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私の初恋は儚く散った〜風とスパイスの記憶〜

作者: 春樹凜
掲載日:2026/08/25



 私、クロスバイクのクロスは、自他共に認める熱いハートと脚力を持った女だ。

 

 私の誇りは、ご主人様を乗せて街の風を誰よりも速く切り裂くこと。

 ペダルが踏み込まれ、チェーンが唸りを上げる瞬間、私は生きている喜びを爆発させる。


 ――その日の夕暮れ、私の前カゴには、ご主人様によってベーカリーで買われたばかりのパンたちがひしめき合っていた。

 

 だが甘ったるいメロンパンや、ふにゃふにゃのクリームパンたちの中で、ひときわ異彩を放つ熱い男がいた。


 こんがりと揚がった無骨な肌、そして内側に秘めたスパイシーな情熱。

 その名も、カレーパンだった。


「お前さん、いい走りをするな。 風を恐れないその姿勢、嫌いじゃないぜ」


 カゴの中で揺られながら、彼は私に話しかけてきた。

 カレーの言葉は、世間の甘いパンたちとは違う、ピリッと辛口で本質を突くものだった。


「世の中は甘くない。だが、だからこそ熱く生きる価値がある」


 そう語る彼の生き様に、私は一瞬で心を奪われた。

 

 ただひたすら前へと突っ走ってきた私の心のエンジンに、彼という極上のスパイスが火をつけたのだ。


 私たちはカゴに乗って走るわずかな時間の中で、まるで長年連れ添った相棒のように深く語り合い、熱く惹かれ合った。


 ――しかし、無情にも別れは唐突に訪れた。


 ご主人様が坂を登り切ろうとスピードを上げたその時、道の段差に乗り上げた私の車体が大きく跳ねたのだ。

 一番上に乗っていた彼は、無重力の中でふわりと宙に浮いた。


 そして……ぼとりと地面へと落ちる。

 ご主人様は、それに気づいていない。


「あっ……!」

「気にするな、クロス!」

「でも」


 カレーは笑った。

 夕日に照らされた彼のその笑顔は、最高にクールだった。


「お前は……お前はそのまま、前だけを見て走り続けろ――っ!」

「いやあああっ! カレ――――ッ!!」


 ブレーキをかけようにも、ご主人様の意志なしでは止まることはできない。


 私の悲痛な叫びを置き去りにして、猛スピードで駆け抜ける私の遥か後方へ、彼はアスファルトの海へと沈んでいった。


 家に帰り着き、ご主人様が、


「あれ? 買ったはずのカレーパンがない」


 と首を傾げているのを見ながら、私は静かにオイルの涙を流した。


 そして翌朝。

 寝坊したご主人様を乗せ、私は昨日以上の猛烈なスピードで通勤路を爆走していた。

 タイヤが焼け焦げるほどのオーバードライブ。


 その時、下り坂を走る私の視界の端に、見覚えのある茶色い姿が飛び込んできた。


 道の端っこ。

 昨日振り落とされたあの場所に、彼はまだいたのだ。


「カレー!!」

「クロス……相変わらず、いい風を纏ってるな」


 すれ違えたのは、ほんのコンマ数秒。

 彼は冷たいアスファルトの上で、少しだけ形を崩しながらも、あの時と同じ熱くてクールな微笑みを私に向けてくれた。


 止まりたい。

 今すぐ急ブレーキをかけて、彼をもう一度私のカゴに抱きしめたい。


 だけど、非情な通勤ラッシュの波と、遅刻寸前のご主人様のペダルが、私にそれを許さなかった。


 ごめん、本当にごめん!

 帰りには、絶対迎えに来るから!!


 私は心の中でそう叫びながら、後ろ髪を引かれる思いで彼を通り過ぎた。


 しかし、その日の夕方。

 ご主人様が仕事を終えてあの場所へ戻ってきた時、道の端にもう彼の姿はなかった。

 茶色いパン粉の欠片すら残されていない。


 彼がカラスに連れ去られたのか、それとも清掃車に片付けられたのか、私には知る由もなかった。


「……バカヤロウ。 私より先に走っていっちゃうなんて」


 私は夕暮れの空を見上げながら、ポツリと呟いた。

 私のカゴにはもう彼はいない。


 彼との時間はほんの僅かなもので。

 それでも今にして思えば、私の初恋だったんだろう。


 けれど、彼が教えてくれた、熱く生きるというスパイスは、私のフレームの奥深くにしっかりと刻み込まれている。


 私は悲しみを振り切るように、力強くペダルを踏み込ませ、再び街の風の中へと駆け出していった。



実話です。

カレーパン落としたんです。そして次の日夕方に回収しようとしたらなかったんです。

本当にごめんなさい、カレーパン。

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