最終話 「聖体拝領」 その3
日が落ちて辺りに薄暗闇が広まってくるころ、宿屋の軒先には明かりが灯り始める。それが合図であるかのように、都市での仕事を終えた男たちが次々と門から吐き出され、そのまま市壁沿いの酒場の入り口に吸い込まれていった。
市内にも酒場はあるが、賃金の安い職人や新参の都市生活者にとっては敷居の高い場所であり、自分たちの立場や生活に対する諸々の不満をぶちまけて互いを慰めあうのには、市外に構えられた安酒場こそが相応しかった。長方形の食卓がいくつか並び、体を動かすたびに音を鳴らす粗末な椅子が、その周りに無造作に置かれている。出されるのは安い林檎酒と質の良くない葡萄酒で、値の張る麦酒はもちろん、火酒などの蒸留酒は無い。料理も、小麦で作られた団子、甘藍の酢漬け、炙った雀や兎の肉が出る程度だが、開店からほどなくして、酒場は客で溢れかえった。
客席の合間を縫うように、給仕の女たちがせわしく行き交う。冬だというのに胸元が大きく開き、体の線がはっきりと分かるほどの薄い服装は、金次第で夜の相手をつとめる者たちであることを物語っていた。
酔客たちの話し声や、小銭稼ぎに弦楽器を弾き語る楽士の歌が入り混じる喧騒の店内の隅で、男は一人、頬杖を突きながら酒杯をかたむけていた。年のころは三〇前後、長身で肩幅が広く、なでつけられた艶のある黒髪を後ろで縛り、馬の尾のように背中に垂らしている。フードの付いた薄緑色の短衣の上に袖なしの中衣を羽織り、みかけは狩人のようであったが、それらしい道具は一切身に着けていなかった。
男が空にした酒杯を軽く上げ、小さく左右に振ってみせると、胸の大きな巻き毛の女が酒瓶を手に近づいてきた。女の開いた胸元に一瞬目をやり、男は彫りの深い顔を綻ばせながら、片目をつむった。女が笑みを返し、空いた酒杯に葡萄酒を注ぐ。なみなみと注がれる赤い液体を見つめながら、男はいくつかの話題を女にふった。
「そうね、ここ最近よ。あんたみたいに見かけない顔の連中がちょくちょく来るわ。飲んでいく時もあるし、酒だけ買っていく時もあるし。金払いはいいんだけどね、少し変なの。仲間同士で喋ってる時は、このあたりじゃ聞いたことがないような言葉を使うのよ。まるで呪文みたいなね」
「聞いたことのない言葉か……」
女の返答に、男は片方の眉を軽く上げながら、ひとりごちた。
「ねえ、そんなことよりも、今日は泊まっていかないの?」
しなを作って、女は男の膝に浅く腰かけ身を寄せた。酒精のにおいと女の体香が混ざり合い、男の鼻をくすぐる。まんざらでもない様子で、男は酒杯を傾けながら女の瞳を見つめ返したが、ややあって軽くため息をついて首を振った。
「悪い、今日は駄目だ。若様を待たせてるからさ」
「若様……?」
男の口から出た殊勝な言葉に、女は訝しげな表情をつくった。身なりといい言動といい、男はとても主持ちの従者には見えなかったからだ。
「あんた、いったい……」
二の句を遮るように、男は酒杯を食卓に置くと、左手で女の開いた胸元に飲み代を滑り込ませた。ほんの少し、多めに。
豊かな乳房の間に入れられた銀貨の冷たさに、女が悲鳴に似た小さな嬌声を上げる姿を横目に、酔ったそぶりも見せず、男はごった返す店内から煙のように消えていった。




