第4話 「讃美の生贄」 その9
そこはかつて農耕地だった。初夏になれば辺り一面を埋め尽くす麦の穂が風になびき、さながら静かに波打つ黄金色の海のようで、収穫のために働く人々や農耕馬の姿を、吟遊詩人が波間を飛び交う海鳥や浮かぶ小舟に例え、流浪の画家が油彩画として作品にしたという。
今、夕陽の余光が照らすその場所には、枯れ草色のセイタカアワダチソウが生い茂り、そこかしこで風もないのに波立つように大きく揺れていた。
「そっちに行ったぞ」
「ボリス、回り込め」
草の海を割って落日の方角へ進む線が、ひと筋と、その後ろ一〇ヤード(約九一メートル)ほど離れて四つ見えた。逃げるは一人、追うは四人。逃亡者は暗青色の母衣をなびかせ、追跡者はみな狼の毛皮をまとい獣の刻印をした鉄の胸甲を身につけていた。
息も荒く草むらをかき分けて走る先頭の人影は、筋骨たくましい追っ手に比べると一回りほど小柄で、男にしては華奢、女にしてはたくましい。苦しげな表情を浮かべた顔は少年とも少女ともとれる中性的な面立ちで、あちこちに草の葉で出来た切り傷があり、流れた血がまとう青い母衣にまだらな染みを作っていた。
小柄な逃亡者は、野兎のごとく荒れ野原を飛ぶように駆けた。鎧をまとわぬ分、追っ手よりも身軽で俊敏な身のこなしだったが、体力の差か、次第に両者の距離は縮まりつつあった。
「イーファ!」
鋭いひと声と共に右側で鈍色の光がきらめく。同時に、逃亡者――イーファは強烈な殺気を感じて頭を下げた。刹那、鉈のような形をした直刀が、風を切って頭上を通過した。漆黒の髪が数本、宙に舞う。短い舌打ちを、駆け抜けながらイーファは背後で聞いた。
「おいボリス、何してる」
直刀を空振りした男に、追いついた赤毛の男が息を弾ませながら早口に告げた。
「殺すなと言われたろ」
しかし、ボリスと呼ばれた若い男は赤毛の男を一瞥すると、短い楊枝をくわえたまま無言で地面につばを吐き捨てた。赤毛の男の眉間にしわが寄り、目つきが鋭さを増した。右手が腰に佩いている直刀の柄に伸びる。
「なんだその態度は」
「おい、止めろ」
二人に追いついた別の仲間が、赤毛の男の肩を掴んだ。
「あの小娘を捕まえるのが先だ」
こめかみに白い刀傷を持つ仲間に促され、赤毛の男は直刀の柄にかけた右手を渋々離した。そしてボリスの顔の前に人差し指を突きつけ、「おぼえてろよ、ボリス」と吐き捨てるように呟くと身を翻した。
走り去る仲間たちの背を見やりながら、ボリスは肩に担いだ直刀の刀背で、首筋を二、三度軽く叩いた。軽く歯を食いしばると、楊枝の先が小さな円を描いた。
「つまらねえ、まったくつまらねえな」
ぼやくと共に、殺気を宿していた琥珀色の瞳の光が、急に弱まる。イーファの姿はもちろん、それを追う仲間の姿もとっくにセイタカアワダチソウの茂みの中に消えていたが、焦るでもなくボリスは直刀を鞘に戻すと、だらだらと歩き出した。
はからずも追っ手が一人減ったことを知る由もなく、依然イーファは速度を落とすことなく走り続けていた。心臓の鼓動は早鐘のようで、額からは玉のような汗が吹き出し、傷から滲んだ血と混じって薄紅色の筋を頬に作った。左手でそれを拭い、後方に首をひねった時、二ヤード(約一八メートル)もない距離に迫る赤毛の男の姿が目に入った。男が頭上に掲げて右手で振り回している物も――。
イーファが正面に向き直るのと、赤毛の男が右手を振り下ろすのが同時だった。二拍後、右へ飛ぼうとしたイーファの背中に、重い衝撃がはしった。一瞬で息が詰まり、のけぞったままイーファは前方へ倒れこんだ。
赤毛の男が投げつけたのは、革ひもの両端にこぶし大の鉄球を結びつけたボーラという武器で、元はとある地方の先住民が野鳥を捕る目的で開発し、のちに対人用の打撃および捕獲の武器となった代物であった。
ボーラの一撃を背に受けて地に伏したイーファは、遠のく意識をなんとかつなぎ止め、小さく頭を振ると口に入った土を吐き出し、跳ね起きようとした。しかし、無情にも間断なく投擲されたボーラにより、起き上がって駆け出そうとしたイーファの両足は絡め取られ、再び彼女は地に突っ伏した。
「手こずらせやがって」
追いついた赤毛の男はイーファの背中に膝を落とし、荒々しく組み伏せた。赤毛の男の重みに、イーファは顔をしかめ、短くうめいた。
「あまり手荒に扱うなよ。ファーガスがうるさいぞ」
こめかみに刀傷のある男が、息を整えながら赤毛の男の傍らに歩み寄る。赤毛の男は肩で呼吸しながら、無言で小さく頷くと、投げつけたボーラを拾い上げ、手際よくイーファの手首を縛り上げた。
「くそ、裏切り者ども! それでも『北の部族』の戦士か!」
組み伏せられたままの状態で、イーファは喚き散らした。それが彼女に今できる、唯一の抵抗手段であった。
「血の誓いを破りし者、お前たち、みんな地獄の炎に焼かれてしまえ!」
「黙れ」
赤毛の男がイーファの髪をつかみ、低い声でつぶやいた。いらだちを、辛うじて抑えている声音だった。
「裏切り者はどっちだ?」
イーファを見下ろし、刀傷のある男が続ける。その目には、親しみや慈愛といった色がかけらも無かった。
「混血のお前に、我ら部族の誇りをうんぬん言われる筋合いはない」
「私が混血!?」
男の言葉に、もがいていたイーファの動きが瞬間止まった。それを機に、赤毛の男はイーファの首根っこをつかみ、強い力で体を引き起こした。
「無礼な。私は族長の娘だ。『北の部族』の長、シャムロックの子だぞ」
眉間にしわを寄せ、切れ長の瞳を見開いてイーファは叫んだ。
しかし、彼女に縄打った赤毛の男も対峙する刀傷のある男も、無言のまま、紅潮するイーファの小さな顔に、ひどく冷ややかな、それでいてほんのわずかに哀れみを含んだ視線を注いでいた。
「ヒューゴー、捕まえたぞ」
刀傷のある男は、激昂したまま身じろぐイーファを見つめたまま、周囲の草むらに声をかけた。
「ボリス、どこだ?」
「あんな野郎は放っておけばいいさ。生意気な若造が」
先刻からの因縁か、赤毛の男は吐き捨てるように呟き、いらついた様子でイーファを縛った革ひもを荒々しく引いた。後ろ手に縛られたイーファは短い悲鳴を上げ、捻り上げられた両腕の痛みに苦悶の表情をつくった。
「もう日没だ。さっさと行こうぜ」
赤毛の男はすでに宵闇の迫る西の空を見やって仲間を促したが、刀傷のある男は一瞥を寄越しただけで、大きく息を吸い込むと先ほどよりも声を張り上げた。
「……ヒューゴー、ボリス、用は済んだ。帰るぞ!」
すると、呼びかけに応えるように草むらが割れ、男が一人、現れた。
あちこちに破れ目の入ったつばの広い革帽子をかぶり、塵埃にまみれてごわつき、所々が灰色に変色した黒い外套をまとっている。革帽子の下から見える顔はまだ若いが、濃い茶色の瞳には、死を待つばかりの老人のような虚無的な暗さがあった。




