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よほろ軍談記   作者: 鈴木カラス
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第1話 「主よ、安息を」 その2

 来た道を駆け戻りながら、ライヘルトは右手にある森の中に逃げ込んだ。

 不意をついたとはいえ、追っ手は騎馬である。とうてい人の足で振り切れるものではなかった。

 生い茂る葉の間から月明かりがわずかに差し込むだけの暗黒に近い森の中を、ライヘルトは速度を落とさず走り続けた。背後には、確実に追っ手の気配が近づきつつあった。

 大木を見つけたライヘルトはその陰に隠れ、血を拭ってもいない抜き身の剣を握り直し、息を殺しながら乱れた呼吸を整えた。一度、ゆっくりと両目を閉じる。ひんやりとした森林独特の空気に枯れ葉と土の匂い、血の匂いが混ざり合い、不思議と気持ちが落ち着いていくのが分かった。瞬間、脳裏に様々な記憶が駆け抜ける。戦いの前はいつもそうだった。

 十五で故郷を離れて五年。それと同じ年月を戦場で過ごしてきた。自ら選んだ道だった。しかし、望んだ道ではなかった。金の為でも名誉が欲しかったわけでも、まして人殺しが好きで兵士になったわけではない。愛していた家族と生まれ育った土地を奪った帝国から故郷を取り返す。ただ、その望みを叶える為に戦いに身を投じたのだった。

 背を預けた大木の背後から微かな足音が静まり返った森の中に聞こえ、ライヘルトは現実へと戻った。

 閉じた時と同じくゆっくりと両目を開き、静かに長く息を吐く。再度剣の柄を両手で握り直し、正眼に構えた。

 刃渡り二フィート(約六〇センチメートル)ほど、独特なS字型の鍔にわずかな意匠が施されているだけの一見して地味な両刃の剣ではあったが、刀身は分厚く頑丈そうで、相当に使い込まれていた。白兵戦を得意とするランツクネヒトたちが斧槍と共に好んで使う、喧嘩刀カッツバルゲルと呼ばれる戦場刀だった。

 枯れ枝を踏む足音で距離を測り、ライヘルトは右側に飛び出した。

 馬を降りて索敵していた騎士は虚をつかれ、すかさず弩を構えようとしたが、ライヘルトは風のように素早く踏み込んで剣を左から右に薙いだ。

 声を上げる間もなく騎士の首が半分ほど斬れ、鮮血がほとばしると同時に糸の切れた操り人形のように力が抜けていった。

 その体を蹴り倒し、ライヘルトは近くにいたもう一人の騎士に襲い掛かった。

 「くそっ!」

 王国語で悪態をつきながら騎士は抜き放っていた剣を振り上げた。しかし、その動きはどこかぎこちなく、さらに鎧をまとっていない身軽なライヘルトの方がわずかに速かった。

 鈍い金属音と共に、ライヘルトの渾身の突きが騎士の胸を突き破った。剣の切っ先が背中から覗く。即死だった。

 一条の月明かりが差し込み、絶命した騎士の顔を瞬間照らした。生気を無くした兜の下には、そばかすが残るまだ幼さの抜けていない、ライヘルトよりも若い少年の顔があった。

 「アルベール!」

 少し離れた暗闇から悲鳴のような声がした。

 ライヘルトは若い騎士の体に突き刺した剣を抜かず死体を盾にし、引き金を絞ろうとしていた別の騎士に向き直る。その様に騎士が一瞬たじろぐと、ライヘルトは体ごとぶつかって行った。

 金属と金属がぶつかり合う音が闇夜に響く。弩を構えたまま後方にどうっと倒れた騎士を横目で見やり、ライヘルトは剣を死体から引き抜いて駆け出そうとした。

 が、その前に騎乗の騎士が立ち塞がった。先ほど少年の名を叫んだ、隊長格の騎士であった。

 馬術に長けているのだろう、暗闇で足場の悪い場所にも関わらず騎士は巧みに馬を御していた。

 全員が下馬していると思ったライヘルトは一瞬油断し、動きを止めた。

 そこに立ち上がった騎士が背後から鋭い一撃を繰り出してきた。

 完全に躱しきれず、外套が裂け、ライヘルトの左わき腹に火箸を押しつけられたような痛みが走った。二撃目を辛うじて剣で弾くと、ライヘルトは横に跳んだ。馬上の騎士の剣が頭を掠める。革帽子の一部が裂け、濃い茶色の髪が覗いた。

 「卑しい傭兵風情が、よくも……」

 隊長格の騎士が苦々しげに呟いた。

 王国語は完全に理解できないライヘルトだったが、それが自分に向けられた憎しみの言葉である事だけは分かった。

 「剣を捨てろ」

 馬上の騎士と徒の騎士に前後を挟まれながらも、ライヘルトは鋭い視線を周囲に散らして隙をうかがった。しかしライヘルトのわずかな動きにも馬上の騎士は逐一反応を見せ、間合いを完全に読んでいる。下手に動けば打ち倒されるのは明白だった。

 「殺しましょう、騎士を手にかけたんです!」

 徒の騎士が隊長格に向かって叫んだ。

 「どのみち将軍殺しで死罪です。ここで我々が殺したところで変わりは無い」

 しかし一拍置いて、隊長格の騎士はわずかに首を横に振った。

 「駄目だ」

 「こいつはアルベールまで殺したんです! あなたの甥を!」

 「……駄目だ。生きて連れて来いとの命令だ。我らはアラン伯の騎士として、閣下の命に背く事は出来ない」

 隊長格の騎士は落ち着き払った態度でライヘルトを見据え、静かに言った。

 「これが最後だ、ライヘルト伍長。逃げ場は無い。剣を捨てて投降しろ」

 呼びかけに無言のまま、ライヘルトはわずかに体を屈めて周囲に視線を走らせた。

 どう生き延びるか、どうすれば危機を脱する事が出来るか、戦場で鍛えられた勘が頭を駆け巡った。

 状況は容易ではない。わき腹の傷は深手ではないが出血もあり、これ以上長くは戦えない。相手が寄せ集めの傭兵たちであればそれでも何とかなっただろうが、『旅団』の兵士たちは違った。

 ローランドは名誉と武勲を重んじて一騎討ちを主とする伝統的な騎士の戦い方を全否定し、軍隊内に厳格な指揮命令系統を確立して騎士と言えども常に集団で戦う事を徹底させた。数的優位な状況を作り味方の被害を最小限にしつつ敵を確実に倒す。個人の戦闘能力に頼るランツクネヒトのような傭兵たちとも違う、新しい戦い方であり、当初は反発も大きかったものの戦果が上がる事で多くの兵士たちが最終的にローランドの教えに従った。

 それ故に敵に回した時の手強さをライヘルトは身近で分かっていたし、同時に自分の置かれた状態が最悪であることも理解できたが、飽くまでライヘルトは剣を手放そうとはしなかった。

 その姿を見た馬上の騎士は意を決したようであった。

 やむを得ない。すでに部下を四人も殺傷されている。さながら手負いの獣のようなライヘルトを屈服させるには、腕か足を斬り落とすしかなさそうだ。一応、生きて連れ帰れば面目は立つ、と。

 もっとも騎士の顔には、斬ることへのためらいと同時に、私憤を晴らすことが出来る一抹の喜びが自覚の無いまま浮かんでいた。暗闇の中では誰一人として気づく者はいなかったが。

 前後からの殺気が圧縮されていき、場の空気が濃密になっていくのをライヘルトは感じた。

 どちらかを躱すか防ぐことは出来る。しかし、もう一方の斬撃をも同時には不可能だった。頭をよぎったのは、敗北すなわち死、それだけだった。

 ここで自分は死ぬ。何の為に戦い、何の為に生き残ってきたのか。大国間の都合に、ローランドが勝ち得た英雄の称号の代償に、結局は自分の願いとは全く関係の無いものの為に一つの駒として利用されただけなのか。

 激しい怒りと憎しみの炎が胸の中で燃え上がり、ライヘルトの双眸そうぼうに深く暗い光を灯らせた時、遥か遠くの暗闇で何かが光った。

 馬上で掲げられた騎士の剣が振り下ろされようとした刹那、鋭く風を切る音が暗闇を裂いた。

 音が消えた時、馬の嘶きと何かが大地に落ちる音がした。

 ライヘルトには、騎士が馬上から振り下ろす剣と共にゆっくりと落下していく様が見えた。その背に垂直に突き刺さった一本の矢も。

 「逃げろ、ライヘルト!」

 声は落下した騎士の遥か後方から届いた。聞き覚えのあるライヘルトが慣れ親しんだ母国の言葉、公国語だった。

 不測の事態に一人残った騎士の動きが固まった隙をつき、ライヘルトは地に落ち突っ伏したまま微動だにしない隊長格の騎士の体を飛び越え、一気に前方へ疾走した。

 「ま、待て!」

 徒の騎士は王国語で怒鳴った。ライヘルトを追うべきか隊長格の騎士を介抱すべきか、騎士はわずかに逡巡したが、すぐに冷静さを取り戻してライヘルトの後を追おうとした。

 しかし、そこに再び鋭い矢音が響き、何かが騎士の顔を掠めて背後の木に突き刺さった。

 「くそっ、弩か。仲間がいたとは……」

 騎士はその場に伏せ、呼吸を整えながらライヘルトの逃げた方向に目を凝らしたが、その背中はすでに暗闇の中に紛れ、駆けていく足音もやがて擦り切れるように消えていった。

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