君に夢中
大きなショッピングモールそばの、駅前の広場で十一時に待ち合わせ。多くの人で賑わっているのは、さすが土曜日といったところか。
ひと駅手前で《着いたよ》とのメッセージを受け取り、逸る気持ちで改札を抜けたのだけれど。人波に阻まれ思うように進めず、ひとつ舌を打つ。
「花村ー」
「あ。ちー!」
思わず舌を打ちそうになっていると、数メートル先からちーの声が届いた。お互い高身長で助かった。他の人たちより少し見晴らしのいい頭上で手を振り合い、かき分けるように進む。
「わるい、待った?」
「ううん。時間ぴったりだし、全然」
昨日だって会ったのに、ついちーをまじまじと見つめてしまう。靴の先から頭へと視線を巡らせていると、どこか居心地が悪そうにちーは頬を掻いた。
「えーっと、花村? そんなに見られると、恥ずかしいんだけど……」
「え? ああ、ごめん。ちーって私服そんな感じなのな」
「え。え! もしかしてダサい!?」
「は……?」
学校でのちーはブレザーの制服を着崩すこともなく、近頃はセーターを着用していることが多い。グループの中でもきちんとしたイメージだ。でも今日は、ワイドのパンツにオーバーサイズのニット。ゆるめのシルエットが新鮮に映る。
「ダサくねぇよ。すげーいい。なんかかわいいな」
「かわいい!? ええ、かっこいいって言われたかった……」
「うん。かっこいいかっこいい」
「気持ち入ってないよね!?」
「ふはっ、ちーかっこいい~」
「もー。花村はめっ……ちゃかっこいいよ」
「すげーためるじゃん。ありがと」
俺はと言えばちーと似たようなパンツに、トップスはビッグシルエットのスウェット。学校では控えめにしているピアスも複数つけている。不良のイメージがより強く現れたコーディネート、といったところか。
「ピアスって痛い?」
「開ける時にちょっとな。ちーは開いてないんだっけ」
「うん。でも花村の見てたら、してみたくなったかも」
「マジか。じゃあそん時は責任取って俺がやってやる」
「はは、責任?」
「そう。……ん? ちー、それ見せて」
アクセサリーは好きだ。自分をきっかけに興味を持ってもらえるのが素直に嬉しく、もう一度ちーの格好に目を向けた。すると、その手に飾られている指輪が目を引いた。ちーの左手を取り、人差し指に鈍く光るゴツゴツとしたデザインのそれをなぞる。
「このブランド、俺も好き。ピアスも何個かそうだし、ほら」
「わ……ほんとだ」
「指輪買う時、ちーがしてんのもいいなってすげー悩んだ。うん、やっぱかっけーな」
ピアスと、それから右手の人差し指にある指輪をひらひらと振って示す。ここのブランドは多少値は張るけれど、バイトに数回入れば高校生でも手が届く。ちーもそうして購入したのだろうか。意外な共通点に緩んだ顔を上げると、なぜかちーと視線が交わらない。
「ちー?」
「あー……」
「どした?」
「いや、手、握ってるから」
「手? あー、照れてんの?」
「そりゃそうでしょ……」
赤い顔をごまかすように、ちーは人ごみのほうへと目を向けた。
ちーの豊かな感情に出逢う度、その頬にキスをしてきたな。
また疼きはじめた欲に、けれどさすがにここではまずいと目をつむる。自分の中に芽生えている感情に、俺は静かに対峙する。こんこんと溢れる“なにか”は、心臓の底に甘酸っぱい。
「あー、っと。映画行くか」
「ん、そうだね」
名残惜しいけれどもう一度指輪を撫で、ゆっくりと手を離して歩きだす。話しながらと思うと、身を寄せなければ聞こえない。それをラッキーだと思ってしまう。先ほどは恨んだ人の多さが、今だけは味方みたいだ。
「ちーはクラスのヤツと遊んだりすんの?」
「うん、たまに」
「ふーん……」
自分で尋ねた割に、ちょっとおもしろくない。わざとむくれた顔をしてみせる。
「あは、花村どうしたの? 変な顔。花村は? よく遊んでるの?」
「まあな。ケンスケとナベとたまに」
「ふーん……」
すると今度は、ちーも同じような顔をしてみせた。
「え、まさかそれ俺の真似? すげージト目すんじゃん」
「はは、分かった? まあオレは本心だけど」
「もしかして押されてる?」
「うん、押してます」
途切れない会話が、モールまでの足取りを軽くする。映画館に行く時はいつも前夜から待ちきれないほどなのに、そっちのけで話していたいと思うのは初めてのことだった。
俺が選んだ映画は、公開前から話題だったハリウッド作のミステリー映画だ。チケットを二枚発券し、ちーに一枚渡して、代金を受け取って。ドリンクをそれぞれに買って指定席に腰を下ろすと、つい笑い声が漏れてしまった。
「花村?」
「んー? いや、ミステリーが好きでよかったと思って」
「…………? よく分かんないけど、オレは花村がミステリー好きって知れてよかった」
「そうなん?」
「うん。収穫」
「ふは、収穫」
上映開始前の隣同士の席で、ちいさく潜めた声で交わす会話。ちーと過ごす時間の全てが、あの日ちーがメモを置かなければ有り得なかったものだ。くり返されるそれに痺れを切らしたところで、ミステリー映画のワンシーンが過ぎらなければ、ゲームの誘いに乗らなかったかもしれない。一秒先すら未来は読めなくて、一秒後に後悔したってもう元には戻らない。ちーの勇気と自分の好奇心が交差してある今を、名探偵がここにいたらなんと名づけるのだろうか。
館内の注意事項と予告が始まり、徐々に照明が落ちてゆく。明かりがスクリーンだけになる、その直前にちーに耳打ちをする。
「ちー、今日はありがとな」
二時間半ほどの上映が終わりシアターを出た途端、俺たちは顔を見合わせた。興奮したちーの様子に、自分のことのように嬉しくなる。
「めっちゃ面白かった!」
「な。期待以上だったわ。ちー、途中泣いてたろ」
「えっ、バレてた?」
「うん。俺もあそこはぐっときた」
「だよね! 面白いところはすげー笑ったし。映画っていいな」
「な」
「あ、オレちょっとトイレ行ってくる」
「分かった。そこで待ってる」
トイレは混んでいて、外まで列が伸びている。少し時間がかかるだろうと、近くの壁にもたれかかる。たまにこちらを振り返るちーにその度に手を振り、シネコン内の雰囲気も味わう。でもどうしても、つい先ほどのちーの表情を反芻してしまう。
千歳は昨日『花村の好きなものが観たい』と言った。甘い喜びを感じながらも、楽しんでくれるだろうかと気がかりだった。趣味なんて人それぞれで、同じじゃないからと落胆なんかするものじゃない。それでも共に過ごすのだから、気に入ってくれたほうがよりいい。その淡い不安は、どうやら杞憂だったようだ。同じものを観て、泣いて笑って、感動して。感情ごと共有できたことがこんなにも嬉しい。
ちーはなにが好きなんだろう。それこそまた同じとはならなくたって、知りたいとそう思う。ちーが戻ったら聞いてみよう。まだまだ時間はあるのだし、遅くなった昼食を食べながらそんな話をしてみたい。
スマートフォンを操作しながら計画を立てていると、視界にふと華奢な靴がふたり分過ぎった。顔を上げると、俺と同じ年頃の女がふたり立っていた。
「あのー、花村くんだよね」
「は? 誰?」
「あ、私たち同じ高校で隣のクラスなんだけどさ」
「…………」
中学の頃のように好きだなんだと言われることは、誰とも付き合わないと噂でも立っているのか高校ではなくなった。とは言え、遠巻きに視線を感じることは今も日常だ。珍しく接触してきたか。げんなりしたのも束の間――なにやらもじもじとしていた女が、最初に声をかけてきたほうの女から肘で小突かれている。そして勇気を振り絞ったようにして、顔を上げた。
「あの、三上くんと一緒、だよね? さっき見かけて」
「…………」
なるほど、と瞬時に理解できた。この女はちーに気があるらしい。自分に向けられる好意以上に、胸が重たくなる。今日のちーは俺のものなのに。
「えっと……よかったら四人で遊ばないかな、と思って。どう、かな」
「はあ……」
そんなの、答えはノー以外にない。大きなため息をつくとふたりはびくりと肩を跳ねたが、それでも引き下がる気はないようだ。
ちーが戻ってきて、もし同じような誘いを真正面からされたら。きっと、いや絶対。そうしよう、と笑って受け入れるに違いない。顔の広いちーのことだから、隣のクラスの人間とも面識はあるだろう。それなら尚のことだ。
一秒でも早く退散してもらうしかない。もしくは、一旦ここから移動して撒いてしまおうか。ちーには連絡を入れれば問題ない。けれど動き出す前に、ちーが戻ってきてしまった。
花村~、と遠くから呼びかけてくれる声は、できればこの耳に大事に染みこませたかった。
「あ……あれ?」
「三上くん! こんにちは、偶然だね」
「あ、うん、ほんと偶然だね! え、っと。遊びに来てるの?」
「うん、私たちふたりでブラブラしてて。この後四人でどうかなって、花村くんにお願いしてたところなんだ」
「そう、なんだ」
四人で遊ぶくらいなら帰ってしまいたい。でも、このふたりだけが知るちーが今日生まれるのは悔しい。今俺はきっと、ひどい顔をしている。様子をうかがってくるちーから顔を背け、また深いため息をつく。ちーが「じゃあそうしよう」と頷く、そんな見たくもない瞬間をただただ待つしかできない。いよいよ女たちに背を向ける。ああ、耳も塞いでしまいたい。そう思った時。突然、ちーに腕を掴まれた。
「ちー? どうし……」
「お、オレたち! 今日はふたりで遊んでるから! ごめん!」
「え……でも四人で遊んだら、もっと楽しいかもしれないし。ね?」
「……うん、そうだね。でも、ごめん。じゃあ、また学校で! 花村、行こ」
「あ、ちょっと! 三上くん!」
食い下がる女たちの声がまるで聞こえていないかのように、ちーは走り出す。腕を引かれるがまま、俺もちーの後ろに続く。ごったがえすショッピングモールを、人波を縫うように走り抜ける。途中、ちーがこちらを振り返って笑った。細く弧を描いた瞳が、パチパチとまぶしい。途切れてしまう息は走っているからか、それともちーの紅潮した頬が見えたからか。
「はあっ、ここまで来れば大丈夫かな」
モールから外へと出て、裏手に向かった。人通りのほぼない生垣の影へ、ちーがしゃがみこむ。腕ではなくいつの間にか繋がれていた手を引かれ、俺も隣へと並ぶ。
「ちーお前……ああいうの断ったりすんの、苦手じゃねえの」
「あー……うん。バレてた?」
「バレバレ。クラスのヤツらは全然気づいてないみたいだけど」
「そっか……中学の時、グループ活動で反対意見を言ったら、メンバーの子に避けられるようになったことがあって。それからどんどん苦手になっちゃったんだよね。自分の気持ちを口にするの。しょうもないよね」
「しょうもなくねえよ。ちーにとってはでかい出来事だったんだろ」
「花村……ありがとう。はは、オレ、あれ以来初めて断ったかも。すっげー緊張した」
「よかったのかよ」
「うん。今日は絶対、花村とふたりがよかったから。花村がいてくれたから、できた」
「…………」
昨日の呼び方の件もそうだが、ちーは周りの人間を無下にできない。それを知るのに、たった一ヶ月のゲーム期間で十分だった。言えばいいのにと勝手に歯がゆく思って、時に苛立って。それでもちーを形成する一部だと納得していたけれど。
そんなちーが、誘いを断った。ふたりでいたかったからと。それができたのは花村がいてくれたからだと、打破した自身を清々しそうに笑っている。
胸が詰まるような、少し気を緩めれば泣いてしまいそうな。初めての感覚が俺の体を駆け巡る。
繋いだままの手をするりと撫でられ、まだ整わない呼吸に肩を上下させながら。この感情をなんと呼ぶのか、観念するように思い知る。先走っていた鼓動に、やっと心が追いついたみたいだ。
「ちー」
「んー?」
「なあ、次はいつ告ってくれんの?」
そうと分かれば、早く言ってしまいたくなる。あの日お預けにされた返事は、その場で答えていたらきっと違うものだっただろう。でも今は、赤く熟している。
「は……? っ、え!? は、花村なに言っ……」
「俺もう返事していい?」
「え、なんで……」
「なあ、ちー。頼む」
「い、嫌だ。まだ聞きたくない……」
でもちーは、まだ俺の返事は欲しくないらしい。不特定多数からの好意は、全部受け止めようとするくせに。花村が好きだ、と言ったのに。
「なんで? 俺、分かりやすいと思うけど。ダメ?」
「…………」
身勝手に答えてしまうこともできるけれど、ちーの気持ちを大事にしたい。俺はちーが再び告白してくれるのを、待つしかできないのだ。それなのに。
今にも顔を伏せてしまいそうなちーからは、先へと進めてくれる気配は感じられない。まさか、振られると思っているのだろうか。
もどかしくて、くちびるに歯を立てる。待ってやりたい、それ以上に、ちーに求められたい。
でも……その気にさせておいて、宙ぶらりんに放置された状態で。いい子でいてやる気だって、さらさらない。
「ふーん。あっそ。分かった」
「……ごめん」
「分かったけど。もうちょっとこのままな」
「……え?」
一旦手を離すと寂しそうな目を上げたちーに、ぐっと顔を近づける。意識を全部奪ってやろうと、もう一度ゆっくりと指を絡ませる。
「っ、花村……」
「こうされんの、いや?」
「……いやじゃない。いやじゃない、けど……」
「ちー、こっち向いて」
「へ……あっ」
指を緩めて、閉じこめるようにまたきゅっと力を入れて。それをくり返しながら、もう何度目かの頬へのキスをする。少し風に冷えていて、けれどすぐに熱くなる。震えるまつげの先で瞳が潤んでいて、しがみつくように握り返される手。恋人だと錯覚するような触れ合いに、ふたりして夢中になる。
恋をすると人間って、こんな気持ちになるのか。今までの人生全てが嘘だったみたいに、この瞬間だけが喜びのようで、それでいて喪失感がすぐに追いかけてくる。一瞬離れるだけで切なくて、だからやめられなくて。今度はちーのくちびるギリギリのところへ、かじりつくようなキスをする。
「は、あ……っ、花村」
「ちー……」
このままくちびるにもキスしてしまいたい。口の中まで暴いて、千歳の心を引きずり出してしまいたい。今すぐ欲しいと言ってくれ。
「……っ、くそっ」
暴力的なまでの欲求を、けれどどうにか振り切った。名残惜しさにもう一度、頬にキスをする。落ち着け落ち着け、と深呼吸をひとつして、ちーの前髪にもぐるように額を擦りつけた。
ちーが好きだ。でもここまでしてもなにも言わないちーは、この先へ踏み出す気はやはりないのだろう。腹が立って、悔しくて――でもそれと同じくらい、そんな心ごと大事にしたいとも思う。
気持ちを切り替えるようにハッと大きく息を吐き、空を見上げる。そうだ、大事にしたい。だけどわがままを言うなら、恋人にはまだなれなくても、もっとちゃんとちーの特別だと感じたい。
今はまだ立ち上がる気力もなく、どうしたものかとふうと息をついた時。握り直した手の中で、なにかがコツンとぶつかった。
そうだ、これだ。
「ちーがまだ言いたくないのは、よく分かった」
「……ごめん」
「いや、いい。でも一個、お願いがある」
「お願い?」
繋いでいる手を持ち上げて、ふたりの間でゆらゆらと揺らしてみせる。そこに光るのは、たまたま同じブランドだった、デザインの違うそれぞれの指輪だ。
「俺がしてる指輪、ちー的にはどう?」
「え? う、うん、好きだよ。さっきは言いそびれたけど、オレも実はそれと悩んでた」
「マジ? じゃあさ、交換しねえ?」
「え?」
一瞬でも離れるのは寂しいけれど、手をほどき自分の手から指輪を外す。それを手のひらに転がし、「ん」とちーの目の前に差し出す。
「指輪交換」
「指輪交換……?」
「いつか返すんでいいからさ、ちーのもの持っときたくなったっつうか。そんな感じ。ダメ?」
「ううん、ダメじゃない。え、めっちゃ嬉しい……けど、いいの?」
「俺がしたいっつってんの。もう決まりな。ほら、ちーも外せ」
「う、うん」
まだ目を丸くしながらも、ちーも自身の指輪を外した。どうぞと渡されそうになるのを受け取らず、左手を差し出す。
「ちーがつけて」
「え!?」
「俺は右につけんのが好きだけど、ちーのだからちーの真似して左がいい。ん」
「えー、っと……」
「あ。もしかして、結婚式みたいだーとか思ってんだろ」
「思っ! ちゃうに決まってんじゃん~!」
「はは、かーわいい。なあ、早く」
「うう、分かった」
赤い顔をこんなに近くで見ることができた。それだけでもう今日は十分な気さえしながら、指輪がはめられるのを待つ。恭しく添えられた片手が、本当に結婚式みたいだ。くすぐったく感じつつ、その瞬間を迎える。慣れない左手への指輪は存在感も大きく、ちーのものだとより感じられる。それがすごくいい。
「ちーは? どっちにする?」
「オレも花村の真似する」
「じゃあ右手出して」
差し出された右手を取り、人差し指の節をひとなでする。ぴくんと指先が跳ねるのを見たら、またキスをしたくなった。それをどうにか我慢しながら、さっきまで自分の手にあった指輪をゆっくりとちーの指に通す。
「サイズも一緒みたいだな」
「うん。うわー、花村の指輪だ」
ふたり横に並んで、それぞれに手を空へと翳す。太陽を弾いた光が交差して射している。
「なんかこれ、ドキドキするわ」
「うん、オレも……」
ぎゅっと握って、また広げて。手を顔に近づけたと思ったら、遠くに伸ばしてまた指輪を眺める。そんなちーがまぶしくて、胸がきゅうと音を立てる。
想いはまだ結べそうにない。けれど今日はたくさんの、ちーの顔が見られた。好きなものを共有して、たくさん触れて。今はきっとこれでいい。
そう思えるのは、確かなものをひとつ見つけられたからだ。今日が終わっても、この気持ちは続いていく。恋なんて知らなかったのに、ちーへの恋心がはっきりと俺の胸に存在している。だからゆっくりでいい、ちーのペースを待ってやりたい。惚れたほうが負けだと言うけど俺たちの場合、こっちが負けな気がする。
「あーあ」
「…………? 花村?」
「いや、今日すげー最高と思って」
「ほんと? オレも!」
「な」