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第九話 出発


 朝日が目に刺さる。懐かしい夢を見た。脳内で優しくなぞりながら、緩んだ浴衣を着直して洗面所へ向かう。

 鏡を見れば、そこには酷い顔。乱れた髪に充血した目。冷水をぶつけてリセットを試みる。髪はドライヤーでどうにかなったが、目は昨夜の出来事を物語っている。


 チェックアウトは十時。昨日食べ散らかしたゴミを片付け、荷物をまとめる。このまま一日中横になっていたい気分だが、そうもいかない。倦怠感に耐えながら、出発する準備が整った。


 ドアを開けると、廊下には誰もいなかった。スタスタという自分の靴音だけが空間に響く。突き当りの角を曲がって、エレベーターに乗る。またその空間でも、独り。


 機械音に耳を澄まし、動く数字を見上げる。一つずつ小さくなる数字を何とも言えない虚無感で見つめては、昨日の記憶を微かに思い出して。


 チーン、という音と共に現実に引き戻される。重い足を前に出して、フロントへと向かう。クレジットで精算して、お礼を言って。タクシー乗り場に向かおうとした時、後ろから声を掛けられた。


 振り返ると、そこには、昨日僕に真実を教えてくれた人がいた。


「すみません、および止めしてしまって。どうしても、伝えておきたいなと」


 そう言って差し出されたのは、一枚の紙。美しい字で、住所が記されている。


「花取旅館の住所です、もし機会があれば」


 調べられるのにもかかわらず、紙で書いて渡した意図。買い物メモと一緒だ。「忘れないように」を縛り付ける。

 きっと、彼女は少しでも花取楓を多くの人に覚えていて欲しいのだろう。僕は右手で受け取った。


「ご来館いただき、誠にありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございました」


 このありがとうには、色々な意味を込めている。僕は深くお辞儀をして、タクシーに乗り込んだ。


「那須塩原駅まで、お願いします」

「かしこまりました」


 ミシミシと車が動き出す。フロントミラーに、再びお辞儀をする女将さんが見えた。僕はもう一度心の中で礼をして、右手の紙を丁寧に鞄へとしまった。


 何とも言えない虚無感は、なぜか消えていた。多分この紙を受け取ったからだと思う。彼女はもう戻ってこない、という事だけに囚われていた。けれど女将さんが渡してくれた紙、彼女を覚えていて欲しいという想いに変えられた。

 悲しむよりも、彼女の様に花取楓という存在を自分が覚えていようと、そして形に残そうと。


 揺れる車内で、ペンとメモ帳を取り出す。あの日僕が病気になってから、彼女に出会って別れるまでの感情と言葉を書き殴っていく。忘れないように、一文字でも早く。


 そう、僕は小説を書く。全部ありのままに、自分なりの解釈で。少しでも彼女の存在を残す、その使命を果たそう。流れる景色の中、僕はひたすら文字を綴っていた。


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