第3話 「呪われし者」 その9
窓から差し込む夕暮れの陽光がヘルダの横顔を照らし、白い顔の片側をあかね色に染めた。残照に黒髪は艶やかな輝きを放っていたが、同じ色の瞳は暗く沈んでテーブルの上をじっと見つめていた。視線の先には、琥珀色の蒸留酒が注がれた陶器の酒杯があった。トマスの使いと名乗った中年男が持参した二羽の野兎を、ライヘルトが竈のある土間で慣れた手つきで黙々と腑分けしている間も、ヘルダは酒杯を握ったまま身じろぎ一つしなかった。皮を剥ぎ、関節を断ち切って部分ごとに肉を分け、熟成させるための準備を終えたライヘルトが血で汚れた手を洗って戻ってきた時、ようやくヘルダの口元がわずかに動いた。
「ちくしょう、あいつら。あれだけ言ったのに……。どうして外に……」
呟きはまるで呪詛のように聞こえた。重苦しさを放つ雰囲気が、実年齢以上にヘルダを老けさせて見せた。
竈の種火を拾って蝋燭を立てた燭台に火を灯し、ライヘルトはそれをテーブルの上に置いた。ヘルダの視線が手元の酒杯から徐々に上がって行き、揺らめく蝋燭の炎越しにライヘルトを見据えた。数秒、二人は炎を介して見つめあった。
「ねえ……」
何かを言いかけて、ヘルダは再び口を閉ざした。双眸にも憔悴した様子が伺えた。しかし、ライヘルトは依然として沈黙を保ったままだった。
胸の刻印を見た時から、ヘルダが逃亡奴隷であることは、ライヘルトも薄々気づいていた。戦争捕虜にせよ、人狩りに遭ったにせよ、一度奴隷となった者は死ぬまで奴隷の身分から抜け出すことはない。自由になる方法は、逃げ出すか死ぬ以外には無かった。病気や老いた事によって捨てられ結果的に自由になる場合もあったが、健康で若く美しいヘルダがその例に当てはまるはずもない。人里離れた場所で他者との交流を制限し、身を隠すように暮らすヘルダは間違いなく、どこかの『持ち主』から逃げ出してきた者に違いなかった。夜になると出かけていく理由も合点がいった。隠れ里と物々交換をしているとは言ったが、恐らくそれも一部の者――トマスという男だけを介しているのだろう。しかしそこまで神経質に関係を築いてきたにもかかわらず、ヘルダの思いはあっさりと裏切られてしまったようだった。
「あんたも、追われているんだろ? どこからか、逃げてきたんだろ?」
ヘルダは斜向かいに腰を下ろしたライヘルトの片手を握り、すがる様な目を向けた。その目はライヘルトに頷いてくれと訴えていた。自分と同類だという確証を、切実に欲しているようだった。
「だったらアタシと……」
握られた片手により力が込められた瞬間、ライヘルトは視線を戸口へ走らせた。開け放たれた戸の向こう、暗闇の中に微かな明かりが揺らめくのが見えた。その様子にヘルダが何かを言いかけるのを空いた片手で制し、ライヘルトは燭台に差した蝋燭の炎を吹き消した。室内が一瞬で外と同じ暗さになる。竈の種火だけが漆黒の中にぼやっと浮かんでいた。ライヘルトとヘルダは息を殺して戸口の外を注視した。
揺らめく明かりは徐々に鮮明になり、その数は五つに増えた。同時に、闇の中に人影が浮かび上がった。
「姉さん、いるんだろ?」
闇夜に同化するような黒い外套をまとってフードを目深にかぶった小柄な人影が、戸口に向かって声をかけた。
「トマスが教えてくれたよ、カテリナ姉さん」
子供のような無邪気さを感じさせる呼びかけに、ヘルダの顔はこわばった。恐怖や怒り、不安といった様々な感情をない交ぜにした表情がそこにはあった。
「おーい、姉さーん。出てきてくれないの? じゃあ、入っていいのかなー」
「待って!」
小柄な人影が一歩戸口へと歩み寄った時、ヘルダは立ち上がった。テーブルの上に置かれた酒杯が倒れ、中身がこぼれる。強い酒精の匂いが、ライヘルトの鼻腔をついた。
「今、行くわシルヴィオ」
震える声で、しかし毅然とした態度で答えると、ヘルダはライヘルトを一瞥してゆっくりと戸口に向かった。
その後ろ姿を見やりつつ、ライヘルトは猫のような隙のない動作で静かに床へ伏せ、外からの死角へと移動した。戦場を生き抜いて培われた戦士の勘が、ライヘルトに警告を発していた。息を殺して聞き耳を立てながら、ライヘルトの視線が竈近くの調理用に使う小刀と、そばに立てかけた薪割り用の鉈へと動く。竈の方へ移動しようとした瞬間、足に何かが引っかかった。目を凝らすと、平らな土間の一部に、取っ手のような物が見えていた。




