第4話 「讃美の生贄」 その5
西は公国を滅ぼし東は東方正教会の領土に侵攻して、帝国史上最も広大な領土を治めた『武帝』カール四世。生涯で四〇回を超える戦さの全てに勝利し、自ら剛槍を奮って討ち取った敵将の首は二〇、捕らえた者は三〇人を下らないと言われ、その武勇は古代神話の軍神の如しと畏怖された。大陸最強と謳われた『巨人兵団』を率いたハンブルク大公アーバインでさえも、カール四世の存命中は皇室に対し恭順の姿勢を崩さなかったほどである。
しかし、一子ヨハン二世は偉大すぎる父帝の功績と周囲からの期待に幼少時から悩まされ、自らの成長と共に増していく重圧に耐え切れず、若くして神経症を発症すると同時に酒に溺れ、カール四世崩御後の即位わずか一〇ヶ月で後を追うように夭折した。母ルイーズ皇后に似た女性的な容姿と繊細な性格は、父の遺した広大な領土と多額の戦費赤字を引き継ぐ力に欠けていたのだろう。
「決して暗愚な御方ではなかった」
悲運の父からその女性的な美しい面立ちを受け継いだ子――現皇帝カール五世を見据え、在りし日のヨハン二世を脳裏に思い浮かべながらエメリッヒは心の中で呟いた。エメリッヒはヨハン二世によって宰相に取り立てられた。それ以前も近習として仕えていた経歴があり、脆弱な皇帝として評価の低い先帝に対して同情的だった。
「この御方は、はたしてどちらの血を濃く受け継がれておられるのやら。英雄か、はたまた……」
一つ咳払いをし、落ち着いた低い声でエメリッヒは報告を続けた。
「和議はグリゴリ卿の粘り強い交渉によって一向に進まぬ様子。ハノーバー周辺に遣わした『楽団』の工作による兵站線の襲撃も続いており、王国の軍勢がこれ以上東進する可能性は皆無かと存じます。そろそろハンブルク近郊に控えているギュンター伯に、ハノーバー奪回のご命令をお下しなさっては如何かと」
エメリッヒは努めて抑揚を抑えたつもりだったが、言葉の最後にはギュンター伯への若干の非難めいたものが混じっていた。
『旅団』とのブレーメン郊外の決戦において後詰めとして控えながら、ローランドの奇策によって混乱に陥ったアーバインの軍を助けることなく撤退したギュンターの行動に、エメリッヒは不信感を募らせていた。
名門の出で謹厳実直、皇室の廷臣であるギュンターだったが、武帝の度重なる遠征を統治と国費の両面の問題から抑えるよう進言したことで一時期閑職に追いやられたことがあった。その際、侵略戦争に積極的に加担していたアーバインとは事あるごとに対立しており、以後年若いカール五世に不敬の態度をとる大公を嫌っていた。
しかし目下『旅団』は帝国にとって共通の敵であり、真っ先に対処しなくてはならぬ外患である。歴戦の将であるギュンターにそれが分からぬわけがない。それでいて大事な一戦において友軍を見捨てたのは、浅はかな私情をはさんだとしかエメリッヒには思えなかった。
「ギュンターの兵は動かさん。もっとも、アレは軍団と呼べる代物ではないがな」
額にかかった長い金髪をかきあげながら、カール五世はエメリッヒの進言を即座に一蹴した。
「いずれにせよ、ギュンターにはハンブルク近くにいてもらわねば困る。あやつもそれは重々承知しておる」
予期せぬ言葉が鉄面皮のようなエメリッヒの表情にわずかな動揺を誘った。
ちらりと視線を投げた皇帝は、整った口元をわずかにほころばせた。
「エメリッヒ、お主には黙っていたがな、余は今のところ王国と戦うつもりはない」
主君のそっけない言葉に、宰相のわずかな動揺は明らかな狼狽に変わった。
「陛下、それはいったい……」
どういうおつもりなのですか?と読めぬ心の内への問いかけは、侍従の出現によって中断された。
「ミュンヘン大公閣下、ただいまご到着。参内のご許可をお求めにございます」
「案の定、フランクフルトは来ぬか」
ほころばせていた口元を引き締めてひとりごちると、カール五世はいつものやや不機嫌そうな顔に戻った。
「通せ。武官どもは軍神の間に集めよ。ミュンヘンとの謁見が終わり次第ただちに軍議を開く」
若き皇帝がおもむろに椅子から立ち上がると、まとう紫紺の長衣に陽光が差す。金糸の刺繍が輝き、その姿は神々しさを感じさせた。
「大公とはいえ皇帝の臣下にすぎぬ。それが開祖ヨハン一世の時代より定められた国の法、国の理だ。それを蔑ろにする者は帝国の民にあらず。強いて行う者あれば、それは余に対し叛心を持つ者だ。叛臣は国家の病患。同じ病なら、まずは内から治すべきではないか、エメリッヒよ」
膝を折って控えている侍従がうやうやしく掲げた宝冠を自らの頭に乗せると、カール五世は氷のような冷たさを放つ青い双眸を宰相に向けた。
「まずはハンブルクを我が手中に……」
かつてカール四世を前にした者は皆、その全身から放たれた気迫と眼力にまるで巨大な虎と対峙しているかのような圧迫感を受けたと口にした。今、眼前の若き皇帝から伝わるのは、光の届かない闇の深淵を覗き込むような、底知れない恐怖感であった。
この御方もまた帝国の歴史に偉大な軌跡を刻むやもしれぬ。『武帝』とはまた違ったやり方で、血塗られた覇道を歩まれるのか――。
自分で気づかぬ間に吹き出していた汗が足元に滴り落ちる。宰相エメリッヒはかつてない戦慄を覚えていた。




