002
朱良学園の将棋部は空き教室を部室にしてる。エアコンが取り外されてるせいで室内は熱がこもってた。窓を全開にしたって焼け石に水。なんでこんな冷遇されてんのかって言ったら、所属する生徒が少ないからだ。てか、僕一人しかいない。あれはそう、忘れもしない入学式の日。帰り際、強引な勧誘で入部し、自動的に部長にさせられたのであった。
将棋盤を挟んで座った大柄の男が無骨な指で駒をつまみ、ピシッと打ちつける。
「王手飛車取り」
「えっ! ちょっと待ってくださいよ、いまのなしで!」
「君は何回“待った”すれば気が済むんだね」
まったく仕方がないな、と言って駒の配置を戻すのは柴村源校長だ。彼は仕方がないと言いながらも楽しげにしてる。よっぽど将棋を指すのが好きなんだ。それもそのはず、僕がいなかったら部員はゼロ。将棋部自体だって校長権限でギリギリ残ってるに過ぎない。どうせならエアコンも付けてくれたらいいのに、さすがにそこまでは許容されてないらしい。
でもやってみると将棋は格ゲーと異なる面白さがあり、僕は気に入ってる。
「王手飛車取り」
「またですか!」
一局を終え、柴村校長が大きな手のひらをポンと叩いた。見事なスキンヘッドの頭部を撫でつけ、そうだったそうだった、とカバンをあさる。
出てきたのは木製の駒箱だ。シミや汚れから、だいぶ年季の入った物だって分かる。その中で色あせた巾着袋に包まれていたのは、さらに味のある風貌の駒だった。使いすぎて通常の物よりも薄くなってるのがなんともいい。
「どうしたんですか、それ」
「私のコレクションだ。家に置いておくと猫にイタズラされるんでな、せっかくだから校内で管理するついでにここで使おうと思ったわけだ」
コレクションになるほどなら高価なんだろう。駒は小さいし、木でできてる。ペットに飲みこまれたり噛み跡をつけられたりする懸念があるんだ。
「いいですね、そういう駒。めちゃくちゃ値が張りそうですけど」
彼の鼻の下には立派なヒゲが蓄えられてる。ヒゲに隠れかけた唇がニッと笑みを形作った。
太い指が三本立てられる。
将棋盤に移された駒が外からの日を受けて黒光りした。相当な年月を経てるのは素人目にも判別できる。相応の渋みと深みが滲み出ていた。この風格で三万円はなさそうだ。それでも高価だけど、学園を担う校長がその程度の物をコレクションにするとは思えない。となると金額は一つ上の桁だ。
「三〇万かぁ、僕には手が届かないなぁ」
缶の縁を唇につけ、リンゴジュースを口に含む。
「三〇〇万だ」
ブフッ。
思いっきり吹き出してしまった。その方向には高価な駒。口を出たジュースが降りかかるのは必至で、汚したら必死だ。事態の深刻さに、瞬時に僕は青ざめた。
駒が消える。駒どころか四つ足の付いた盤までも夢か幻であったかのように霧消した。スローに動く光景に一拍遅れて無数の滴が机に散る。
「うむ、いいリアクションだな」
柴村校長の金縁メガネがきらめく。グレイのスーツの上からでも隆々とした筋肉を見てとれる腕──その先端の手のひらに盤と駒が危なげなく乗っかっていた。
すみません、と僕は反省しながら濡れた机をハンカチで拭く。重い盤を片手で持って、駒を一つもこぼさずに退避させるなんて、どんな腕力と反射神経なんだ。“校長”らしからぬその風貌に僕は常々疑いを持ってる。数ヶ月の付き合いをもってしても謎が多すぎだ。紛争地帯で傭兵として活躍してた過去があっても違和感はない。
「これからはここで管理してもらうんだ、次からは気をつけてくれたまえ」
「あの、管理って僕がやるんですか」
鼻の下のヒゲを撫でた柴村校長が首を捻る。
「君は不思議なことを言うな、他に誰がいるんだね」
ですよねぇ。他にいたらちょっとした怪談だ。
だけど、そんなのムリだ。いくら将棋部専用のカギ付きロッカーがあろうと三〇〇万円を保管するってなると気が気じゃない。ここは断固として拒否しておこう。
「学校で保管するなら校長室の金庫に入れておけばいいじゃないですか」
「学校にそんな物はない。あれは大事な物が入ってますと言っているようなもんだろう。昔から我が校では金庫を置かない方針なんだ」
「なんでそんな方針に……」
「いまの体制になる以前はヤンチャな生徒が多かったからな」
そんなところまで“修羅学”が影響してるのか。瑠羽が言ってた教師と生徒が殴り合う日常ってのは、あながち間違っちゃいないのかもしれない。金庫ごと盗まれる様子をイメージし、一人納得してしまう。
「じゃ、じゃあ肌身離さず校長先生が持っておくとか」
「かさばる」
うわー正論だー。
肩をガックリ落とす。解決策になる妙案は他に思いつかなかった。持って帰るってのも頭によぎったけど、登下校の最中に落としてしまう不安がある。
肩に重々しい手が乗せられた。
「くれぐれもなくさぬように、この世に二つとない代物だからな」
メガネレンズの奥にある瞳は優しい。それが逆に威圧感を与えてくる。
表情の強張った僕は、はい、と返事するしかなかった。
「命を賭けても守ります」
半泣きになって決心する。そのぐらいの覚悟じゃないと不安でしょうがない。三〇〇万っていう金額は巨大だ。月々五万円の返済をしたとしても五年はかかる。青春の大部分を借金返済に追われるのはごめんだった。もっとも、こんな格ゲーマーな僕には青春がありそうに思えないが。
柴村校長がワッハッハッと豪快に笑う。
「君はいまどき珍しく活きがいいな」
「それって褒めてます?」
「当然だ、誇りに思っていい。いまは理事長が学力を基準にして入学者を募るせいで、生気の抜けたような生徒ばかりだ」
柴村校長にはみんなのことがそう見えてるようだ。言い回しから、心底うんざりしてるのが感じられる。僕にはよく分からなかった。
「修羅学って呼ばれてた時代の方がマシってことですか」
額に三本のシワを作って彼は目を丸くする。
ふむ、と柴村校長はなにやら考えこんでみせた。
「創立当初、利益重視で低学力の者を広く受け入れていた。それが悪要因となり、ケンカ自慢が集まってきた。修羅の学園、修羅学。そう呼ばれるに至るまで、時間はかからなかったな」
遠い目をしてる。その双眸に映るのは過去の情景か。
柴村校長は二〇代のころよりここで教師をしてたって前に聞いた。体育の先生で、生徒指導主事もやってたそうだ。そうした時代を生きてきた人には、現代の学校は生温く思えるのかな。
「そうだな、私はなんだかんだであのときの朱良学園が好きなのかもしれん」
苦笑いじみた表情をし、腕時計に視線を落とす。
「おっと、もうこんな時間か。そろそろ仕事があるんでな。片づけを任せてもいいかね」
窓外の日はいつの間にかだいぶ傾いてた。散らばった高価な駒に影が差す。
一つでも紛失したら大問題だってのに、はい大丈夫です、と僕は強がった。褒められ、いい生徒を演じたくなったんだ。たぶんそんな心理は見透かされた。
柴村校長はニッと笑んで広い背中を向けると教室をあとにする。残った僕は一人ポツンと立った。オレンジ色の光に照らされ、床に影が長く伸びる。さぁ、さっさと片づけてシェルパにでも行こう。
駒は椿油で磨かれてしっとりとした手触りだ。巾着袋へ丁寧に入れる。一つ残らずしまったのを念入りに確認し、木の小箱へ収めた。持ってみると軽くて、これが高額だとはとても思えなかった。だからこそ、恐い。もっとズッシリしてた方が説得力がある。
とにかく早くしまってしまおう。専用のカギで金属製の扉を開ける。
背後で戸の開く気配がした。柴村校長が忘れ物でも取りに来たんだろうか。
振り向き、体が硬化する。
「いよぉ~、部活お疲れちゃん。なぁにやってんの?」
貞臣先輩の取り巻きである赤い坊主頭の奴だ。最悪のタイミングで現れてくれた。
僕は後ろ手に駒を入れてロッカーを閉める。カギもかけたかったけど間に合わない、わざわざ急いでガチャガチャやってたら怪しまれる。
「終わったから帰るんだよ。そっちこそ、なんの用?」
「ん~? 俺ぇ~?」
赤坊主がツカツカ歩いてくる。僕と出入り口の対角線上にいて、逃がすまいとしてた。
「ガス代、朝くんなかったろぉ? 大ヶ崎先輩に徴収命じられてんだよねぇ」
そんなこったろうと思った。コイツらにまつわるのは、ろくでもないことばっかだ。
大事な物を任されてるいま、変に長引かせるのは利口じゃない。僕はズボンのポケットに入れてたサイフから千円札を一枚出した。ゲーセンで使う予定だったやつだ、チクショウ。
貴重な財産が無雑作に奪われる。折り畳んだお札をはだけたワイシャツの胸ポケットに入れる赤坊主。用は済んだだろうにジッとこっちを見てきた。
まさか心を読み取ったわけじゃないだろう。野生の勘とでも言えばいいか。
「なぁ、今日はやけに素直じゃないの。どうしちゃったの、勇輝君?」
ハッとなるのを抑えこむ。自分のミスに心の中で舌打ちした。
「別になんもないよ。朝みたいに殴られたくないだけさ」
「なんか俺に隠しごとしてない? 隠しごとはダメだよぉ、俺ら同じ学校の仲間じゃん?」
無言で応える。頭悪そうなのに、なんでこういうことには鼻がきくんだ。
でも考えてみるとそうだ、いつもの僕が簡単にお金を渡すってのはあり得ない。入学して絡まれるようになって以降、殴られようと蹴られようといつだって抵抗してきた。うかつさを呪いたくなる。
「俺だってさぁ、ホントはこんなことしたくないんだぜぇ? いずれ修羅学のトップになるには下積みが必要ってわけ。お分かり?」
相手の手が顔の横を過ぎてロッカーの戸を激しく叩いた。グラグラ揺れて背を密着させた僕まで一緒になって動く。そのせいで中でなにかが落ちたようだった。音や振動からして思い当たるのは一つだ。もっと奥に駒箱を置くんだった。
そんなつもりはなかったけど、後悔が表情に出ちゃったんだろうか。赤坊主はしゃべりをやめて静止する。
どけ、と僕を軽々と払いのけた。扉を開けた彼は上から順に探りを入れていく。ここで変に抵抗をしようもんなら、そこに貴重品があると教えるようなもんだ。今度こそ間違えない。知らない奴にとって将棋の駒は老後の遊び道具だ、黙ってれば気づかない。
そんな祈りに近い理屈に反し、彼が掴んだのは例の駒箱だった。
「俺の親父がさぁ、将棋好きなんだよねぇ」
格ゲーで体力ゲージを最後の一ドット残した気分だ。鼓動が早まってるのを隠すのに必死になる。まだだ、まだ奪われると決まったわけじゃない。こんなときアルティメットファイターでなら、焦らずに待って勝機を掴む。そうやって僕は何度も勝ってきた──
「駒って何十万もするやつがあんだよなぁ」
三〇〇万円だ!
シャレになってなかった。盗まれたとなれば、これは謝って許されるもんじゃない。犯人が分かってようとも相手はいわゆる不良だ、しらを切って逃げおおすだろう。
これもらってくわ、と赤坊主は駒箱を軽く投げてはキャッチし、ご機嫌に戸へ歩んでいく。僕はその背を穴が空くほど見つめた。いつもこうだ、どうしてこう迷惑をかけるんだ。
ふざけるな。
奴が戸に手をかける直前、脚に力を込めた。勢いは殺さず、一直線に突っこむ。額のあたりに衝撃があった、赤坊主の背中に上手くぶつかる。周りにいつもの仲間はいない、個人が相手なら僕だって駒を守るぐらいできる。
相手は戸に当たって呻いた。すかさず跳びかかり、押し倒す。
「返せっ!」
駒箱を掴み、揉み合いになった。
取り返した途端、引っくり返される。こっちが有利な体勢だったのに、なんて力なんだ。上下が逆になり、まったく動けなくなる。せめて一発見舞ってやろうとした拳は上体を反って鮮やかにかわされた。
手首がホコリっぽい床に押しつけられる。
「パンチってのはさぁ──」
首を鳴らした彼は右手を掲げた。
「──こうやんだよっ!」
視界がフラッシュダウンする。
後頭部でゴンと鳴った。硬い拳と床の両方から打撃が発され、それは脳の奥でぶつかる。思考力を奪うのには充分な威力だった。格ゲーのことも駒箱のことも忘れ、揺らめく暗闇を浮遊する。とても気分がいいとは言えない。
「あんまおいたしちゃダメよ、勇気君。徴収もできたし、このぐらいにしてやっからさぁ」
視界に色が戻ると彼は半笑いで立つところだった。
人形みたいに僕は寝そべってる。行ってしまう赤坊主を追いたいのに手足が言うことをきいてくれない。行かせちゃダメだ。貞臣先輩に渡されたら、それこそ取り返しがつかなくなる。なんとしても奪還するんだ。もどかしくなりながら回復を待った。
動くようになった体に歩行を強要して階段へ向かう。一階まで来て廊下を走る。ほとんどの生徒は下校したか部活動でどこも人は少ない。アイツの姿もまるで見当たらなかった。
校舎裏かな。よく貞臣先輩を含めた連中がたむろしてる。もしいなかったら学校を出てるってことになり、返してもらうのが困難になる。明日、連中が駒を所持してるとは限らないんだ。
間に合ってくれ、と願いながら現場に近づく。角を曲がったらリノリウムの床がキュッと鳴った。むせ返る空気に包まれてるのもあって頬を幾筋もの汗が垂れていく。
男の悲鳴がした、短い叫びもする。一人だけじゃない、複数人が次々に悲痛な声を発してるらしい。校舎裏が間近になるにつれ、それはどんどん大きくなった。
外だ。少なくとも誰かがいるのは間違いない。もしかしたら赤坊主が同類をシメる目的で暴れてるのかもしれない。居ても立ってもいられなくなり、急いで窓を開けて上半身をアルミサッシに乗っけた。
目を見張る。合計で一〇人はいた。そのうち、立ってるのは三人だ。何人かは貞臣先輩の周りにいるのを見かけたことがある。僕と同じクラスの生徒も混ざってた。
小ぶりな体を軽やかに動かしてるのは転校生の瑠羽だ。奴らに目をつけられたんだ、と思ってるうちに長髪の奴の顔面を殴りつける。相手は鼻血を噴き、一発で倒れた。
周囲には似たように再起不能になった者が何人もいる。ちょっと目立っただけの少女にこんなに人数を集めるとは恥ずかしい奴らだった。たぶん人数で脅して屈服させようとしたんだ。
彼女は臆してない。
脇腹を狙った蹴りを瑠羽が両腕でブロックする。接近は一瞬。相手の脚をレールのように辿り、ふところに入りこむ。跳躍。真下からのアッパーが一人を打ち抜いた。文句なしの快勝だ。
夢でも見てんのかな。赤坊主にやられて僕はとっくに気絶してるんじゃないだろうか。本当は保健室のベッドで寝てるとか。ハハハ、僕らしいや。
「勇輝なのだ!」
え?
いきなり呼ばれ、アルミサッシに乗っけた体がグラつく。制御がきかず、ヘソを中心にヤジロベエのごとく揺れて振りがどんどん大きくなった。
地面が近づく。視界は真っ黒。顔から地面に激突し、真っ逆さまになった。夏の蒸れた土の匂いが鼻腔を抜ける。せめて口に土が入るのは避けようと唇を固く閉ざしてみた。
無様だ……。
「大丈夫なのだ?」
影が僕を覆う。
うん、と返事して顔を上げると彼女の太ももがあった。スカートを覗ける角度で目を逸らそうとしたけど、黒いスパッツを着てると知って安心したような残念なような……。
彼女は無邪気に笑う。
「勇輝って結構どんくさいのだ」
「酷いなぁ、これでも瑠羽を助けようとしたんだぞ」
差し出された手を握って地に立つ。
体つきと同様に小さな手だった。でも指の付け根が硬く出っ張ってる、いわゆる拳ダコってやつだ。彼女は何者なんだろう。格ゲーの腕といい興味をそそられる。
なんならこれからゲーセンに誘ってみようか。シェルパにいたってことは、家だってそう遠くないんだろう。放課後、ちょっと寄り道して遊ぶぐらい平気だ。
「あのさ、今日これから──」
──ゲーセン行かない?
言いかけた言葉は、瑠羽の構えに途切れさせられる。
「でも残念なのだ。もっと本気で戦えると思ってたのに」
左右の拳がなにもない空間へ素早く繰り出された。軽くやってるようなのにパンチが全然捉えられなかった。次に蹴り。頭部の位置に向けたハイキックが風を巻き起こす。それからグルッと回転し、後ろ回し蹴り。流れるような動きは華麗な踊りにも感じられる。
彼女は息をゆっくり吐き出しながら、スローな動作で片腕を校舎の壁へ向ける。
僕はまぶたをこすった。彼女の手が淡く黄色に光ってるように見えたんだ。目を凝らし、よりハッキリと視覚する。日光のイタズラとか決してそんな錯覚なんかじゃない。それは広げた手を中心として徐々に膨らんでいく。
「ハッ!」
彼女の発声とともにガスコンロに火を点けたときの音がした。コンロなんてどこにもない、手元から鳴ったんだ。さらに驚くべきは、大きくなった光が離れて勢い良く飛んだことだった。壁に命中し、野球ボールサイズの範囲で表面にヒビが入る。小さな破片が散った。唖然としつつ、わずかにうがたれた壁を見つめる。
ふぅ、と呼吸を整える瑠羽。
僕は正気を取り戻した。
「いまなんか出た!」
「うむ、出るのだ」
「当然みたいに言うなよ! 普通出ないって!」
これは夢なのか。現実にこんなことがあってたまるか。夢、夢なんだ。やっぱり赤坊主に殴られて僕は気絶してて、そっからが夢の中で、いまこうして見えてるのは全部が架空のモノなんだ。うん、それなら筋が通る。
──じゃあ顔に宿る殴られた痛みは、どう説明つけよう? 夢では痛みを感じないと相場が決まってる。てことは、これは現実?
「ど、どうしてそんなことできるんだよ」
「豪泉は修行次第で誰でも操れるのだ。だから勇輝にもできるのだ」
「いや、ないない」
真顔で返す。そんな誰も彼もが使えるんだったら、日常が不思議な力の持ち主で溢れる。
「だいたい豪泉ってなに?」
「豪泉は体内エネルギーなのだ」
「もともと体にあるってこと?」
瑠羽が首肯する。
「豪泉を操れれば、体を強化したり反応速度を高めたり色々できるのだ」
「本当にそんなことできるんならすごいね。特に、さっきの光の球」
「あれは豪波。豪泉を外に出した形なのだ」
ふ~む。即興で考えたにしては、よどみのない受け応えをする。彼女の言ってるのは真実なんだろうか。現に実行してるから否定のしようがない。あるいは、僕を騙すためのトリックか。いいや、騙して得することなんてないんだから考えにくい。
「ただ豪波は難しくて、通常の私には実戦で使いものにならないのだ」
なにか言い回しに引っかかりを覚えながら、そうなんだぁ、と相づちを打っておく。
受け入れるしかない──否、僕は受け入れたかった。瑠羽は言った、誰でも操れる、と。豪泉とやらを習得すれば身体能力が上がるという。そうしたら変な奴らにちょっかいを出される心配がなくなる。将棋の駒を奪われたりしなくて済む。
とるべき行動は一つしかない。
「僕に豪泉を教えてよ」
「ムリなのだ」
瑠羽がニッコリして言った。
ん? 僕の聞き間違いかな?
「僕に豪泉を教えてよ」
「ムリなのだ」
ニッコリ顔に変化はないが、その返答は僕の望んでいないものだった。
あれれ、なんかおかしいぞ。ええと、瑠羽は誰でも豪泉ができるみたいなふうに言ったよね。誰の体にもエネルギーがあるなら、ムリってことはないんじゃないか。
「念のため訊くけど、どうして?」
「私にも分からないのだ」
「え?」
「生まれつき使えたのだ」
「豪泉を?」
瑠羽が肯く。
ふむふむ。僕は考えこむ。
「んじゃ、誰でも使える保証はないんじゃないの」
「父さんが言ってたのだ」
ああ、それなら納得。父親は一家の大黒柱だもんね。いい加減なことは言わないよね。
「て、納得できるかいっ! 僕の純情な心をもてあそびやがって~!」
少しでも希望を持ったのがアホだった。
瑠羽に優しく肩を叩かれる。彼女は小さな唇に微笑をたたえていた。
「なんだよ、慰めなんていらないよ。どうせ豪泉は使えないんでしょ」
「使えないのだ」
「ほらみろ。もう放っておいてくれよ」
そうだ、こんな茶番には付き合ってられない。将棋の駒を取り返さないといけないんだ。きびすを返し、アルミサッシの窓枠へ手をかける。
その背に声がかけられた。
「勇輝にも使う方法があるのだ」
「はいはい、どうせお父さんが言ってたんでしょ」
窓枠に脚をかけるフリをしながら、心の底では期待してた。え、え、ホントに使える方法があんの? ホントのホントに? そんな希望に満ちた自分が嫌になる。
背後でファスナーを開ける音がした。たぶんカバンを開けたんだ、ゴソゴソとし始めたのを感じる。即日実行できる手段を出そうとしてるってことだ。こんなどうしようもない自分にも彼女の行った力を使えるようになるに違いない。
ええい、辛抱たまらん! 僕は振り返る。
「すぐに豪泉を使える機械があるとか?」
「使えないのだ」
カバンに腕を突っこんだ瑠羽がなにかを出そうとしてた。
小さな背中を冷めた目で見つめる。
「もうそのパターンは飽きたよ」
「自分自身が使うより勇輝向きの方法があるのだ」
「僕向き?」
ピョンと跳ねて半回転した彼女のスカートがひらめいた。じゃーん、と肩幅ほどの細長く平べったい箱状のなにかを差し出してくる。それがなんなのか察するまで、一秒も要さなかった。それは僕にとって日常にありふれた存在だったからだ。
「アケコン?」
彼女はニンマリしてコクコク肯いた。
どっからどう見ても、ゲーセンの筐体コントローラ部に似せたアーケードコントローラだ。ボールのついたレバーに八個のメインボタンは馴染み深い。現代じゃネット対戦が主流になって、自宅で全国のプレイヤーと対戦できる。そのとき使うのがこのアケコンなんだ。
手に持つとズッシリ重い。通常のアケコンより中身が詰まってそうだ。それだけで普通じゃないってのが伝わってくる。
「FASに似てるね」
「フュージョンアーケードスティック?」
「そう! JING製の!」
「あれはいいアケコンなのだ。そういえば似てる気がするのだ」
つい瞳を輝かせてしまう。学校だとろくに格ゲー関連の話ができない、僕にとっては瑠羽の存在がオアシスに思えてくる。
株式会社JINGは昔からあるゲームコントローラ専門の企業だ。国内最大手で、手頃な値段で不自由しない商品が買える。JING製を買えば間違いないってのが格ゲーマー間での共通認識だった。
「これ、どこのメーカーなんだろ」
瑠羽も分からないみたいで首を横に振る。外装はアルミで鈍い銀色をしてた。レバーやボタンも同じだ。ある種、オシャレで高級そうだけど、これは別の物を連想させられる。
引っくり返すと左下に「|FAP‐α(ファップ‐アルファ)」と雑に刻みこまれてた。頭文字の“FA”は“フュージョンアーケード”シリーズを思い起こさせられるが、そうとも限らない。それに「α」ってのは製品名とも思えなかった。
「試作機、なのかな」
姿形といい裏面の文字といい、そうとしか考えられない。
「どこで入手したの」
「ジイちゃんにもらったのだ、入学祝いに」
「アケコン関連の会社に務めてたり?」
「ジイちゃんは年金暮らし。ゲームも全然なのだ」
謎が謎を呼ぶ。なんでそんな人が試作機を持ってるんだろう。もしや自作した? ゲームにうとい人がそんなことをするのは不可能だ。アケコンの構造は奥深く、レバーの柔らかさやボタンの感触など少しの違いでプレイに影響がある。軽く触れてみた感じだとなんとも絶妙なバランスで成り立っていた、製作した人は間違いなく職人だ。一度おジイさんに会ってみたくなってくる。
それはともかくとして、このアケコンがどうしたっていうんだろう。僕向きって言っても、単に格ゲーをするんじゃいつもと変わらない。
こっちの疑問を察してか、瑠羽が側面にあるスイッチらしき物を切り替えた。一拍してモーターの回る震動が腕に伝わってくる。通常のアケコンはほとんど基盤が入ってるぐらいで、こんな動作をするのは奇異だ。それだけで、ただならぬものを感じさせる。
それになんだろう、この感覚は。意識が半分ぐらい雲がかり、その代わりに別の意識が生まれたような不可思議な感じがする。自分の視界がありながら、もう一つの景色が重なったみたいになってる。
「ちょっと適当にボタンを押してみるのだ」
「押すって、こう?」
パンッと軽快にボタンを叩く。ほぼ同時に瑠羽の拳が風を切って放たれた。
目を真ん丸にする僕へ瑠羽がニヤリとする。
「もっと色々押してみるのだ、いつもみたいに」
いつもみたいに──それは格ゲーをしてるときの僕を指してる。
アルファイのボタン配置だと上下二列に並んだものの左上が小パンチだ。上段四つの左から三番目が大パンチ。オーソドックスなシステムだと小パンチから大パンチがコンボになったりする。コンボってのは技を高速に連続で繋げることだ、現実にはあり得ない動きもできるのが格ゲー独自のアクションである。
半信半疑ながら僕は頭に架空の格ゲーをイメージし、小パンチ、小パンチ、大パンチとボタンを押した。するとどうだろう、操作のテンポと変わりなく彼女が攻撃を繰り出すじゃないか。ジャブが二回にストレートが一回。決して僕のタッチ音に合わせて動いてるんじゃなかった。多少のラグはあれど、同テンポで動くにはこっちのやろうとすることを先読みしてなくちゃ不可能だ。数フレームの時間はそれほど短い。
自分のコントロール通りに人間が動くという現実に声もなく驚愕する。
「どゆこと?」
そんな平凡な質問しか出てこなかった。
おでこの上あたりを指先で探る瑠羽。
「これが受信装置になってて、アケコン通りに動くのだ」
つまみ出したのは白いカプセル状の金属だった。一部に固いゼリーみたいな物体が付着してる。その粘着力で頭に付けてたんだろう。
体はもともと電気信号により動作してるってテレビで観た。それを前提に考えると、アケコンから信号が発されてカプセルに伝わり、脳から体に命令が下される。一応、そんな仮説は立てられるものの、にわかには信じがたかった。
「そんなちっちゃいカプセルで本当にできるのかな」
「全部で四つあるのだ」
頭部を中心に彼女は指差す。
「そういう問題じゃなくてさ。だってそんな技術があったら革命的だよ」
「こうして実在するのだ」
どんなに否定しようと瑠羽は操作に連なって動く、その事実は受け止めなくちゃならない。出所や原理は不明としても、僕はいま現物を手にしてるんだ。頬をつねってみても、やっぱり痛覚は働いた。
「カプセル付けた人がキャラになって、操作する人がプレイヤーになるってことだよね」
「それと、FAPを使えばキャラ役の持つ力の一〇〇パーセントを超えられるのだ。試しに2・3・6でパンチしてみてほしいのだ」
2・3・6ってのはレバーを下から右下、右に動かすことだ。電卓のボタン配置で覚えるのが分かりやすい。各配置の数字を基準にレバーの操作を示すのが格ゲーマーだ。2・3・6は格ゲーで弾撃ちやその他の技でよく使われるオーソドックスな入力だった。
「もしかして、それって」
問いかけには応えてくれない。カプセルを付け直して待ってる。
やってみれば分かる。僕は汚れるのも構わず地面にあぐらをかき、脚にアケコンを載せた。
物音がする。さっき倒された不良の一人が復活したんだ。こめかみに血管を浮かせた形相は怒れる鬼。喉奥から獣の唸りを吐いて双眸をギョロつかせる。瑠羽に向けて彼は体勢を整えた。
FAPの性能が本当なら、僕がなにもしないと彼女が殴られかねない。やるしかなかった。
レバーを握る手に汗をかく。目は敵をロックオンしたままだ。不良はジリジリと間合いを詰めてくる、その脚を注意深く凝視した。
来る。膝がわずかに沈みこむのが見えた。即座に2・3・6を入力してから大パンチボタンを指先で叩く。ケンカの場には似つかわしくないタッチ音が響いた。
瑠羽が右手を左の肩へやる。そこを中心に太陽に負けないまばゆい光がほとばしった。次には腕を前方へ突き出す。手を包みこんだサッカーボールサイズの球が彼女を離れた。
光の弾が殴りかかろうとする敵に進む。意味不明な現象に向こうは反応すらできてない。カウンター気味に直撃し、奴の足が地から浮いた。大げさに校舎の壁に激突。行き場のなくなった光は潰れ、四方に霧散した。
壁に張りつけになった敵は虚空を見つめる。ズルズルと落下し、うつ伏せに倒れこんだ。
瑠羽がウンウンと肯く。
「さすが私の見込んだプレイヤー、初めてなのにミスなく出せるのはすごいのだ」
「そんなことより、大丈夫なのあれ」
不良はそれっきりピクリとも動こうとしてなかった。カウンターでヒットしたにしても男一人を吹っ飛ばす威力ってのは尋常じゃない。
「FAPを使ったときと使わなかったときでパワーが違うのだ。豪波の鍛錬が未熟な私でも、実戦に堪え得るレベルで撃てる。他の複雑な入力をすれば、もっと威力の高い技になるのだ」
期待どおりの結果だったようで、彼女は満足げにふんぞり返った。
「どうなのだ?」
「どうって、すごいよ」
「なのだ、すごいのだ。それ、勇輝にあげるのだ」
「僕に? これ、入学祝いにもらったんでしょ」
「私はプレイヤー役よりキャラ役が向いてる、だから勇輝に持っててほしいのだ。そうしたら勇輝は私を操作して、誰にも負けなくなるのだ」
誰にも負けない……。
本来は嬉しさが込み上げてきそうな言葉なのに、素直に同調できなかった。アケコンを両手で抱える僕はさっきから小刻みに震えてる。銃なんかを所有したら、いまと似た気分になりそうだ。形こそ馴染みあるが、とてつもない暴力を感じる。持ってることで取り返しのつかない事態を起こしてしまうんじゃないかって不安になってくるんだ。
かぶりを振る。
「ごめん、受け取れないよ」
アケコンを突き返した。
瑠羽はそれを持ちながら、なにかを言いたそうに小ぶりな唇を開きかける。
「お前ら! そこでなにをしてる!」
男の怒声に体を跳ね上がらせて窓の方を見る。顔を出してるのは担任の郷田先生だ。日光が彼の頭皮を直に照らしだし、毛髪のなさを目立たせた。思ってたよりもハゲてる、完全なるハゲだ。いっそのこと坊主にしてしまった方がいいんじゃないかって思える。
「なにって、別に──」
ハッとなる。
周辺には倒れ伏せた青年の数々。立ってるのは転校初日から郷田先生に暴力的な振る舞いをした少女。誤解は免れない──ていうか、まったくの誤解でもないんだけども。
「浅海、武上、二人とも職員室まで来るんだ」
「僕も!?」
想定外の指名にビックリする。
「無事なのはお前もグルだからだろう」
「先生、それは違います。僕はなんにも──」
うん、結構なことをしたよね。アケコンの操作で間接的にとはいえ、どういうことが起こるかはだいたい分かってたはずだ。グルってのも的外れじゃない。じゃあどうする? おとなしく職員室に行って一から説明するか? それこそ自殺行為だ。情状酌量の余地なしである。
瑠羽の手を僕は握る。
「先生、さようならっ!」
一目散に駆けだし、彼女を引っ張った。背後から、おい待てお前ら、と怒鳴りをぶつけられようとやめられない止まらない。容疑をかけられたまま逃げた方がマシだ。
以降、生徒指導主事である郷田先生に睨まれるようになったのは言うまでもない。不良たちは女子にケンカでやられたとは格好悪くてチクれなかったようで、そこは救いだった。停学処分はごめんだ。
・一人でも多くの方に楽しんでもらえればと思います。
・感想や意見、その他もろもろに対する反論や否定などを当方は一切しません。作品を読んで思いついたメッセージを自由に残してください。もちろん、一言でもかまいません。
・完成作品を修正しつつアップしています。更新は数日に1回を目安に考えていますが、遅れることもあるかもしれません。