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第五話 小さな旅


 三月。まだ変わらない寒さが続く中、僕の体に変化が起きた。変化と言っても、良い方の。


「病気が少し改善しつつある」


 僕はもしかしたら、もっと生きられるかもしれないそうだ。まだ可能性の段階で、いつ急変してもおかしくないが、不幸中の幸い。僕は希望が見え、嬉しかった。

 せっかくだから小説を書きながら病気を治して、根治と共に再就職するかと、未来に思いを馳せた。待合室で母に連絡をした後、彼女のことがふと頭によぎった。


「生きる事より辛い事は無くて、死ぬ事より幸せな事ってありませんよね」


 あれから、三週間。彼女と連絡が取れなくなった。意味深な言葉を残して。雪解けのように、スッと消えてしまった。

 あの時、僕は彼女の言葉に共感してしまった。生きたいと思っているのにだ。何もかもを認めさせてしまうかのような喪失感に満ちた目。その目に、言葉の発し方に、なぜか納得させられてしまった。彼女は、なぜあの言葉を僕に伝えたのか。連絡でもよかったはずだ。

 それに、あの目は、小説のフレーズのつもりで、伝えたようには見えなかった。僕は考えながら、机の上に置かれたメモリを眺めた。


「なんかドラマみたいだな」

「ああ、ほんと」


 コップに冷えたお茶を入れ、酒みたいに飲みながら彼は続けた。


「行ってみたら?」

「え?」

「その経営してるっていう温泉旅館。気になるんだろ?」

「…まあ」


 気になっていないと言えば、嘘になる。どうしても、あの言葉が、表情が頭から離れない。たった一日会っただけなのにだ。

 彼女は何を思って、あの言葉を僕に吐いたのか。確かめたい。


「せっかく体良くなったんだし、旅行ついでにさ」

「行く、かな」

「お土産、楽しみに待っているからな。あと小説も」

「うん」


こうして、四月の僕の予定は決まったのだった。






 日の出と共に、僕は家を出た。朝の空気が、清々しく僕の肺に入る。詰め詰めの昼とは違って、客は互いに端々に座っている。

 ガタンゴトンという振動、静かな車内、そして心地よく差し込む朝日は、僕を眠らせるには十分だった。

 東京駅に着き、広い通路を抜けて、新幹線の入り口へ辿り着いた。なかなか遠出するタイプでない僕は、何回か出口を間違えてしまった。今度こそは間違えてないと確認し、切符を通して待合室に入る。出張のサラリーマン、旅行とみられるカップル、帰省とみられる家族。始業の時期にも関わらず、まあまあの人がいた。買っておいたコーヒーを開け、ゆっくりと喉に通した。


 僕の今回の旅行の目的は、第一に旅行、第二に例の彼女の事だ。あくまでもついで。僕は気になることがあれば解決するまで他の事に支障をきたすぐらいに気になってしまう。それを避けるためにも、自分に歯止めをかける。

 自分は那須塩原に行くだけ。僕はただの旅行人。後追いはしない。もうそろそろかと動き始めた周りを見て、僕も立ち上がる。ホームへのエスカレーターは、少し長く感じた。


 各駅停車とは違って、色が一線になって見える。僕は手元のメモに小説のアイデアを書きながら、外を見ていた。人が降り、人が乗り。青、白、灰、黒、時々赤。都会の色が、自然の色に染まっていく。水を飲めば、それと一体になれる気がした。暗闇に入って、窓の外を見つめる僕が映った。笑顔でもなく、悲愴な面持ちでもなく、教室から外を眺めているような、そんな顔。これから僕はどうなっていくのだろう、ふとそう思った。

 病気は完治して、元の生活に戻る。再就職もして、小説も出版、白鳥と飲みに行って、そして…。


 本当に、そんなに上手くいくのだろうか。そしてその僕は、幸せなのだろうか。

 ずっとずっと欲しかったものが、手に入った途端「本当に欲しかったのか」と思い始める、そんな感覚が、僕の中に渦巻いている。いつから僕は、こんなに迷うようになっていたんだろう。この感じはいつからだ?自殺未遂をしたときか? いや、違う。これはきっと。

 考えたくなくて、認めたくなくて、僕は目を閉じた。




 那須塩原。初めて踏み入れる土地に、少し高鳴る。エスカレーターに乗り、ロータリーに降りたところで、ラスク屋、という文字が目に入った。


「本当ですか、なら是非。美味しいラスク屋さんも駅前にあるんですよ、場所は…」


 もしかして、と考える前に僕は店内に入っていた。プレーン、抹茶、ストロベリー、チョコ。思っていたよりも種類が多いラスク。母と白鳥へのお土産に一種類ずつ買って、と思って手に取ったところで、僕は大事なことに気が付いた。


「お土産は普通帰りでは?」


 やってしまった。何も考えずに入店してしまった。何も買わずに退店しても怒られはしないが、何となく申し訳ない。とりあえずプレーンと抹茶を手に取って購入。旅館で食べることにした。店を出てタクシーを拾う。行先は「十夜旅館」だ。百年続く老舗旅館。そこある庭園には、大きな桜の木がある。僕は先月、彼女が言っていたことを頼りに旅館を探した。


 手掛かりはまず、彼女の名字、「佐久間」。「栃木 佐久間旅館」で検索した。検索結果は0件。もしかしたら母方の名字で経営しているのかもしれないと、検索ワードを変える。

 次は「桜の木」。「那須塩原 旅館 桜の木」で調べたら何も出てこなかった。桜の木を庭園にして出てきた百件から、長年やってそうなものを絞って、ホームページを探る。

 一つ一つ旅館の写真を見ていると、庭園の中に大きな桜の木が咲いている写真があった。その旅館がまさに十夜旅館である。何かと柔らかな雰囲気を感じた僕は、この旅館に泊まることにした。


「お兄さんどちらまで」

「この、十夜旅館まで、お願いします」


 そう言って印刷した地図を見せると、運転手のおじさんは「ああそこね」と軽やかに答えて、アクセルを踏んだ。


「お兄さん、どこから?」

「東京からです」

「そうかい。ゆっくりしていくといいよ。お兄さんが抱えている悩みも、良い湯が流してくれるさ」

「え」


 僕は思わず運転手さんの方を見てしまった。確かに、悩みは無いわけでもない。出来るだけ表に出さないようにしていたのに、どうしてわかったのだ。


「はは、長年こうやって客を運んでるとさ、なんというか見えるんだよ。この人はいいことがあったんだろうとか。怒っているとか、悩みを持っているとか」


 信号が変わったのか、車をゆっくり減速させる。


「無理に自分を押し込む必要はない。辛いと思ったら全部投げ出して、納得いかないって思ったら、とことん突き詰めればいい。大変なことになったら、人に助けを求めればいい。そのために、言葉があるんだから」


 何かが、砂のように崩れていく音がした。サァッと崩れた砂は、地面で溶けて。


「あの、聞いてもらえますか」


 気が付いたら、その十一文字を発していた。顔は、ぐちゃぐちゃになっている。

「もちろんだよ」と、優しく答えてくれた。




 僕は、全部打ち明けた。余命宣告を受けたことも、彼女の事も、白鳥に話したことが無かった、過去の話も。僕が押し殺していた感情も、吐き捨てるように解放した。


「本当は死ぬのが怖い」

「でも彼女の言葉に引き寄せられている」


 田辺さんは器用に運転しながら、つまらないであろう他人の話を丁寧に頷いて聞いてくれた。親身になって、僕のぐちゃぐちゃになった感情を、消化してくれた。まだ心に少し残っている物もあるけれど、大分軽くなった。


「忘れ物は無いかい?」

「はい、大丈夫です」


 スーツケースを受け取って、僕は運転手さんに向き直った。


「本当に、ありがとうございました」


 誠意を込めて、長く、深く頭を下げた。銀行員みたいに堅いお辞儀をしている僕を見て、運転手さんは笑った。


「力になれたようで良かったよ」


 僕の肩を二回叩いて、車に乗り込んだ。窓を開けて、紙を差し出した。そこには、田辺藤夫という文字と、電話番号。名刺だ。


「ここでお別れだけど、また栃木に来た時には連絡してよ、白鳥君」


込み上げる温かさを抑えて、丁寧に両手で受け取り、力を込めて口を開く。


「また来ます、田辺さん」

「はいよ」


 タイヤが小石を踏み、音を鳴らす。静かな山の中で、寂しく響く。


「田辺さん、田辺藤夫さん」


 遠くに消えていくタクシーを眺めて、僕は忘れないようにと、復唱した。



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