千歳と尊とコッペ
「ただいま」
「お邪魔しまーす。ちーの部屋どこ?」
「二階だよ」
学校からちーの家までは、通常だったら十分で歩けそうな距離だった。でも今日は、ちーに合わせ二十分弱かけて帰宅した。こんなに歩いては更に熱が上がってしまいそうで、ちーの体調を気にかけながら帰ってきた。
「ここだよ。あ、コッペ」
二階の突き当たりがちーの部屋らしい。ちーが扉を開くと、俺たちの間をすり抜けて茅色の猫が先に入っていった。三上家の飼い猫、コッペだ。どうやらいつの間にか、背後からついてきていたらしい。ただいま、とちーがコッペをなでるのに誘われ、俺もその場にしゃがみこむ。
「おー。生コッペだ」
「はは、生コッペ」
「触っても大丈夫?」
「うん、懐っこいよ」
「俺みたらしの匂いするかもだけど、平気かな。コッペ~、初めましてだな。まあ俺はお前の写真、いっぱい持ってっけど」
コッペの頭をなで、顎の下をくすぐる。ゴロゴロと喉を鳴らして、嬉しそうだ。たくさん遊びたいけれど、今日はお前の主が気がかりなのだと、すぐに腰を上げる。ベッドに腰かけたちーが、重たいまばたきでこちらを見た。辛いのだろう。ゆっくりと傾いていく体を、けれど腕を伸ばして抱き止める。
「ん? なに?」
「早く寝かしてやりてえとこだけどさ、着替えたほうがいいんじゃね?」
「あー……うん、そうだね」
「部屋着どこ? 俺やろうか?」
「大丈夫、できる」
立ち上がろうとするちーに手を貸す。コッペはもう満足したのか、出ていってしまった。扉を閉めたちーが、すぐ横のクローゼットから部屋着を取り出す。目が合うと、どこか気まずそうに肩を竦めた。
「花村、あっち向いてて」
「え? なんで?」
「なんでって。恥ずかしいじゃん」
「あー……え、教室じゃ一緒に着替えてんのに?」
「だって、ふたりだし……教室より狭いし」
「ふは、そっか」
なんでもないふりをしたけれど、この状況に俺も少しドキドキしている。それをどうにか抑えながら背中を向けると、ふとデスクの上に目が留まった。
「終わったよ。花村? どうし……あ」
「ちー、これって……」
そこにあったのはアクセサリートレイだ。シルバーのシンプルなデザインのそれに乗せられているのは、この間交換した俺の指輪。それから、二枚の飴の包み紙だった。
「それは……全部オレの宝ものだよ」
「全部? このゴミも?」
「ゴミじゃないよ。花村にもらったものだから」
「俺があげたのは一個だよな? ゲームの答え合わせのちょっと前の」
「ううん、どっちもそうだよ」
ちーに飴をあげたことはよく覚えている。でも、それはひとつだけのはずだ。猫と犬、どっちが好きかとの他愛もない会話にすら、素直になれずにいたちーが歯がゆくて。衝動的に引き止めてしまい、それをごまかすために胸ポケットにあったそれを渡した。
どういうことだ? と首を傾げていると、ちーは二枚の包み紙を手に取った。
「入学式の日、オレめっちゃ緊張しててさ。猫をかぶる自分を変えたくて、髪も染めたけど……なんにも変われてないなって、初めて入った教室で過ごしたたった数分で分かっちゃったんだよね。それで、気分悪くなっちゃって……廊下の端っこで縮こまってたら、花村がくれた」
「……マジ?」
「うん。しゅわしゅわするからスッキリするかも、って」
ちーが言うには、入学式終わりの教室へと戻る途中のことだったらしい。言われてみれば、確かにそんなことがあったような気もする。頑張って思い出そうにも、それが入学式だったのかすら記憶はぼんやりとしているけれど。
「うわー、全然覚えてねー……」
「オレがそうしたんだよ。あんなみっともないとこ、覚えててほしくなかったからずっと俯いてたし」
「そうは言ってもなあ……」
ちーがきっかけをくれた秋よりも、同じクラスになった春よりも。もっともっと前から、ちーは俺との思い出を大切にしていたのか。一緒に覚えていたかった、一緒に大事にしていたかった。今更悔やんでもどうにもならないけれど。
そんなことを考えていると、包み紙をトレイに戻したちーが、後ろから肩に額を乗せてきた。
「だからさ……今話せるようになってるの、夢みたいなんだ」
「ちー……」
ちーの体温が、制服越しに伝ってくる。熱がうつってしまったかのように、俺の体も急速に熱くなる。無性に抱きしめたくなった。ちーのほうを振り返り、けれど浮きかけた手をぎゅっと握りこむ。
「花村?」
「あー、なんでもない。ほらちー、寝たほうがいいんじゃね」
ベッドの布団を捲って、そこにちーを寝かせる。トントンと布団越しにそっとたたくと、ちーは不満そうにくちびるをとがらせた。そんな顔をしないでほしい、押しこめたばかりの恋情が溢れてしまいそうだから。
「オレ、子どもじゃないよ」
「そうだな」
「うう、ねむい……寝たくない」
「ふ、なんでだよ」
「だって、せっかくオレんちに花村がいるのに。もったいないじゃん」
「また来るって」
「んー……あ、指輪」
「指輪?」
うとうととしたまばたきが、今にも眠りそうだと知らせていたのに。また起き上がろうとするから、慌てて支える。
「指輪って、俺のやつ?」
「うん。つける」
「今?」
「今。家にいる時、いつもしてるから」
「っ、分かった。取るから待ってろ」
どうやら、つけていないと落ち着かないらしい。そうか、いつも身につけてくれているのか。その事実に顔が赤くなってしまっただろうことが、鏡を見なくたって分かる。ちーに気づかれたらと思うと恥ずかしくて、すぐに背を向けて指輪を手に取った。ベッドの端に腰かけ、顔を上げられないままに「ん」と手を差し出す。
「手、貸して」
「つけてくれんの?」
「うん」
「オレ、交換できるもんない」
「ふは、なんでだよ。んなの要らねぇよ。ほら」
「へへ」
「満足ですか?」
「うん。これがあるとほっとする。ドキドキもするけど」
「そっか」
熱と眠気のせいで、さっきからちーはどこかたどたどしい口調になっている。それすらもかわいくて、逐一頭を抱えたくなった。どうしようもなく好きになっている、一秒ごとに気持ちは大きくなっている。恋なんて、と思っていた俺を、ちーが変えたのだ。
ちーの髪に指を通し地肌までなでると、ちーは猫のように擦り寄って目をつむった。くすぐったそうに一度笑って、それからすぐに寝息を立てはじめる。
ちーの体の向こうに手をつき、顔を近づける。今なら頬だけじゃなく、くちびるにだってキスできてしまう。あと一ミリで触れられる、というところまで近づいて、けれどどうにか欲を押しとどめてゆっくりと離れる。
キスがしたい。だけど今度のキスは、ちゃんと両想いがいい。その時は、ちーからしてほしい。
「早くお前のもんにしろよ、ちー。俺も好きだっつーの」
ちーはなかなか本音が言えない、分かっている。でもちーの「花村が好き」というその本音こそが、それだけがちーに恋をした俺を幸せにできるのに。