第4話 「讃美の生贄」 その16
濠で囲った小さな丘をめぐる木の柵は、いたる所が風化して朽ち、その隙間を乾燥した風が吹き抜けていた。濠にかけられた腐りかけの跳ね橋を渡った先の曲輪には、半壊したままの礼拝堂や納屋が補修されず残されたままで、人の気配は無い。丘の頂上にある石造りの塔だけが、薄曇りの空の下、わずかな威厳を放ち、かつては使われていた城としての名残を残していた。
その塔の壁に背をもたれて腕組みをしながら、短い楊枝を口にくわえた男――ボリスは、近づいてくるローブ姿の人物を待っていた。
「早かったな、ギイの旦那は一緒じゃないのか?」
王国語でも帝国語でもない独自な言語で、ボリスは来訪者に声をかけた。だが、相手は無言のままボリスのすぐそばを二、三歩通り過ぎ、塔の入り口の前で足を止めた。
「小娘ひとりに三人もやられるとは、呆れた話だな、ボリス」
目深にかぶったフードの奥から、ひび割れて掠れた声がボリスに届いた。散乱するイチョウの落ち葉と群生するヒガンバナ。秋の風情というよりは荒廃さを感じる周囲の風景と相まって、ボリスと同じ言語を話すその声は、冷たく荒んだ印象を与えた。
「思わぬ邪魔が入ってな。だが、責任の一端はお前にもあるんだぜ、ファーガス」
腕組みをしたまま大げさに肩をすくめ、悪びれた様子もなく、ボリスは自分に向けられた背中へ言い返した。
「お前がハノーバーで狩り損ねた狼に、大事な兎を横取りされたんだからな」
ファーガスと呼ばれたローブの男の全身が、一瞬わずかに震えた。ややあって、ファーガスはゆっくりと踵を返しつつ、目深にかぶったフードを両手でたくし上げる。枯れた声に似合わぬ壮年の顔が現れ、闇夜のような漆黒の双眸が、猛禽のような鋭さを伴ってボリスを見据えた。
「ランツクネヒトが……」
「おう、それもフッサールのな」
うれしそうに、ボリスは爬虫類を思わせる琥珀色の瞳を細める。端を噛んだ短い楊枝の先が、小さな円を何度も描いた。
「まあ、ちょうど良いじゃないか。シャムロックの首にフッサールの首も添えれば、手柄に箔が付くってものだろ」
「お前……、わざと逃がしたのか」
「まさか。腕利きだったのさ、こっちは三人もやられたんだからな。だが、次はしくじらねえよ」
形よく整えられた眉をかすかに動かし、そうか、とファーガスは小さく呟いたが、その目はボリスの言い分を到底信用しているようには見えなかった。しかし、ファーガスはそれ以上の追及はしなかった。決して予想外のことではなかったし、頭の中ではすでに新たな局面に向けた様々な思考が、矢のような速さで駆け巡っていたからである。
こちらに向けられた目が、すでに自分を見てはいないと気づいたボリスは、腕組みを解くとゆっくり塔の壁から身を離した。踵を返し、ファーガスの来た経路を逆に辿るようにボリスは歩き出した。
「夜には戻る。他の連中は直に帰ってくるはずだ」
落ち葉を踏みしめながら五、六歩進んだ時、囲いの隙間を縫う風のような乾いた声が、その背中に届いた。流ちょうな王国語で。
「一つ言い忘れていたが、男爵の前では俺をファーガスと呼ぶな」
「へいへい、仰せのとおりに致しますよ、リシャール殿」
立ち止まったものの振り返りはせず、ボリスは軽く上げた片手を振った。同じく、丁寧な王国語の返事と共に。
ボリスの姿が曲輪の先にある跳ね橋の向こうへ消えていくのを見届けると、再びフードを目深にかぶり直し、ファーガスは踵を返して塔の狭い入り口をくぐった。一フィート(約三〇センチ)ほどしかない明かり窓から差し込む陽光は弱く、塔の内部の空気は淀んでいて、かび臭かった。椅子や机代わりの酒樽の上には飲みかけの酒杯が置かれ、剥き出しの地面には大量の鳥の骨やパン屑が散乱し、隙間から入り込んだ鼠たちがそれを漁っていた。
残飯にたかる鼠たちを足で払いのけ、ファーガスは壁際に手を伸ばすと、架けてある燭台を取り外して蝋燭に火を灯した。うす暗かった建物内が、ぼんやりと明るくなる。わずかに揺れる灯火をしばらく見つめながら、明るさが増してくるのを確認すると、ファーガスは燭台を片手に地下へ通じる石段を降った。
二〇段ほどの階段を降りた先の、五ヤード(約四・五メートル)四方の空間は、赤錆の浮いた鉄格子によって二分されていた。いわゆる地下牢である。窓もなく換気の悪いそこは、かびと屎尿の臭いが漂い、さながら獣の檻のようであった。
「吉報を持ってきてやったぞ」
たちこめる悪臭に眉ひとつ動かさず、ファーガスは鉄格子の向こうに声をかけた。ボリスの時とは違い、言葉にはわずかに感情がこもっていた。
「お前の娘は無事に逃げおおせたばかりか、フッサールの手の者に助けられたそうだ」
鉄格子の向こうで、何かが動いた。
ファーガスは口元に笑みをたたえ、燭台を掲げて牢の中を照らした。薄明かりの中に、人影が浮かび上がる。そこに、鎖に繋がれた中年の偉丈夫がいた。その顔は血と泥に塗れて憔悴していたが、汚れてもなお消えぬ気品と威厳を漂わせており、ファーガスを見据える双眸は、燭台の明かりを反射して輝いていた。
「ブラインだけでなく、三女神すら誑し込んでいたのか? つくづく悪運の強い奴。だが、それがいつまでも続くと思うな」
挑発するかのようなファーガスの物言いに対し、返ってきたのは鋭い視線であった。
捕囚のいまだ失われぬ精気を感じ取り、ファーガスは口元を綻ばせつつ満足げに小さく何度もうなずくと、やがて小刻みに震えだした。片手に持った燭台が呼応して震え、地下室の中で明かりがゆらゆらと踊りだす。
「希望が大きければ大きいほど、それが潰えた時の絶望の深さは底知れぬ」
独り言ちり、ファーガスは空いた片手でフードを脱ぐと、射るような鋭い目で囚人の顔を見据えた。
「わが兄ガウェインが味わった耐え難き恥辱と果てなき絶望を、お前も味わうがいい。シャムロック、いや、亡国の騎士ローランドよ」
ひび割れ掠れたファーガスの声が、さながら呪文を詠唱するかのように響き渡った。
最終話へ続く。




