第七話 桜は散る
夜。食事の後、僕は温泉に来た。長時間外に居て冷えた体を温めるために。シャワーを浴びて、十分浸かった後、「露天風呂はこちら」という表示を見つけてしまった。外は寒い、でも興味は抑えられない。
ガラッと引き戸を開けて、寒さもまだ残る風を受けた。せっかく温めた体が徐々に冷えていく。早く湯船に入らなければ。ゆっくりと足を入れて、肩まで浸かる。目線を上げれば澄んだ夜空、都会では見られない小さな光がよく見える。ふうっと息を吐けば、ゆらりと湯気が揺れる。
こうして一人自分だけの世界に浸るのは、とても心地の良いものだ。けれど、少し寂しくもある。鬱陶しく感じる電車の音も騒がしい人混みも、いざ静かになると少し恋しい。随分東京の人間になってしまったなとしみじみ思う。きっと長年住んだ実家に帰っても、違和感を覚えてしまうのだろう。
「おとうさんはやく」
ガラッとドアが開いて、子供が入ってきた。続いて父親が入ってくる。バシャっと湯が揺れ、僕の体も揺れる。すみませんと、父親は軽く会釈した。いえいえと、僕も軽く頭を下げ返す。
「ねえねえ、ほしみえるよ」
「ほんとだ、綺麗だな」
「ゆうわかるんだ、ほくとしちせい、ってほし、あるんだよ」
「物知りだな悠は。凄いぞ」
頭を撫でる父親、嬉しそうに笑う子供。重ねたくないと思っていても、重ねてしまった自分の姿。流れる記憶と、水と湯。逸らしたくて、変な方向を見てしまう。僕は腰を上げて、湯船を出た。のぼせてしまったからではない。ほんの少しだけ、切なくなって。あの親子に、二人だけの世界に浸ってほしいから、ということにした。
散乱する本、割れた皿。机には空の缶ビールが五本。短針は二を、長針は八を指している。
「二時四十分、身柄拘束」
警官に連れていかれる男。痣だらけの母。そして四歳の僕。
「大丈夫、もう大丈夫だからね」
そう言って母の背中を摩る婦警。母は俯いたまま、ゆっくりと頷く。いつも優しく包み込んでくれる、柔らかな手は震えて。優しく名前を呼んでくれる声は、嗚咽混じりのか細い声で。
僕は、この異常を知らない。何となく、「周りと違う」とは感じていた。友達の母親は、父親に怯えたりなんかしない。痛々しい痣も作らない。でも僕は、異常ではないと覚えた。
いや、覚えさせられたのだ。分からせて貰えなかったのだ。母親の我慢によって。
「おかあさん、そのうでどうしたの?」
「え、ああ、ちょっとぶつけちゃったの」
急いで長袖を伸ばし、痣を隠す母。その動きと入れ替わるように、ドアが乱暴に開いた。
「おい、ちょっと来い」
腕を捲った大きな手が、母の腕を掴み引っ張る。僕は反射的に母の腕を掴む。
「おかあさん」
「大丈夫、ちょっと話してくるだけだからね」
柔らかい笑顔、優しい手。母が言うならと、僕は手を離した。でもその言葉は、あの男から僕を守るための、偽りであったのだ。
初めて見る、母の弱り切った姿。
「おかあさん」
いつもの母に戻ってほしくて、名前を呼ぶ。何も分からせて貰えなかった僕は、母に何が起きているかもわかる訳もなく、どうするべきかも、わかる訳もなく。勿論母も、息子の声に答えられる精神状態である筈が無く。答えてくれない母に、不安で泣きそうになる僕。
見かねた男の警察官が、しゃがみこんで僕の頭に手を置いた。
「お母さん、今具合が悪いみたいなんだ。おじさんと向こうで待っていようか。」
ポンポンと撫でられ、半ば強引に寝室に連れていかれた。最初は戻りたくて仕方がなかったけれど、もう一度母に拒絶されるのが怖くなって、大人しく寝室で待った。片手には、母がプレゼントしてくれたトラのお人形。
ぎゅっと抱きしめて、ドアを見つめて。窓の外にいたパトカーと救急車を取り巻く近所の人達の影は、次第に消えていった。
ぶしゅ。冷えた髪に、体が抗議する。飛沫を抑える為、やや格好悪い音になってしまった。慌てて何もなかったのかのように咳をする。昔からこの癖は治まらない。何かしてしまうと、咳をして濁し、俯く。周りに何だか見られている気がして。全部ただの自意識過剰なのだが。
気を取り直して、今夜のお供でも買いに行こうと、ラウンジ横にある売店に向かう。少し急ぎ足で。手に取るのは、コーヒーゼリー。病気は改善しつつあるが、油断は禁物。油物では無く、体に良いゼリーを選ぶ。
「百三十四円になります」
「あ、袋は大丈夫です」
「かしこまりました。」
プラスチックスプーンをテープで貼り、丁寧に僕の前に差し出す。引き換えに、お金を回収した。慣れた手つきで小銭を取り出す。
「お釣りとレシートのお返しです」
「ありがとうございます」
「ありがとうございました」
コーヒーゼリー片手に、受け取った六十六円とレシートを浴衣のポケットに突っ込んだ。たくさん並べられた土産の数々を横目で見ながら、歩き出す。廊下を抜け、連絡通路を渡るところで、忘れ事を思い出した。
「あ、ラスク」
色々なことがあり、すっかり忘れてしまっていた。二度目の物忘れに失念する。まあよく歩いたし良いかと切り替え、東館への扉を開いた。
東館のエレベーターホールに着くと、そこには誰もいなかった。上矢印のボタンを押し、暇つぶしにと周りを見渡す。山の写真に、鳥の写真、そしてやや色褪せた集合写真。それが気になって、僕は近づいた。
日付は十五年前の三月二十一日。立派な和風の建物の前に、大人が六人、子供が四人笑顔で映っている。そして建物の横には。
「桜だ」
急いで携帯のロックを解いて、「桜の木」と検索する。さっき整備員さんに教えて貰った特徴を、ちゃんと確認する。筑紫のように、花は枝と直接繋がっていない。間違いないと確信する。
「桜、お好きなんですか?」
柔らかな女性の声。僕は振り返る。そこには、数時間前に僕を迎え入れてくれた女将がいた。
「すみません、急に話しかけてしまって。あまりにも写真に見入られていたので、つい」
その指摘に、自分の状態をガラス窓で見直す。広いホールの端で、写真を前かがみで見つめる男。確かに、「何をしているんだ」となるのも無理はない。
「あの、これ、桜で合っていますよね」
「はい、桜です」
不正解からの正解に嬉しくなり、笑みが零れる。
「凄く綺麗で、立派ですね」
「ですよね、十五年前のなんですけど、知り合いとお花見に行った時の写真で。あの時の記憶はぼんやりしていますけど、楽しかった気持ちは、今でも覚えています」
写真を指差して、女将さんは続けた。
「この子がリクくん、ユウトくん、そしてこの子がカエデちゃんって言って」
カエデ、という名前に、僕は反応をする。まさか、いやでもカエデと言う名前が彼女一人だという事は無い。違うだろう、違うはず。
「四人とも旅館を経営する家に生まれて、すっごく仲良くて。カエデちゃんの家にあるこの桜の木の下でいつも遊んで」
彼女が話す言葉が、確信へとぐいぐい背中を押す。謎が解けた少年のように、心臓が高鳴る。まさかこんな見つかり方をするなんて、ジャンプの主人公もびっくりだ。女将さんの思い出話を聞きながら、自分の気持ちを落ち着けて。この前の出来事を話して、旅館の場所を教えて貰おうとした時だった。衝撃的な言葉が、飛び出したのは。
「今年久しぶりに集まる予定だったんです。でもこの前、亡くなってしまって」
体の血が砂時計のようにサァッと落ちる感覚に陥る。亡くなった?亡くなったって、死んだのか?思考が停止する。五秒して言葉を理解する。
彼女は死んだ? まさか、いや、なんで。
とりあえず心の中を落ち着ける。僕はただの旅行人。出来るだけ自然に、そう、僕は知り合いなだけだ。あの日出会って、一日遊んで。
「そうなんですか」で終わりだ。ただ、それだけなのに。
「あの、僕、彼女と数カ月前に知り合って、連絡が取れなくて、それで」
小説を書いている人間とは思えない程に何も情報が伝わらない下手くそな話し方。加えて、成人男性とは思えない程不格好な姿。
彼女の記憶を辿りながら、吐き出すように話をして。涙が出ようものなら、少しでも整えようと浴衣で拭き取る。
その動作が、一層不格好さを増しているとも気づかずに。そんな僕を見て、女将さんがタオルを差し出してくれた。僕の悲しみが伝わった様だった。
女将さんは、僕の吐露に答えるように、彼女の事を話し始めた。その姿はまるで、泣いている小学生を諭す先生の様であった。




