最終話 「聖体拝領」 その12
青鹿毛の馬の首筋をなでながらかつての部下を見やる眼差しには、特段懐かしさのようなものは見られなかった。もっとも男の顔の半分は鷲を模した仮面によって覆われており、その心中をうかがい知ることは容易ではなく思われた。
「モット・ベイリー型の砦か」
モットは王国語で小高い丘を意味し、ベイリーは広場を示す。直訳すると『丘に作られた広場』が、前時代に主流であった砦の語源であった。
仮面の男――ランツクネヒト隊の指揮官であったフッサールは、ライヘルトから視線を外すと静かに呟いた。長い戦場暮らしの影響で元は仕立ての良かった生地も所々に汚れやほつれが目立ち、その軍装姿はお世辞にも清潔とは言えなかったが、卑しさは感じない。顔の半分を覆う鷲を模した仮面も、不気味さよりもどことなく荘厳な印象を受けた。身の丈は中背のライヘルトよりやや高い程度ではあったが、向かい合う者を気おくれさせる静かな圧力があった。
「左様で。この辺りは大戦の影響もさしてなかった土地でございますれば、かような時代遅れの代物が残っておるのでございましょう」
フッサールの傍らに控えていたゴットフリーが、主の呟きに反応する形で口を開いた。顔の下半分を覆う白髭の間から、白い息が漏れる。潜伏している馬小屋の中は、夜になって一段と冷え込んできていた。
「この娘は仲間が長を裏切ったといい、この男は『青母衣』が公国人ランツクネヒトを粛清したという。確かな事実としては、この者がローランドを殺し、シャムロックは仲間の手で幽閉されたということか……」
ライヘルトとイーファ、そしてフッサールと従士たち。お互いの所在を探っていた両者はついに邂逅を果たした。イーファはフッサールに仲間の裏切りを告げると共に父シャムロックの救出を乞い、フッサールはローランド暗殺についてライヘルトを問い質したが、いかんせん一連の騒動における全貌にたどり着くには及ばなかった。
『青母衣』たちがフッサールの部下であった公国人ランツクネヒトたちを暗殺したことで、粛清を生き残ったライヘルトが報復として『青母衣』を率いていたローランドを単身襲ったことは辻褄として合う。だが、そもそもなぜ『青母衣』がランツクネヒトに刃を向ける必要があったのか、またローランドの指示だったとしてなぜ停戦交渉の最中に暗殺が実行されたのか、フッサールの胸中にはかえって新たな疑問がわくばかりであった。
愛馬をなでる手を止め、フッサールはしばらく思案していたが、ふとイーファを見やるとおもむろに、
「リシャールと名乗る男――ファーガスといったか。そやつが仕えているギイ男爵は、確かアラン伯の縁戚だったな」
出自が不明な上に顔を仮面で隠していることもあり、フッサールはランツクネヒト隊の実質的な指揮官でありながら『旅団』本営の軍議に呼ばれたことは無かったが、さすがに幕僚の顔はすべて知っていた。しかし、アランやバリアンといった主将格と比べればギイは数段位階の低い幕僚であり、あまり印象がなかった。
「そのようでさ」
フッサールの問いかけに今度はギョームが答えた。
「ギイ男爵は港町シェルブールの領主ではありますが、元をただせば平民だそうです。親の代で爵位を買い、その資金力にものを言わせて北西貴族の娘に取り入ったとか。領主としての政務のかたわら今もなお行商人として大陸各地で取引を持ち、手広くやっているようです」
ギョームの補足は半分は的を射ていたが、もう半分は外れていた。父親がニシン相場で大儲けして爵位を買ったのは確かだが、ギイ自身はなりたくて貴族になったわけではなく、有力貴族との婚姻を望む父親が行き遅れたアランの従妹と強引に娶せた結果であった。それまでは父親の商売を手伝いながら王都の大学で数学と天文学を学ぶ一学徒に過ぎなかった。もっとも、そのような内実はフッサールはもとより他の誰にも関心の無い話ではあったが。
「成り上がりの下級貴族とあれば、功を立てるために強引な手法を取ったとしてもおかしくはありませぬな。ましてローランドと対立していたアラン伯の縁戚ともなれば」
髭を撫でながらゴットフリーは頷いたが、主君の視線は中空を見つめたまま動かなかった。
ゴットフリーの言う功とは、戦が終わり用済みになったランツクネヒトたちを青母衣によって処分したことをさしていた。絶対にないとは言い切れぬ話ではあったが、北西貴族には文化的な背景もあってアランをはじめ質実剛健で古風な武人が多く、そのような権謀術数をめぐらす印象は薄い。だからあえて外様のギイが汚れ仕事をやったと考えれば、ゴットフリーの言い分にも理はある。
しかし、どう天秤にかけてもあの時ランツクネヒトたちを処刑する必要性は低い。そもそもギイは主計参謀であり、軍略はもとより武功すら求められる人物ではないからだ。
「とどのつまり、青母衣らに直接聞くより他はない、か……」
フッサールはおもむろに左手を左の耳朶に小さな青玉をつけた少年に向けた。少年は一礼し、両手に抱えていた長剣を、ひざまずいて恭しく主君へ差し上げた。
「恐れながら」
腰に長剣を佩くフッサールの横で、ゴットフリーが首を垂れる。
「さりとて旧式ながらも砦は砦、人数も我らより多勢。攻め手は慎重を期すがよろしいかと存じます」
それに答えず、フッサールは右の耳朶に小さな紅玉をつけた少年の手より乗馬鞭を受け取った。
「ひとつ、策はある」
逆さにした飼葉桶を踏み台にし、軽い身のこなしでフッサールは愛馬の背にまたがった。慣れた手つきでゴットフリーがそのくつわを取る。青鹿毛の馬は真っ白な息を吐きながら二、三度首を振ってたてがみを揺らした。