私の初恋は儚く散った〜風とスパイスの記憶〜
私、クロスバイクのクロスは、自他共に認める熱いハートと脚力を持った女だ。
私の誇りは、ご主人様を乗せて街の風を誰よりも速く切り裂くこと。
ペダルが踏み込まれ、チェーンが唸りを上げる瞬間、私は生きている喜びを爆発させる。
――その日の夕暮れ、私の前カゴには、ご主人様によってベーカリーで買われたばかりのパンたちがひしめき合っていた。
だが甘ったるいメロンパンや、ふにゃふにゃのクリームパンたちの中で、ひときわ異彩を放つ熱い男がいた。
こんがりと揚がった無骨な肌、そして内側に秘めたスパイシーな情熱。
その名も、カレーパンだった。
「お前さん、いい走りをするな。 風を恐れないその姿勢、嫌いじゃないぜ」
カゴの中で揺られながら、彼は私に話しかけてきた。
カレーの言葉は、世間の甘いパンたちとは違う、ピリッと辛口で本質を突くものだった。
「世の中は甘くない。だが、だからこそ熱く生きる価値がある」
そう語る彼の生き様に、私は一瞬で心を奪われた。
ただひたすら前へと突っ走ってきた私の心のエンジンに、彼という極上のスパイスが火をつけたのだ。
私たちはカゴに乗って走るわずかな時間の中で、まるで長年連れ添った相棒のように深く語り合い、熱く惹かれ合った。
――しかし、無情にも別れは唐突に訪れた。
ご主人様が坂を登り切ろうとスピードを上げたその時、道の段差に乗り上げた私の車体が大きく跳ねたのだ。
一番上に乗っていた彼は、無重力の中でふわりと宙に浮いた。
そして……ぼとりと地面へと落ちる。
ご主人様は、それに気づいていない。
「あっ……!」
「気にするな、クロス!」
「でも」
カレーは笑った。
夕日に照らされた彼のその笑顔は、最高にクールだった。
「お前は……お前はそのまま、前だけを見て走り続けろ――っ!」
「いやあああっ! カレ――――ッ!!」
ブレーキをかけようにも、ご主人様の意志なしでは止まることはできない。
私の悲痛な叫びを置き去りにして、猛スピードで駆け抜ける私の遥か後方へ、彼はアスファルトの海へと沈んでいった。
家に帰り着き、ご主人様が、
「あれ? 買ったはずのカレーパンがない」
と首を傾げているのを見ながら、私は静かにオイルの涙を流した。
そして翌朝。
寝坊したご主人様を乗せ、私は昨日以上の猛烈なスピードで通勤路を爆走していた。
タイヤが焼け焦げるほどのオーバードライブ。
その時、下り坂を走る私の視界の端に、見覚えのある茶色い姿が飛び込んできた。
道の端っこ。
昨日振り落とされたあの場所に、彼はまだいたのだ。
「カレー!!」
「クロス……相変わらず、いい風を纏ってるな」
すれ違えたのは、ほんのコンマ数秒。
彼は冷たいアスファルトの上で、少しだけ形を崩しながらも、あの時と同じ熱くてクールな微笑みを私に向けてくれた。
止まりたい。
今すぐ急ブレーキをかけて、彼をもう一度私のカゴに抱きしめたい。
だけど、非情な通勤ラッシュの波と、遅刻寸前のご主人様のペダルが、私にそれを許さなかった。
ごめん、本当にごめん!
帰りには、絶対迎えに来るから!!
私は心の中でそう叫びながら、後ろ髪を引かれる思いで彼を通り過ぎた。
しかし、その日の夕方。
ご主人様が仕事を終えてあの場所へ戻ってきた時、道の端にもう彼の姿はなかった。
茶色いパン粉の欠片すら残されていない。
彼がカラスに連れ去られたのか、それとも清掃車に片付けられたのか、私には知る由もなかった。
「……バカヤロウ。 私より先に走っていっちゃうなんて」
私は夕暮れの空を見上げながら、ポツリと呟いた。
私のカゴにはもう彼はいない。
彼との時間はほんの僅かなもので。
それでも今にして思えば、私の初恋だったんだろう。
けれど、彼が教えてくれた、熱く生きるというスパイスは、私のフレームの奥深くにしっかりと刻み込まれている。
私は悲しみを振り切るように、力強くペダルを踏み込ませ、再び街の風の中へと駆け出していった。
実話です。
カレーパン落としたんです。そして次の日夕方に回収しようとしたらなかったんです。
本当にごめんなさい、カレーパン。




