第8話 宮沢一穂
どろだんごの神さまはいなくなってしまいました。
そして、一穂は後悔と自責の念の中。
では第八話、どうぞ。
──大好きな拓先輩へ
いつもふざけ半分で言っていましたけど、私は拓先輩が大好きです。
先輩は、初めて私と会った日を、覚えていますか。
ヒント 社内の新人研修ではありません。
まあどうせ先輩は覚えていないでしょうから、サクっと解答編にいきますね。
正解は、四年前。まだ私が大学生の時の、地質学会の会合でした。
私はゼミの城戸教授の付き添いで、先輩は偉そうなおじさんの付き添い。
先輩は、あの気難しい城戸教授と普通に話をしていて、きっとコミュ力のかたまりなんだろうな、なんてその時は思ってました。
だって、城戸教授の訳の分からない論舌に、相槌を打つばかりか的確に質問までして。
最後には、教授と先輩で何やら新しい仮説を立てたりして。
あの時の教授、すごく楽しそうでした。
会合のあとで聞いたんですけど城戸教授って、以前は先輩が通っていた大学にいらしたんですね。
次に会ったのは二年半前、入社式でした。
その期の入社は十六人。女子は私を含めて三人だけで、あとは男子でした。
その男子たちが、群れを成して私のところに押しかけるんですよ。
ほら、私って可愛いじゃないですか。自慢とかじゃなく、事実として。
可愛いって、すごく厄介なんです。
普通に生活してるだけなのに知らない男子に告白されるし、そのせいで女子には嫉妬されるし。
そういう経験があるので、入社式では誰にも連絡先を教えたりしなかったんです。
それでも同じ新入社員の男子が二人、しつこく言い寄ってきて。
その時、先輩がやってきて。
ああ、きっとこの人も私の顔目当てなのかな、って。
でも、違いました。
しつこい男子二人の襟首を掴んで、黙って引き摺って行ってくれたんです。
そのあと井上課長、当時係長がやってきて、フォローしてくれて。
その時に気がついたんです。
あの地質学会で先輩と一緒にいたのは、井上課長だったと。
というか、不思議に思いませんか。
なぜ私が、先輩のいる地質調査の会社に入ったのか。
もしかして、偶然だと思ってました?
実はゼミの城戸教授から、先輩の就職先を聞き出したんですよ。
また先輩に会いたい。
あわよくば同じ会社に入って、今度はしっかりと話がしたい。
はい、この頃からストーカーでしたね、私。
でも新人研修で先輩が私の指導係になったのは、本当に偶然なんです。
外見で人を判断しない先輩なら、私の指導係にうってつけだったのでしょう。
実際、女性としての気遣いなんて最低限しかされませんでしたし、指導にかこつけて口説いたり誘ったりなんて、気配すらありませんでしたから。
でも、知ってました?
私、あの新人研修で、先輩を好きになったんです。
見せかけの優しさなんてない。
冗談のひとつも言わない。
そこには、あの気難しい城戸教授と互角に渡り合っていたコミュ力なんて、微塵も感じなくて。
けれど、容姿で差別も区別もしない。
ただ物事を俯瞰で見ていて、必要な時に必要な箇所に、必要な分だけ手を差し述べてくれる。
先輩は、私の理想だったんです。
同じ営業課に転属できた時、これで先輩との距離を一気に縮めて、なんて考えてました。
なのに先輩、私を避けまくってましたよね。
ランチに誘おうとしたら、既に職場にいない。
会社帰りは誘う間もなく、即帰宅。
もう一度言いますけど、私、可愛いんですよ。
男性の同期や先輩達に飲みに毎晩誘われて、断るのが大変なくらいなんですよ。
その私が、拓先輩には見向きもされない。
どういうことですか、って思いましたよ。
もしかして私、魅力ないのかな、なんて悩みもしました。
先輩に振り向いてもらうには、と毎日考えました。
策も練りました。
作戦も立てました。
ついでに会社帰りに先輩を尾行もしました。
そして、いざ先輩のお部屋に突撃!
そしたら、不用心に玄関のカギは開いてるし、先輩はお腹丸出しでだらしなく昼寝してるし。
拍子抜けもいいところでしたよ。
でも、会社から毎日急いで帰る理由は、わかりました。
キュイくんですよね。
キュイくんのために、飲みに行ったりしないでまっすぐ帰ってたんですよね。
気持ちはわかります。
キュイくんみたいな存在が家にいたら、私だってすぐ帰ります。
なんなら在宅ワークの道を探すかもしれません。
キュイくんを知ってからの日々は、本当に幸せでした。
キュイくんに会いに行けば、先輩とも一緒にいられて。
先輩に会いたい時は、キュイくんを口実に使っちゃったり。
先輩が部屋にいないときは、合鍵で先輩のお宅にお邪魔して、お部屋の掃除をしたり、キュイくんと遊んだり。
キュイくんに文字を教えたのも、その時だったなぁ。
本当に楽しくて、幸せでした。
でも。
私のおせっかいで、キュイくんの里帰りを計画して。
その結果、私は先輩からキュイくんを奪ってしまった。
あのあと先輩は失神してしまって。
キュイくんがいなくなった現実に、先輩の心は耐え切れなかったんですよね。
あのまま意識を保っていたら、先輩の心は壊れてしまっていたのでしょう。
それほどの事のきっかけを、私は作ってしまった。
どう償おうが、決して償い切れない。
どれだけ謝罪しても、足りない。
後悔すら、できない。
ねえ、先輩。
私、どうすれば──
翌朝の静岡市は、怨めしいほどの快晴。
空模様だけを見れば、昨日の大雨や土石流など、まるで嘘のようである。
もしも本当に嘘だったら、どれだけ拓や一穂の心は救われただろう。
だが、紛れもなく現実だ。
その証拠に、あたり一面は泥濘に塗り潰されている。
何より、ここにどろだんごの神さまはいない。
昨晩、一穂は眠れなかった。
拓の叔父に発見されて救助されたけれど、一穂の気持ちは安堵には程遠い。
一穂の目の下には、薄っすらと隈が浮かんでいる。
それでも一晩中、目を覚さない拓の手を握り続けて、一穂は夜明けを迎えた。
「一穂ちゃん、起きてるかい」
ふすまの向こうで、拓の叔母の声がする。
はい、と一穂が小さく答えれば、静かにふすまが開いて叔母が入ってくる。
「ずっと、ここにいたのかい」
「……はい」
体裁を繕う余裕のない一穂は、未だ眠る拓を見つめて、力なく答える。
「まったく、呑気な寝顔だね。一穂ちゃんがこんなに心配してるってのに」
「今の私には、それしか」
「ま、いいわ。おむすび作ったから、食べて」
「いえ……」
「拓に付き添うなら、少し体力はつけなきゃ」
布団に眠る拓に後ろ髪を引かれつつ、一穂は隣の仏間に促された。
開け放たれたふすまの向こうには、眠る拓が見える。
田舎ならではの、二間続きの八畳間だ。
仏間の大きな座卓には、おむすびがある。
その前に座らされた一穂は食欲のないまま、ぼんやりとおむすびを眺めていた。
「やっぱり、おむすびだけじゃ食べにくいわよね」
拓の叔母が運んできたお盆には、味噌汁と煮物、幾つかの小鉢が載せられていた。
料理を一穂の前に置き終えた拓の叔母は、お茶を淹れ始めた。
「あの、私……」
「いいのいいの。余ったら旦那の昼ごはんにしちゃうから」
片目を閉じた叔母は、笑いながら一穂の横に座った。
「このまま明日も目が覚めなかったら拓を街の病院に連れて行こうと思っとるけど……一穂ちゃんは」
一穂は黙ったままで、ぼんやりと拓の叔母に目を向ける。
「一穂ちゃんは、ゆっくり休んでいるのが良いね」
「そんな。お邪魔、では」
「なに言ってんの。一穂ちゃんは拓の初めての……そういえば、拓とは」
拓の叔母、妙は一穂の表情を探るように問う。
一穂は、ちらっと布団の拓を覗った。
「会社の先輩と後輩、それだけです」
「そうなのかい。でもきっと拓にとっては、一穂ちゃんは特別な人、だと思うよ」
「……そうでしょうか。私、拓先輩に言いたい放題で、甘えてばっかりで」
俯く一穂に謙虚さと初々しさを覚えた妙は、一穂の細い肩に柔らかく手を添えた。
「それを拓は、拒否したかい?」
「いえ……そういえば、なんでだろう」
一穂は、本気で考え始める。
その姿を見て、妙は思った。
この子の本質は、拓と同じだ。
他人に対して、不器用なのだ。
特に、自分が好意を寄せる相手に対して。
「拓は、横に一穂ちゃんがいるのが当たり前になってたんだね」
「え……」
一穂にとって、思いがけない言葉。
慈しむような優しい声音に、一穂の涙腺は決壊した。
拓にとって、ずっと一緒にいた存在。いて当たり前だった存在。
そんな存在を、拓から奪ってしまった。
泣きじゃくる一穂を、拓の叔母、妙は当然のように抱き寄せる。
ぽんぽんと背中を叩くその姿は、まるで赤ん坊を宥めている母のようである。
少し落ち着きを取り戻したのか、妙の胸の中の一穂は、ぽつりぽつりと言葉を零し始めた。
「私、先輩の大事な存在を、失わせてしまったんです」
「そうかい。それは、どんなものだろう」
質問ではない、問いかけ。
妙の言葉が、振動となって一穂を揺らす。
だが、神さまの存在は話せない。
なんとか隠して話そうとする一穂だが。
「もしかして、どろだんごの人形かい」
「え……なんで」
妙の胸から跳ね起きた一穂は、大きな目をさらに開く。
驚く一穂に、妙は微笑みで応えた。
「拓ちゃん、昔から大事にしてたからね」
「知って……らしたのですね」
慈母の如き笑みは、一穂の強張った表情を軟化させた。
妙は、さらに続ける。
「あたしはね、拓ちゃんのじいさん、あたしにとっては義父だね。その世話で、時たま拓ちゃんの家に行ってたんだよ」
一穂は、見も知らぬ幼い拓に思いを馳せる。
友だちのいない拓と、どろだんごの神さまの、二人きりの時間。
きっと平穏で、小波すら立たない緩やかな時間だったのだろう。
一穂が想像する光景を補完するかのように、妙は続ける。
「拓ちゃん、どろだんごの人形に話しかけてたりしてね。ずっと心配だったんだよ」
「そうでしたか……」
「今思えばあの人形が、小さかった拓ちゃんの心を安定させてたんだろうねぇ」
「そう、思います」
「あの人形がいたから、完全な孤独にはならずに済んだのね」
頷きながら語る妙に、一穂も深く頷き返す。
そして一穂は、妙にすべてを話す決意を固めた。
「あの。信じられないかも知れませんが──」
拓が大事にしていたどろだんごの人形は、ダイラボウの神さまであること。
その神さまの願いで、静岡に来たこと。
「でも昨日の大雨の夜、急にキュイくん、車から飛び出してしまって」
「……そうかい」
妙は、疑問を口にしなかった。
どろだんごの人形が車から飛び出すとは、どういう状況だろう。
そんな些細な疑問よりも、一穂の心のケアが大事だと妙は判断したのである。
きっとこの子は、見た目以上に傷ついている。
拓に大事ものを失わせた責任を、真正面から受け止め、背負う覚悟でいる。
そんな一穂はちらりと拓の布団を見て、気づいたように妙に懇願する。
「あの。キュイくんの、どろだんごの人形のことは……誰にも秘密に」
妙を射抜く一穂の真剣な眼差しは、それが拓のための願いなのだと妙に悟らせた。
「わかってる。神さまだもんね」
「……はい」
「それで一穂ちゃんは、その神さまのために、拓と静岡まで来た。そうだね」
「そうです、でも、そのせいで、私のせいで……」
妙が一穂の話をなぞると、再び一穂の双眸から大粒の涙が滴り落ちる。
その涙を拭うことなく、一穂は頭を畳に擦り付けた。
一穂には、どう償うのが最良か、わからない。
その一穂を、妙は抱き起こす。
「顔を上げなさい」
「でも」
「一穂ちゃんは、悪くない」
「だけど」
妙の言葉に、一穂は否定の答えしか出来ない。
自分のせいではないなんて、傲慢にはなれない。
けれど妙が一穂に発した言葉は、慰めではなかった。
「一穂ちゃんは、神さまがどうするか、知らなかったんだろう」
「そうです、けど」
「それに、拓ちゃんにとっての神さまという存在は、歴とした意思と感情を持つ、そういう友だちであり、家族だったんだよ」
だから、一穂ちゃんが自分を責める必要はない。
そう言われたところで、一穂は納得できなかった。
けれど、少しだけ心が浮力を取り戻したようにも感じた。
「色々と、悪いタイミングで噛み合ってしまったんだね」
里帰り初日の夜。
神さまは一穂に告げた。
山を治すには、もう少し時間が必要だと。
そのために一穂は、有給を一週間追加申請した。
一穂はただ、神さまの意志を尊重したかったのだ。
「一穂ちゃんも拓ちゃんも、良い神さまに逢えたんだね」
「ええ。でも」
「……昨夜崩れたダイラボウだけどね。あんなに崩れるほど地盤は緩んでなかったってさ。しかも、丁寧に民家を避けて崩れて」
一穂は、言葉が出なかった。
なら、やはり神さまは。
「土石流の先に、一穂ちゃんと拓が乗った車があったんだろう」
神さまが車を飛び出したのは。
「だから神さまは、自分が守るダイラボウを崩して、土石流を堰き止めたんだね」
やっぱり。
私たちは、神さまに命を、助けられたんだ。
一穂の脳裏に、飛び去る神さまの小さな姿が甦る。
「でも、そのせいでキュイくんが……」
「大丈夫。神さまは消えたりしないよ。仮の姿を失って、元の山に還った。それだけさね」
「私、そんなふうに割り切れません……」
「いいんだよ、無理に割り切らなくたって」
俯いた一穂は、ぽろぽろと涙を落とす。
その背中をさすりながら、妙は一穂に言い聞かせる。
「だって拓にとってはもちろん、一穂ちゃんにとっても、大事な友だちだったんだろ?」
「はい」
「だったら寂しくて、悲しくて当然さね。でもその友だちの行為を、友だちに貰った命を、無駄にしちゃいけないよ」
バッと顔を上げた一穂は、縋るように妙を見つめた。
「生きるんだよ」
妙の目は、強い光を帯びている。
少なくとも一穂には、そう見えた。
「泣いたっていい。後悔したっていい。ケンカしたっていい。上手くいかないなんて日常茶飯事さ。絶望も、そりゃたまにはする。けどね」
苦笑混じりに話す妙は一穂の両肩に手を置いて、少しだけ力を込めた。
「それでも、生きるんだよ」
一穂の心に影を落とすのは、責任。
その責任を取るためにと、一穂は破滅の思考に陥っていた。
しかし今、一穂の目には微かな光が差している。
「あなたたち二人を救ってくれた神さまのために。そして、誰でもない、あなたたちのために、生きるんだ」
「生きても……いいん、ですね」
「そうだよ、むしろそれっきゃない」
その光は、どろだんごの神さまが捨て身で与えてくれた、命という光。
一穂には、そう思えた。
「──でも、あのどろだんごの人形が動くなんて」
信じられない。と言いかけた妙は、咄嗟に言葉を飲み込む。
せっかく希望を取り戻しつつある一穂の心に、水を差したくなかった。
しかし、一穂は妙に笑って見せた。
「なんなら踊ったりもしますよ」
「うわぁ、見たかった。さぞ可愛いんだろうね」
一穂に話を合わせるように、妙は笑う。
「そりゃもう……あ」
「どうした一穂ちゃん」
「スマホに、キュイくんの映像が」
驚いたのは妙だ。
本当にどろだんごの人形が、踊ったりするのか。
「見る! 見せておくれ!」
「はい、少々お待ちを」
一穂はスマートフォンを取り出して、動画フォルダを開く。
そこには、神さまの動画がたくさんあった。
再生を始めれば、妙は驚く。
が、すぐに穏やかな目になり、動画の中の神さまを見つめていた。
「──驚いた。踊るどころか、完璧に意思の疎通もできるなんて」
一穂の言う事が真実だと理解した妙は、疑ってごめんと頭を下げた。
「コミュニケーションは、先輩は苦労してるみたいでしたよ」
「まったく。二十年以上も一緒にいて、この子が字を書けることも知らないなんて」
呆れ顔の妙に、一穂は笑みを浮かべた。
「それが先輩なんです。他人に、相手に苦労をさせたくない。自分が頑張れば済む。そういう人ですから」
妙の目に涙が滲む。
他人に理解され難い、あの気難しい拓を、一穂はここまで理解している。
それを語る一穂の表情は柔らかく、幸せが溢れていた。
「一穂ちゃん、お願いだから拓ちゃんと結婚してちょうだい。拓ちゃんをここまで理解してくれるなんて、逃がしたらもったいない。バチが当たるわ」
「でも、先輩は……」
「大丈夫。一穂ちゃんの言葉なら、あの子は聞くから。あたしも援護するし。それでもダメな時は……必殺、日にち薬!」
妙が笑うと、一穂も穏やかに微笑んだ。
拓は、静かに目を閉じていた。
お楽しみいただけたでしょうか。
もしよろしければ、次話もお楽しみに。