プロローグ
「——い。——きなさい」
優しい女性の声に脳が揺らされる。まるで極上の子守唄だ。いつまでもその声に身を委ねたくなり、瞼が重くなる。
「——起きなさい。……起きないなコイツ」
心なしか優しかった声に険が混じった気がする。
ところで俺はどこにいるんだろうか?
気になって目を開けると同時に平手が振り下ろされる。
「へばぁ!? 暴力反対!」
スパァン! と叩かれた頬から快活な音が鳴り響く。
起きない俺も悪かったけども、だからって寝てる時にビンタされるとか人生で初めての経験である。
そこで気づいた。人生初と言ったが俺って確か——。
「あれ? 俺さっき、死んだよな?」
***
異世界に行きたい。
朝早く起きて、仕事をして、遅くまでサービス残業した後はスーパーで買った半額弁当で腹を満たす空虚な日常。
毎日毎日繰り返される首を真綿で締められるような現実はまるで地獄だ。嫌気が差してくる。
そんな俺の唯一と言ってもいい楽しみは暇な時間に読む漫画で現実逃避することだ。
特に異世界転生モノにハマった。
その多くが現代知識と神様に貰ったチートの能力で無双するチープな設定だが、それ位簡単な内容の方が仕事で疲れた頭にはちょうど良かった。
いつしか俺はそんなご都合主義で彩られたファンタジーの世界に夢を見ていたのだ。
とある日の帰り道。
俺はいつも通りコンビニに寄って酒とツマミを買い、歩きながらスマートフォンで漫画を読んでいた。
もちろん異世界転生モノの作品だ。
導入はテンプレ通り、社会不適合のいわゆるニート主人公。
死因はトラックで気がつくと目の前に巨乳で可愛い女神様。
転生して始まる俺なんかやっちゃいました? からのヒロインを助けてハーレム展開。
多少の違いはあれど、これぞ王道。数年で使い潰されたテンプレ展開だ。
続きは家で読もうとスマートフォンから目を離すと強い光が視界を襲った。
「うおっ! なんだ!?」
突然のことに思わず手で視界を覆う。指の隙間から見えたのはトラックがハイビームでこちらに突っ込んでくる瞬間だった。
——あ、これは死んだわ。
避ける間も無く、俺の体は宙を舞った。
数秒の浮遊感の後、俺の体が地面に叩きつけられる。
体は動かない。視界の端でひしゃげて中身が溢れる酒の缶が転がっていた。
……あぁせっかく買ったのに勿体無い。そんなことを考えられるくらいには冷静だった。
不思議なことに体に痛みがない。そういえば、人間は許容量を超えた痛みに対して脳が無意識に痛覚を遮断するという話を聞いたことがある。
痛みは命を守るためのアラートだ。それが機能しないということはつまり、そういうことなのだろう。
思えばしょうもない人生だった。
何者にもなれず、何も残さず。およそ俺という存在がこの世界で存在した証は何も残っていないだろう。
二十代半ばで死ぬなんて考えたこともなかったし、いつかは可愛い彼女と無難に結婚でもするのだろうと思っていた。
……まぁ、一度も彼女なんて出来たことはないけども。
正直、この世に未練はない。
あ、いや、童貞だけは卒業したかったかも。
まぁそれ以外は特にやりたいことがあったわけではないし、努力らしい努力はした覚えがない。
ただ適当に勉強して、適当に就職して、適当に仕事をして、毎日を惰性に任せて生きてきただけだ。
『あなたは異世界で生まれ変わりたいですか?』
そんな声が頭の中で響いた気がした。
——あぁ、そうだな。せっかくトラックに轢かれて死んだのだから転生して異世界にでも行けないだろうか?
剣と魔法のファンタジー世界。そこならきっと、頑張れると思うのだ。
そうして俺、御崎騎士の人生は終了した。
***
眼前に広がる光景は本当に現実なのだろうか?
どこまでも続く真っ白な空間。
先程、俺に平手打ちをかました女性はいつの間にか椅子に腰掛けていた。
そこにいたのは少女だった。絹のような長い銀髪に宝石のような紺碧の瞳。その人間離れした美貌には幼さを感じさせない雰囲気があった。このまま成長すれば将来はアイドル顔負けの絶世の美女になるであろうことが容易に想像できた。
「初めまして御崎騎士。異世界人材派遣センターへようこそ」
今までの人生で見たことのないレベルの美少女に見惚れていると名前を呼ばれてハッとする。そして最初は気付かなかったが無視出来ないモノが少女にはあった。
背中から生えている純白の一対の翼。頭の上には輝く光輪。その姿は正にイメージで語られる天使の姿そのものだった。
夢を疑おうにもさっき食らった平手打ちが否が応にもこれが現実だと主張していた。
「私はリンネ、女神です。貴方は残念ながら——」
天使ではなく女神様だったらしい。
いや、そんなことよりさっきの言葉は聞き間違いではないだろうか。たぶん、いや、絶対間違いない。
非現実的な状況だからこそ俺には分かる。数多の漫画を読んできた俺には分かるのだ。
そう、これはつまり——。
「異世界転生イベントキタアァァァア!」
喜びのあまり思わず奇声を上げてしまったが仕方あるまい。なんせ夢にまで見た異世界転生である。死んで初めて夢が叶うとは皮肉な話だが。
目の前の美少女――いや、女神様は呆れたような顔でこちらを見ている。
しかし、その冷ややかな視線など気にならないくらいに俺のテンションはぶち上がっていた。
夢にまで見た異世界転生! 異世界は本当にあったんだ!
「はい、はい。落ち着いてください、御崎騎士さん。まずは説明から始めますので――」
「わかってます! チート能力ください! 剣の才能! 魔法の才能! あと美少女とのハーレム展開も!」
「いや、だから説明を――」
「俺、絶対に異世界で無双しますから! 勇者になって魔王倒して、王女様と結婚するんです!」
女神様が何か言おうとしているが、そんなの関係ない。
だって俺はもう決めたんだ。異世界で新しい人生を始めるって。
前世では何もできなかった。でも今度こそ、今度こそは――。
「ですから、あなたの生前の行いを計算すると、転生ポイントは23ポイントしかなくて――」
「23ポイント? それって多いんですか!? じゃあチート能力三つくらいいけます!?」
「全然足りません。転生ポイントは100ポイントないとスキル付与は――」
「は? 意味わかんないんですけど! 俺、トラックに轢かれて死んだんですよ!? テンプレ通りじゃないですか! なのにチート能力なしとか、ふざけんなよ!」
女神は深く溜め息をついた。
なんだその態度は。こっちは被害者なんだぞ?
しかもなんだ転生ポイントって!
どうして他人に自分の人生を評価されなくてはならないのか。沸々と納得のできない苛立ちが込み上げてくる。
「まずは落ち着いて聞いてください。あなたには最低保証として『人類が生存可能な世界への転生』が約束されています。これは――」
「人類が生存可能な世界って当たり前でしょ! そんなのが最低保証って舐めてるんですか?」
「……分かりました。転生先がランダムになる代わりに貴方が望む能力を一つだけ与えましょう。ただし本当にいいですか? 転生先がランダムになると——」
「いいですよ、どんな世界でも! 俺は絶対に成り上がってみせるから! テキトーな世界に送ってください!」
世界なんて何処でもいい。それよりも能力だ。
その世界で特別な能力があれば英雄になれるし、それで可愛い女の子を助ければハーレムだって作れる。
もし能力があれば前世でだって無双できたはずだ。
女神は俺が望む能力を与えるといった。だったら圧倒的なチート能力で無双するのは簡単だ。
「本当に能力でいいんですね? 最低保証を放棄する意味が理解できていますか?」
女神からの再三の忠告。正直鬱陶しい。
さっさと転生して俺は新たな人生をスタートするのだ。
「能力があればテキトーな世界でいいんで! 俺を誰だと思ってるんですか! 漫画で異世界転生モノを三百作品は読破した男ですよ⁉︎ どんな世界だろうと生き延びてみせますよ!」
俺はいつか異世界転生した時のために現代知識だってちゃんと学んできた。マヨネーズは自分で作れるし、世界三大発明の活版印刷術、火薬、羅針盤だって知識として作り方を知っている俺に死角はない。
「——そうですか、分かりました。では、どんな能力がお望みですか?」
能力は決まっている。
もし異世界転生があったならどんな能力がいいか、ずっと妄想してたから。
「想像を実現する力。俺はそれが欲しい」
色々考えたがこれが俺にとってベストだと思う。
この力があれば何でも出来る。
その世界にない物だって作れるし、状況に合わせて違う能力だって想像できる。
その為に生前は知識を蓄えてきたといっても過言ではない。
問題はこの能力が本当に貰えるのか。そこが問題だ。
強力すぎるからやっぱ駄目、なんて可能性は十二分にある。なんせ転生ポイントなんてものがあるくらいだ。何かしらの制限付きでもおかしくない。
「想像を実現する力、ですか」
女神は少し考えるように口元に指を伸ばし、視線を下げる。
少し欲張りすぎたか。
そう思ったのも束の間、予想外の答えが返ってきた。
「いいですよ。では、能力は想像を実現する力ですね」
そう言うと女神は空間から一枚の神と羽付きペンを取り出す。
それは中空で留まり、女神は何かを書くと俺に見えるようにその紙を動かした。
それはまるで履歴書のようで、一番上の欄に俺の名前である御崎騎士、その下に想像を実現する力と書かれている欄があった。
「これは一種の契約書です。貴方の経歴が記録され、転生後もどのような行動をしたのかがこれに記入されます。契約書に記載された内容は絶対で覆りません」
説明を終えると女神は手元に紙を戻す。
その女神の様子に俺は少し拍子抜けした。
思ったよりすんなり許可が下りた。女神にとって大したことのない能力と判断されたのかもしれない。それともこの能力のヤバさを理解できる頭が足りないのか。
まぁ許可されたなら問題ないだろう。
過ぎたことは考えず先を見据えよう。
「では確認です。最低保証は放棄し、この能力で転生するで問題ありませんね?」
「いいですよ、放棄で! さっさと転生させてください!」
女神様は何度も何度も警告してくれた。
でも俺は聞かなかった。
だって、俺は主人公なんだ。異世界転生した主人公なんだから、きっと何とかなる。
「……わかりました。では、最後にこちらの契約書をよく読んでサインを」
先ほどとは別の紙を差し出されるが、書類には長ったらしい注意文がずらりと書かれていた。 昔からこういう利用規約みたいのはまともに読んだことはない。
どうせ契約するのだから読まなくても変わらないだろう。
そう考え、俺は迷わずサインした。
そして光に包まれる。
ああ、ついに始まるんだ。俺の異世界ライフが。
最後に聞こえたのは、女神の小さな呟きだった。
「……無数にある世界に無数の生命体。知的生命体ならワンチャンか……」
その意味を理解する前に、俺の意識は光の中に溶けていった――。
***
「はぁ……また一人、碌に説明を聞かない転生者が出ちゃった」
女神リンネは、転生の光が消えた空間で何度目かの深い溜め息をついた。
これで今月五人目。
みんな、異世界転生に夢を見すぎている。
「さて、次の転生者は……と」
リンネは次の書類を手に取る。
今日も長い一日になりそうだった。