第4話 「讃美の生贄」 その7
窓から差し込む朝日が寝台に届いた。肉付きの良い若い女が寝返りを打つと、長い金髪がグレゴリの太鼓腹の上を流れた。まどろみの中で好色な聖職者は昨夜の余韻を楽しんでいたが、それは廊下を慌ただしく駆けてくる足音と、無粋に扉を叩く音に中断されてしまった。
「猊下、一大事にございます」
血相を変えて入室してきた部下は、神官であるグレゴリの破戒を気にも留めず、早口で緊急の事態を告げた。
「王国人どもが、姿を消しております。占拠していたグスタフ大公閣下の城館はもとより、兵卒どもが駐留していた市外の旅籠も全てもぬけの殻との事。どうやら昨夜遅く、密かに引き払った模様で……」
「なに!? 全軍が撤退したと申すか!?」
王国軍撤退の急報は、さすがのグレゴリも慌てた。ハノーバーへ皇帝の勅使として到着以来、指揮官アラン伯はもとより『旅団』の行動は手玉に取っていたつもりだったからである。
慌ててグリゴリは直ぐさま宝物庫や食料庫へ人を遣わした。軍隊が戦略的に都市を放棄するのではあれば、その際に宝物や食料は略奪するのが常識だった。せっかく口先三寸で『旅団』を追い払っても、都市の財産を根こそぎ持っていかれては元も子もない。この時ばかりはグレゴリの丸い福顔から一切の笑みが消えていた。
しかし、グレゴリの危惧に反して、大公グスタフ私有の宝物庫と食糧庫だけでなく、都市の倉庫すら略奪にあった様子は一切無かった。従者たちはよほど慌てて逃げ出したのだと王国人たちの臆病さを笑ったが、グレゴリだけはたっぷりと肉のついた顎を撫でながら、いささか納得のいかぬ様子で部下たちの報告を聞いていた。
するとグレゴリは突然いつにない険しい顔で近くにいた部下の肩をつかんで引き寄せた。
「これ、『旅団』が撤退したことは外に漏らすでないぞ。兵士どもは演習か街道荒らしの討伐に出かけたことにしておけ。アランら幕僚たちは依然として儂と交渉中だ。良いな?」
部下は訝しげな表情を浮かべたが、主の迫力に黙って何度も頷くと、すぐさま踵を返した。
「まずい。陛下のご親征が始まるのは春だ。ギュンター卿もハンブルクを陥落させておらぬ。このままではグスタフが戻ってきてしまうではないか」
苦虫を噛み潰したような顔をして、グレゴリは独りごちた。
「今頃あの破戒僧め、肝を潰し慌てふためいておろうな」
整然とした行軍を見やりながら、久方ぶりにアランは顔に笑みを浮かべた。
「だろうよ。あのにやついた顔が凍り付く様を、この目で見てやりたかったわ」
馬上で巨体を揺らし、濃く豊かな黒ひげの中からバリアンは白い歯を見せた。
二将に従う騎士や従者たちにも弛緩した空気が伝わる中、騎士ライオネルだけは緊張した面持ちで移動する隊列に目を向けながら、思いを過去に飛ばしていた。
「全軍を撤収させよと申されるか、ギイ殿!?」
「こ、声が大きいでござるぞ、ライオネル卿」
数日前、ハノーバー大公の城館の回廊にて、ライオネルは主計参謀ギイに呼び止められ、相談があると彼の私室に招かれた。『旅団』の幕僚同士という以外に接点はなく、ライオネルはバリアンのようにギイを嫌ってはいないが、かといって特別友好的でもなかった。
それゆえに相談事の相手に何故自分を選んだのか怪しむライオネルに対し、ギイが打ち明けたのが今回の撤退作戦の構想であった。
ハノーバーを放棄し、全部隊を補給の容易なケルン近郊まで後退させ、再編成する。それはライオネルも考えたことではあった。
常勝の将軍ローランドとフッサール率いるランツクネヒト隊を失い補給線に不安のある今、『旅団』の戦闘力は確かに半減していると言って良い。ハンブルク郊外に駐留している皇帝軍は五〇〇〇人の大軍な上、率いるのは歴戦の名将ギュンターである。これにハノーバー陥落の際に落ち延びた大公グスタフが残党をまとめ、ギュンターと合流すれば万を超す軍勢が集まるだろう。寄せ手三倍と言われるように、城を守るだけなら兵数は攻め手の三分の一で済むが、飽くまで籠城は援軍を待つ前提で行う戦法である。遠征軍である『旅団』が敵の領内で籠城を行うのは、あまりに下策だ。大局的に見て、戦略的撤退は最善の方法ではあった。
しかし――。
不利な状況とは言え一戦も交えずに撤退とあっては、グレゴリの舌先三寸に負けたことを認めざるをえない。アランやバリアンよりは遥かに思慮深いライオネルであったが、彼も本質的には武人であり、出来ることなら戦うことで問題を解決したかった。
「名将カイン=ローレル伯の筆頭家臣にして高名な『赤羽の騎士団』の長たるライオネル卿のお気持ちは十二分に理解しているつもりでござる。いや、分かっております、確かにそれがしは戦場に立ったことの無い臆病者でござるが、一応はシャルル殿下の『旅団』幕僚の末席に名を連ねている立場。ここまで勝利を積み上げてきたのですから、王都に戻る際も意気揚々と凱旋したいと思う心は諸卿らと同じでござる」
出っ張った太鼓腹を揺らし、丸々とした顔に玉のような汗を浮かべながら、ギイはいつになく興奮した様子でライオネルに反論の隙を与えぬ勢いで喋り続けた。
その冗舌にいささかライオネルがうんざりした頃、ギイは一度間を置き、口元を手布で拭うと、急に声を潜めた。
「そこで、ハノーバーを餌にし、皇帝と大公を戦わせるのです」




