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第八話 旅人は真実を知る


 四時間は経っただろうか。外はすっかり真っ暗になり、閑散としている。頭を冷やすためにと開けた窓から、生温かい風が入ってきている。


 机の上には、空のプラスチックカップと散らかったラスクのごみ。僕は帰ってきてから、この感情の行先をどうにもできなくて、取り敢えず手に在ったコーヒーゼリーを開けた。


 食べ終わっても治まらなくて、バッグに在ったラスクを開けた。この治め方は間違っているのだろうが、他に手段も浮かばなかった。


 食べては思い出して、悲しくなって、認めまいと押し込んで。一袋を食べ終わってから何となく座るのも面倒くさくなって、ふかふかの布団の上に体を預けた。天井をじっと見つめて思いに耽る。


 花取楓、彼女の本名はそれだ。都会で編集者として働き、どうやら彼女は結婚していたらしい。相手は優しく人当たりの良い人で、有名企業に勤めるサラリーマン。結局、彼女の事を僕はまったく知らなかった。ただの知り合いだったのだ。なのに僕は彼女を想って泣いた。

 これは同情か、それとも。そんなことより、もっと大事なことがある。


 彼女は自殺をした。発見者は夫で、仕事から帰って生きた際に寝室で首を吊っている姿を発見したという。現場には何も残されていなかったが、次の日に母親の元へ、両親や夫、女将さん含めた友人、職場仲間や上司への感謝の言葉、そして最後に「ごめんなさい」という言葉が載せられたメールが予約送信で送られてきたという。


 なぜ自殺をしたのだろうか。人生が上手くいっているのにだ。僕と同じで、病気を抱えていたのだろうか。初めて会った時に病院に居たのも頷ける。けれど彼女は血色も良くて、そんなようには見えなかった。だからといって病気ではないと決めつけるのも良くないが。


 もう一つ仮説はあるが、最低なものだ。出かけたあの日、連絡を振り切るように強引だった手。「生きる方が辛い、死ぬ方が幸せ」という意味深な言葉。


 僕も、その言葉に似たような感情を味わったことがある。中学生の時、「生きてアイツらから屈辱を味わいたくない」「死んだら全て解決するだろう」と自殺未遂をした。もしかしたら彼女は、友人や職場仲間からいじめを受けていたのではないか。いや、そうであればメールに書くはずだ。


 あの日も、知り合って少しもしない僕に友人の話や職場の話を楽しそうに話してくれた。そうでは無いと僕は思う。では何故か。もう一度最初から考えてみるが、所詮知り合いであった僕にこれ以上思いつかなかった。


 その無力さと彼女との思い出とが合わさって、僕は枯らしたはずの涙をまた流していた。だから旅行の前に「目的は、第一に旅行、第二に例の彼女の事、あくまでもついで」と決めていたのに。こんなにも支障をきたしている。


 僕はただの旅行人ではなくなった。僕は認めたくなくて、また強く目を擦った。












「大学合格おめでとう、燎」

「ありがとう、母さん」


 大学一年生の夏、僕はこの日、母を食事に誘った。「大学の合格祝い」との名目で。バイトでお金を貯めて、サプライズで来月に控える母の誕生日のプレゼントも準備した。プレゼントを渡すことも大事なミッションだが、実はもう一つある。

 それは、「今までの感謝を伝えること」だ。生んでくれたこと、育ててくれたこと、いじめに悩む僕を救ってくれたこと、僕を大切に守ってくれたこと。


 中学の時、母親が父親から暴力を受けていたことに気が付いた。きっかけは、いじめに遭った後の引っ越しだった。アルバムを整理していたら、母の不自然な格好に気が付いた。

 夏でも長袖、長ズボン。裾から見えるやや淡い痣。父親は「遠い場所で仕事している」と小学生の時に聞かされていたが、綺麗なほどにない父の写真、物。知識が付き、色々な事を覚えた中学生の僕は、それが異常な事だと気が付いた。

 なんで今まで気が付かなかったんだと悔み、母にすぐ聞こうとした。でも、もう思い出したくもないから僕に言っていなかったのではないかと同時に思った。傷つけないために知らないふりをするのか。迷いに迷って、何回か言おうとしたが、勇気が出なくて。


 高校生になってから、やっと意思が固まってきて、僕は大人の境界ともいえる大学生になったとき、全部母に尋ねることにした。母の傷を一緒に背負えるような言葉を、感謝の言葉を伝えようと決めた。そして今日がその日だ。


「ねえ母さん」

「なに、燎」

「あのさ」


 ここに来ての緊張。散々考えた言葉がなかなか言い出せない。一度座り直して、母の目を見る。強く、優しい目。その目に答えるように、口を開いた。


「ありがとう、生んでくれて、育ててくれて。いじめからも、父親からも守ってくれて。」


 母は目を開き、固まった。数十秒僕の言葉を飲み込んで、そして手で目元を抑えた。泣いている、声には嗚咽が混じっている。僕はタオルを差し出した。母は真っ赤な目で、それを受け取る。落ち着いたのは、数分経ってからだった。


「ごめんね、今まではっきりと伝えてなくて」

「ううん、仕方がないよ」

「記憶、ある?あの人の事」

「微かだけど、あるよ」

「そっか」

「写真とか、その時の記憶とか、中学生の時に気が付いたんだ。言うの、遅くなってごめん」

「謝らないで、気を使ってくれたんでしょ。十分だよ、燎がいてくれるだけで」

「そっか」

「あれ、泣いてる?」

「母さんもでしょ」

「そうだね」


 多分この日が、初めて息子として胸を張れた日だと思う。



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