第3話 「呪われし者」 その7
ヘルダを抱いた翌日、ライヘルトは出立を決めた。良い頃合いだと思った。これ以上ヘルダと一緒にいれば、旅立つ機会を永遠に失ってしまう気も、わずかだがあったからだ。ヘルダの下にいれば、彼女がライヘルトに飽きるまでは、寝る場所と食べるものには困らないだろう。事実この七日間、家には一人も来訪者が無いことから、ヘルダが言った通りここは孤絶した場所で追っ手に見つかる心配も少なそうだった。
しかし、それはライヘルトの望むものではなかった。万難を排しても、ライヘルトには行かなくては、いや帰らなくてはならない場所があった。生まれ故郷、ルブシュ。かつて公国と呼ばれた国の、帝国との国境の地。そこにはライヘルトの今は亡き父母と兄妹が眠っていた。
帝国と戦う『旅団』に協力することで、勝利の暁には見返りとして滅ぼされた公国を復興させるという計画は、ローランドの死によって立ち消えた。原因はライヘルトがローランドを暗殺したからである。しかしライヘルトにしてみれば、先に裏切ったのはローランドの方だという思いがあった。ローランドは公国人たちに誓った約束を反故した上、公国人で構成されたランツクネヒト隊を密かに処分しようとしたのだ。ブレーメン郊外での会戦が終わり、帝国との戦いが事実上終わった直後に。
帝国皇帝直属の傭兵であるランツクネヒトを寝返らせるにあたり、ローランドは最初からフッサールの部隊に目星をつけていた。その理由は部隊編成にあった。最盛期に総数三〇〇〇人を数えたランツクネヒトたちも、創設者である武帝カール四世が死去し、跡を継いだ孫のカール五世が国庫の赤字を理由に解体を仄めかした時は二〇〇〇人を割るまで減っていた。さらにカール五世は外衛府と呼ばれる帝都と皇帝を守るいわゆる近衛兵として五〇〇人ほどを残し、残りのランツクネヒトたちを解雇する予定であった。近衛兵として採用されるのは精鋭であることは勿論ながら、忠誠心の問題から古参の帝国人であることが求められた。
フッサールの隊は最も新しく編成された部隊で、また七割近くを帝国人以外それもライヘルトのような公国人が多く占めていた。さらに指揮官フッサールは優秀ではあったが出自が怪しく、またある特徴によって貴族たちから忌避されており、間違いなく最初に解体されるであろう部隊だったのだ。
敵の不利は味方の有利。特に公国人ランツクネヒトは仕方なく帝国の軍門に下っているが腹の底では服従していない者も多く、そこをローランドは巧みに突いた。ライヘルトもまた、帝国への復讐心をローランドに利用された者の一人だった。
一度、頭を振って思考を追い払うと、ライヘルトは鉈を振り下ろした。乾いた音がして薪が二つに裂ける。機械的な動作で次の薪を掴んで立て、ライヘルトは再び鉈を落とした。
薪の山を半分ほど片付けた頃、ライヘルトは背後に足音を聞いた。鉈を振り下ろす手を止め、耳を澄ます。引きずるような重みのある足音は、ヘルダとは違った。ひと呼吸おくと、右手に鉈、左手に手頃な太さの薪を取り、ライヘルトは足音を測って素早く振り返った。
「……!?」
鉈を振りかぶったライヘルトの前方に、驚きと恐怖を顔に貼り付けた男が立っていた。渋皮で染めた布の帽子をかぶり、荒縄を腰に巻いて泥まみれの長靴を履いている。手に持った棒に絞めたばかりの二羽の野兎を括りつけていた。
「へ、ヘルダに用があって来ただ」
早口で訛りのきつい帝国語を喋りながら、男は手のひらをライヘルトに見せて二、三歩後ずさった。歳の頃は四十手前くらい。手入れされていない髭と汚れた身なりから、身分の高い人間には見えなかった。
「あ、あんたは……、誰だ?」
ライヘルトは無言で振り上げていた鉈を下ろしたが、誰何する男の訝しむ視線はより強くなるのを感じた。旅装ではない男の格好からして、恐らくヘルダが話していた近くにある隠れ里の者なのだろう。だとすれば一人暮らしのヘルダの家に、見覚えのない人間がいる事を怪しむのは当然であった。
「何しに来たのさ!」
男が再び口を開きかけた時、その後ろからヘルダの怒声が響いた。
「一体、何の用!?」
野草を摘んだ籠を放り出し、ヘルダは男に詰め寄った。すぐそばにライヘルトがいることにすら気づいていないような、興奮した様子だった。
「だ、旦那様から言いつかっただよ……」
中年男はヘルダの剣幕に気圧され、その怒りを少しでも避けようとするかのように体を半身にひねりながら呟いた。
「兎を持って行けって……」
「ここには近づかないでって、皆に言ってあるでしょう!」
「旦那様が……」
なおも言いかけて、男は口をつぐんだ。肩をすくめ、げんなりとした表情を浮かべていた。
「用はそれだけ? だったら置いてさっさと帰って。そして二度と来ないで。あんたの旦那様にも伝えておいてよね!」
男の胸に人差し指を突きつけ、ヘルダは吐き捨てるように言った。おずおずと男は絞めた野兎を吊るした棒ごと壁に立てかけたが、帰ろうとする素振りを見せなかった。
「あと、いつもの薬をもらってこいと言われているだ」
「トマス用の薬? 十日分は渡しているわ。まだ無くなるはずないでしょ」
「この前村にやって来た行商人に売っちまっただよ。良く効くからと旦那様が一つ渡したら、もう少し譲ってくれと言われてな」
その途端、紅潮していたへルダの顔から血の気が引いた。白い肌が、瞬く間に青白くなるのをライヘルトは見た。
「よそ者に渡したの!? 村の人間以外には渡さないでって言ったはずでしょ! 村の外にも持ち出さないでって!」
食らいつくような勢いでヘルダは男に詰め寄った。怒りよりも、恐怖に近い感情がその顔に浮かんでいた。




