最終話 「聖体拝領」 その9
市壁の上で寒風にはためく旗は二棹。黄色地に黒い鷲を中央に据えたのは『旅団』に占拠されたドルトムント市、藍色の背景に白い百合は現在の支配者たる王国王家の旗であった。占領軍が土地の旗をかかげることを許しているのは、寛容な態度というより市民の反発を少しでも逸らしたい思惑があったといわれる。『旅団』の占領統治が抵抗なく受け入れられたケルンと比べ、絶え間ない小さな抵抗にあったハノーバーでの苦い経験を踏まえ、地域の住民に配慮する支配へと、『旅団』の方針は変わりつつあった。かつてローランドが唱えた民草を慮る政の体制。それが異国の地で試験的ながらも実行されようとは、数年前までは誰にも想像はできなかっただろう。
そしてその最もたる人物は、浅黒い端正な顔に苦々しげな表情を浮かべ、初老の貴族と相対していた。
「アラン殿、まさか我らの本来の目的を忘れたわけではなかろう? ならば何をためらうことがおありかな?」
王都からわざわざ持参した赤葡萄酒を口元に運ぶと広口の酒杯からまず香りだけを味わい、ゆったりとした動作でアランの黒い瞳を見つめながら、ミシェイル侯爵は杯を軽く仰いだ。
「確かにローランドの言うたとおりには進まなんだが、現状を引いた眼で見れば、当初の目論見に近い形にはなっておるではないですかな?」
「それはそうだが……」
卓上に置いた手に力が入り、アランの手前にある燭台が微かに揺れた。それに呼応するかのように、ミシェイルの口角がわずかに上がったようであった。
潮時か――。ドルトムント市庁舎の一室の片隅で、騎士ライオネルは『旅団』司令アランと侍従長ミシェイルのやりとりを見守りながら、戦さの終わりを感じていた。
皇帝と五大公との不和を利用し、ハノーバーを戦略的に放棄したのがひと月前。予想通り大公グスタフは帰還を果たし、すぐさま皇帝軍の侵攻を受けているハンブルク大公領へと援軍を送った。その間、『旅団』はハノーバーとケルンの中間地点であるドルトムントに駐留して情勢を見守りながら軍の再編を行っていたのだが、ケルンより補充物資と共にやってきたのは、軍を立て直す将兵ではなくシャルル王子の側近にして侍従長ミシェイル侯爵であった。そしてその侍従長の口から、いち早い皇帝との停戦交渉再開が王子の名のもとに命じられたのだった。
ハノーバーより略奪も無く撤退したのは軍事的な戦略であり、飽くまで戦いによる完全決着を望むアラン伯ら武断派に対し、ミシェイル候はローランドの死やランツクネヒト隊の壊滅による戦力の低下や遠征の長期化による兵士たちの厭戦気分増大を指摘し、早急に帝国側との交渉再開をせまった。
「『旅団』遠征の目的は、帝国の富を奪い王都に蓄えること。ひいてはその資金を使いシャルル殿下に王国内の統一をしていただくこと。違いましたかな?」
穏やかな口調ながら、ミシェイル候の言葉は武断派の幕僚たちの反論を封じた。正論であったし、将軍たちにも自覚があったからである。
「ろ、ローランド卿を害した者も捕らえられぬまま、この地を後にするわけには……」
「はてさて、これは異なことをおっしゃる。ローランド将軍は確か病死されたのでは?」
重苦しい空気の中でアランが何とか絞り出した反論の糸口も、わざとらしく驚いた表情を作ったミシェイルの一言で遮られた。同時に室内に緊張がはしった。ローランド暗殺は、『旅団』幕僚だけでなくシャルル王子の側近であれば知っている不文律である。位階ではほぼ同格とはいえ、ミシェイル候のそれは完全にアラン伯に対する露骨な当てこすりであった。
「いやいや、失礼。少しばかり意地の悪い皮肉を申し上げてしまった。歳をとると愚痴と皮肉が多くなってしまうもので」
慇懃無礼な物言いに、アランの顔から表情が消え、その目に殺意の火がともる寸前、ミシェイルは機先を制して頭を下げた。高まった緊張が、一瞬ゆるむ。宮廷の暗闘を勝ち抜いてきた古老の政治家はしかし、交渉の流れを決して相手に渡しはしなかった。
「まさかアラン伯ともあろう御方が成り上がり者の名誉をそこまで気にかけていなさるとは思いもよらず、失言でございました。お詫び申し上げまする。さしづめ、武人同士二年余にわたる戦いの中で互いをお認め合ったのでしょう」
されど、と下げた頭を持ち上げつつ、ミシェイルは上目遣いにアランを見据えた。
「貴殿は青の旗と藍の旗、どちらを先に掲げるおつもりか?」
短い舌打ちとともに、にらみ合いから先に視線を外したのはアランであった。椅子から荒々しく立ち上がったアランは、仰々しく礼をするミシェイルに背を向け、上座の壁に交差して掛かっている二棹の旗を見た。
藍色の地に白百合の王国王家の旗、もう一つが青地に白十字そして盾と白い貂が描かれたレンヌ伯の旗であった。




