は、何も生まず、何も殺せないのだから」

 唸り声の混じった反論に、白龍はかぶりを振る。

「終わりも、始まりも、人がもたらすものでしょう」

 龍は見守るばかりだった。心を揺らされながら生きるには、彼らに与えられた時間は長すぎたからだ。

 銀龍は口をつぐみ、白龍は微笑む。白の翼が伸ばされれば、小雪はつむじ風に舞った。

「またいつか。……いつか会えたらと。そう、願っています」

 巻き起こった吹雪に龍の姿が眩む。雪原に再び平静が訪れたとき、そこに立つ影はひとつだった。鈍色に染まる雲は厚く、光を通すことはない。薄闇と無音に満たされた雪の上に、銀龍は瞳を閉じたまま佇んでいた。



 白龍の声を聞いたのは、それが最後だった。



 幾年、幾十年、幾百年が瞬く間に過ぎていった。

 その年も銀龍は、かの雪原に舞い降りる。様相の変わらぬ地は、取り残された片翼には似合いの場所だった。吹き抜ける凍みた風に、冬の訪れを悟って目を閉じる。

 雪景色を越えた先には、白龍の力に護られた人の国があるという。龍を柱に興された国の名を銀龍は知らない。そこに近づくことを、片割れが許さなかったからだ。龍と龍との間に交わされた約束は、今もその身を縛り付けている。

(愚かな、龍よ)

 力の気配は薄れていくばかり。しかし消えることなく、そこにある。

(お前は)

 騙されることがわかっていたのか。問いかけに答える者はおらず、銀龍は空しさを紛らわせようと体を横たえた。

 その地に冬が訪れるたび、まるで引き寄せられているかのように、銀龍は雪原に身を置いていた。片割れが帰らぬことを知りながらも、翼は龍をここへと運ぶ。

(愚かなのは私か)

 いっそ断ち切ってしまえばと思う。帰らぬ者を待つよりよほど、と。

 虚ろな瞳をしばたかせ、鷹揚に首を上げる。湿った鼻が異臭を嗅ぎ取ったのはそのときだった。濃く香る力の気配――龍の臭い。体を起こせば、なだらかな丘陵のふもと、小さく動く影が視界に入る。それをはっきりと目にしたとき、銀龍は困惑せずにはいられなかった。

 雪原を這う人影。しかしそれが濃厚にまとうのは、他でもない白龍の気配だ。胸をざわつかせた銀龍は、折りたたんでいた翼をようようと開いていく。地を蹴れば、体は軽々と空へ浮かび上がった。

 ――知りたい。知らねばならない。あの人間が我が元を訪れた、そのわけを。天命だと呼ぶならば、その行く末を。滑空する龍の肢体は、放物線を描いて大気を裂く。


 冬を傍らにおいた銀龍が見下ろした先。

 そこには小さな、血の花が咲いていた。

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