案件146:わたしのイト
「六花ちゃん……!」
イトは力無くうな垂れる六花に駆け寄り、その手を取ろうとした。
しかし。
「やめて……」
「……!」
「もう、やめて」
今にも溶け消えてしまいそうな儚い声が届き、逃げるように六花の手が遠ざかった。
「もう、助けないで。わたしのこと……」
「六花ちゃん……」
「わたし、イトちゃんに助けてもらう権利、ない。ずっと黙ってた。昔のこと。わたし、たくさんの人を傷つけたの。そこから逃げたの。卑怯で、危険な人間なの」
第三地区。初めて発動した〈フェンリルの酔〉による混乱。
二度とその力を使わない――。それは彼女にとって、何かの誓いに近かったのかもしれない。使いようによってはスカグフで唯一無二の存在になれる。そのチャンスを放棄することで、彼女は罪滅ぼしをしていたのかもしれない。
「知ってます。わたし」
イトは六花と向き合うように、その場に腰を下ろした。
いづなが教えてくれた。RIKKAという駆け出しアイドルのこと。才能はあっても努力は決して怠らず、最大のチャンスに全力で挑んだ少女。それから、その結果が最大の禁忌になったことも。
「でもね、六花ちゃん。わたしにだけは……。わたしが知る限り世界で確実にたった一人、わたしにだけは、あなたは助けてもらう権利があるんです」
微笑みかける。
「だってあなたは、わたしを作ってくれたから」
「え……」
うつむいていた六花の目が、戸惑いのままこちらを向く。
イトはそれを静かに見つめ返す。
「――『わたしのイト』っていう歌……」
「……!」
「デビューして、六花ちゃんが初めて作詞した歌……。六花ちゃんの曲の中で一番好きなんです。わたしの名前が入っているから。他の曲が人気ありすぎて、ちょっとマイナーなのがあれなんですけど……」
へへへ……と苦笑いし、視線を下ろす。
「わたしは、一時期、ほんの短い間ですけど、学校に行けなくなってた時期があったんです。理由は、そんなに大したことじゃありませんでした。まわりとのちょっとのズレが、だんだん大きくなっていったみたいな感じで……自分がこの先どうあるべきか、考えすぎてしまいました。そんなこと、気にすることなかったのに。でも、悩んでる間は本当に体に力が入らなくて……毎日ずっと部屋で寝てました」
「そんな……」
六花が何かショックを受けたような顔になる。この話をするのは、彼女が初めてだ。同じ中学校だった千夜子も詳しくは知らないはず。
「そんな時でした。あなたの音楽に触れたのは。“わたしのイトが誰かに繋がる”……“あなたのイトをわたしに繋げて”……。誰かと繋がることの楽しさ、優しさ、嬉しさ。あなたはそれを歌ってくれました。何度もわたしの名前を呼びながら。自分がわからなくなっていたわたしは、それがとても嬉しかった……。自分一人ではどうしても見つけられなかった、わたしの中に眠っていたものを、見つけさせてくれた。ああ、この人はわたしのための歌を歌ってくれている。わたしを見つけてくれている。そう思いました」
「そ……それは……でも……」
再びうつむいた六花が、唇を震わせる。
イトは「わかってます」とうなずく。
「当時、六花ちゃんはわたしのことなんか知りもしませんし、わたしも六花ちゃんのことをちゃんと知ったのはそれが初めてです。でも、いいんです。ひいおじいちゃんが言ってました。人は一生に一度、自分のことを歌ってくれている曲に出会うって。本当にそうかは重要じゃなくて、そう感じられる出会いが素晴らしいんだって……。わたしもそう思います。だってそのおかげで、わたしは凄く元気になれたから」
不思議な、運命的な出会いだったと思う。大好きな家族からどう励まされても湧いてこなかった力が、その瞬間を境に、どんどん戻ってきた。魔法がかけられていたんだと、本気で思う。
「それからわたしは、アイドルを目指すことにしました。わたしのことを歌ってくれた人と同じ仕事を。えへへ……めちゃくちゃ、考えなしでした。なれるわけないのに。でも、どうしてもなりたかった。なって、あなたに会いに行きたかった」
イトは今度こそ六花の手を取った。びくりと震えた彼女が手を引っ込めようとするのを、優しく押さえつける。冷たい手を、じんわりと温めながら。
「本当は、リアルデビューして、もっと立派になってから伝えたかったんです。その方が様になるから。でも今、必要な言葉だから言います。月折六花さん――」
ぎゅっ、と彼女の手を握りしめる。
「あなたのおかげで、あの時落ち込んでいた女の子がこんなに元気になりました。あなたが伝えてくれたたくさんの言葉を、その子は一生大切にするでしょう。あなたは、世界一優しくて素晴らしいアイドルです。その子はそれを知っています。世界中の人が何と言おうと、絶対に譲りません」
ぽろぽろと、六花の目から涙がこぼれ落ちる。
「もし何か、哀しいことやつらいことがあったら、その子を呼んでください。真っ先にあなたのところへ駆けつけます。お礼なんかいりません。その子はもう、全部もらいました。優しい気持ち、励まし、元気、勇気……全部。だから……だからお願いです、六花ちゃん。もう一人で苦しまないで。帰って来てください。わたしたちのところに。今度はわたしがあなたを助けます。あなたのことが世界で一番大好きな、白詰イトより――」
「あっ、ああ……」
大粒の涙が、とめどなく溢れた。
「わあああああああっ……!」
落ちた涙と同じだけ、彼女は泣いた。声を嗄らして。自分の中で凍っていたものを、すべて溶かすみたいに。
イトは彼女を優しく抱きしめた。彼女の壊れそうな繊細さに、知らず、涙がこぼれた。
「イトちゃん、イトちゃん……」
彼女が泣きながら何度も名前を呼ぶ。この一週間、一度も呼んでもらえなかった名前。その時間を取り戻すみたいに、イトも応える。
「はい。はい……六花ちゃん。わたしはここです。ここにいます。あなたがそうさせてくれた。そうしていいんだって教えてくれた。全部、あなたが」
ようやく、通じ合えた気がした。
これまで、どれほど仲良く過ごせても、どこかで壁を感じていた。
立場や人気の違い。そんなもののせいかと思っていたけれど、違った。何てことはない。お互いに残していた言葉があったのだ。すぐには伝えられなかった言葉が。
でも、もう、なくなった。
いい思い出も、悲しい思い出も伝え合った。
あと残っているのは、これから作っていく想いだけ。
自分でも知らないうちに、イトは口ずさんでいた。
過去の自分を救ってくれた六花の曲『わたしのイト』。
もう何度も聞いて、何度も歌っていたから、歌詞はすべて覚えている。
そこには素敵な女の子がいた。
イトが迷っていたことを、手を引いて教えてくれた女の子が。
そんな子になりたかった。なれたかな。わからない。答えはきっと、繋がる誰かが教えてくれる。
泣いて、泣いて。二人で泣いて。
ようやく六花が落ち着いて来た時、彼女が不意に言った。
「イトちゃん……」
「はい」
「……結婚……してください……」
「――はいっ」
※
終末色の空は、祝福の曲を奏でる黄金の空へと変わっていた。
イトと六花は手を繋いだまま森を出る。
風が、草花が、歌っているようだった。
森の入り口で、深紅の騎士たちがこちらを見ていた。
彼らは顔を見合わせると、何かを察した様子で持っていた武器を手放し、静かに拍手を贈ってくれた。
イトと六花は笑ってそれに応えた。
荒野を歩くと、そこここで殴り合っていたアウトランダーと〈キングダム〉に雇われた傭兵たちが、ぴたりと争いをやめた。
しばし呆然とした彼らは、やがて揃って兜を脱ぐと、肩を並べて手を振ってくれた。
イトたちはみんなに手を振り返した。
その先で、黄金に輝く荒野に土煙が上がった。
純白の馬車型マウントに乗ってやってきたのは、葵とセツナとキリンだった。
車から降りるなりセツナとキリンがイトに飛びつき、葵は六花と静かに抱き合った。
続いてもう一台の車がやって来る。
車から降りた黒百合は、サングラスをはずし、何の心配もしてなかったわという顔で微笑んだ。その隣で、ノアが無表情のままダブルピースを突き出していた。
友を加え、一気に人が増えたイトたちは、さらに荒野をゆく。
踊るような足取りの中、セツナとキリンが、黄金の風に祝福の歌を纏わせた。
やがて後ろから、一台の車がやって来た。雪の結晶を張りつけた白い高級車。
停車も待たず、三人の少女たちが転がるように飛び出てくる。
ガラスと、佐々と、吉備。少女たちはイトと六花が揃っているのを見て大きく胸を撫で下ろし、そしてすぐ隣にいた葵に気づいて悲鳴を上げた。
運転席では、フロッグマンが帽子のつばを押し下げ、強く唇を結んでいた。
さらに賑やかになった一行は、討ち入りでもするような勢いで駆けてくる一団と出会った。
先頭にいたコウとリナがイトたちに気づき、モモやタカダに全力で腕を振り回して合図を送って、その一団は足を止めた。
イトが彼らに微笑むと、彼らもまた笑顔になり、肩を組んで一行に加わった。歓声を上げ、手を叩いて指笛を鳴らした。
次に、空から小さな夜が舞い降りてきた。
乗っていた魔女は、心配性の同乗者の懸念が杞憂だったことを、それ見たことかと肘で小突いた。同乗者の騎士は苦笑いした。イトと六花は笑顔で二人に応えた。
荒野が終わり、大地に草木が戻ってくる。
そんなタイミングで、魔女が親指で先を示した。
そこに、みんなが待っていた。
笑顔で涙ぐむ千夜子。安堵した様子の烙奈。得意げに腰に手を当てているアビス。無邪気に喜ぶカサネ。温かく微笑むいづなとなずな――。
みんな、イトたちを待ってくれていた。
イトと六花は顔を見合わせ、うなずいた。
この距離、あっという間に埋めてしまおう。
彼女たちは微笑み合うと、手を握りしめ直し、二人で草原を駆けた。
残った者たちもそれに続く。
パシャリと。
その姿を、笑顔のケンザキが一枚の写真に収めた――。




