案件144:黄昏に酔う
「六花ちゃん! 六花ちゃん!」
熟練プレイヤーたちの包囲を抜けたイトは、その名を叫びながら森の中を駆けていた。
近くに彼女を感じる。なぜかはわからないけれど、そんな気がする。
「――!?」
不意に、イトはあたりが黄金色に輝いていることに気づいた。
さっきまで夏のような深緑に彩られていた世界が、今はまるで燃えるような金色。
思わず、天を仰いだ。
「なんですか、あれ……」
そして見た。太陽が。普段は白々と輝いている太陽が、暗い金色に染まっている。
コントラストの深い雲もまるで夕暮れ。黄昏時――。
スカグフを始めて初めて見る天候だ。陽はまだ高いのに、夕方のような色彩に塗り尽くされている。何かを祝福しているようでもあり、同時に何かが終わろうとしているような不吉さもあった。
この異常――まさか〈フェンリルの酔〉……?
今起こり得る劇的な変化はそれくらいしかないと直感し、イトは踏み出す足に一層の力を込めた。
何かに導かれるまま森の奥へと走る。
なぜ彼女に近づけていたのか。何に呼ばれていたのか、わかった。
アイ・ドルオーラの波動。その微弱な波を身体が自然と感じ取っていたのだ。
だがこれは……なんて昏くて重い波。爽やかで強い普段のオーラとはまったく別物。彼女の心がもがき苦しんでいるようだ。
その波に雑音が混じる。
イトはすぐに雑音の正体を知った。
笑い声。悶え苦しむように全身から発する、Kの笑い声――。
「はははははは! あはははははははははははははは! これだ! 僕の求めていたものは!」
※
「イトちゃん、月折さんと会えたかな……」
ライズ会場裏から祈るように天を見上げる千夜子が、そうつぶやいた。
「イトなら当然成し遂げるでしょ。なんたって、わたしと同じ姿なんだから」
自分が写し取った外見に確かな信頼を寄せながら、アビス。
「ここでしくじるような子なら、今この場には半分の人間も集まってないよ。ボクも含めてね」
冷笑的なことを言いつつも、そんなもしもを微塵も信じていない様子のユラ。
「できて当然のことなんかねえけど……でも、今だけは絶対に頼むぜ。イトちゃん……!」
相手をいたわり、同時に託すモズク。
そんな仲間たちの三者三様を見ながら、烙奈はもはや何も映さなくなったボールカメラの映像枠に、小さく奥歯を噛みしめた。
森の前に集まったPVPの達人たちとの戦いの最中、攻撃の流れ弾を食らって映像が途絶えたのだ。通信も、彼女の集中のために切ってしまった。繋ごうと思えば今からでも繋げるが……イトの方から繋いでこない、その理由を思うと、安易に呼び出し音を鳴らせなかった。
彼女は今まさに、この流れの核心にいる。
Kとの対峙。その間近に。
「きゃっ、なっ、な、何!?」
誰もが憶測でしか現状を語れない中、千夜子の悲鳴がその場の皆を振り向かせた。
大きな変化はその後すぐに訪れる。
突然、周囲の草が黄金色に輝き始めたのだ。
金色、いやこれは……黄昏……!
「な、何よこれ、カサネ!」
「う、うちも知らへん。こんなん見たことないで!」
揃って慌てるアビスとカサネの向こう側。二人、冷静に空を見上げる少女たちがいた。
「いづな、これは……」
「ええ。あの子が使ったわ。〈フェンリルの酔〉を……」
〈フェンリルの酔〉。その名前自体を烙奈は知らなかったが、裏に含まれる不穏なノイズに胸を掻き乱され、メニューウインドウを開く。
「千夜子、わたしは少し外す」
「えっ、烙奈ちゃん?」
「すぐ戻る。心配するな、イトは誰にも傷つけられない」
烙奈はファストトラベルをするフリをして跳んだ。
千夜子も他の誰も入れない場所。スカグフの裏側。メモリの海。スタッフルームに。
そこは、多数のモニターが浮く暗室のような場所だった。
闇の中に警備室のコンソールのような大きなデスクがぽつんと浮く。その座席には一匹のスーパーハードペンギン。
彼はすぐにこちらに気づいた。
「烙奈様!」
「イトを追っているか? 見せてくれ」
彼もまた主人の動向が気になっていたのだろう。すぐにイトの様子を大モニターへと映し出してくれた。
(無事か……)
ひとまずそのことを安堵する。が、険しい顔の彼女の足が徐々に鈍くなっていく様が、烙奈に次に訪れる不安を掻き立てた。
やがて彼女は立ち止まる。
男の狂ったような笑い声が鳴り響いていた。
「K――っ!」
イトが叫ぶ。
反り返るようにして笑うK。
その近くで、ヘルメットをはずし、虚ろな顔で座り込む六花。
烙奈は息も忘れてその様を見つめた。
※
「あはははははは! これだっ、これなんだ! 僕が求めていたものは、この充足なんだ!」
身をよじり、胸をかきむしるようにしながら、Kは吠えていた。
一見して、どうかしてしまったのかと思うような狂態。
思わず絶句しかけたイトはしかし、彼のすぐそばに、ボブヘアーの前髪をだらりと垂らして座り込む六花の姿を見て破裂するような叫び声を上げていた。
「K! 六花ちゃんに何をしたあっ!?」
「来たか、白詰イト……!」
爛々と輝く瞳がこちらに向き直り、イトは思わず身構える。名を呼ばれた。格下の人間のことなど何の興味もない男に。
「彼女本来の! 力を出させてあげただけだ! 私に!〈フェンリルの酔〉を!」
高ぶった声がそう告げる。
〈フェンリルの酔〉。その単語が音に出た瞬間、座り込む六花の体が、恐怖するようにびくりと震えた。光の消えた彼女の瞳から、凍ったような涙の粒がぽろと二、三滴落ちる。
Kは六花に〈フェンリルの酔〉を使わせたのだ。何らかの手段で。それが、彼女の心を陰惨に削る行動であったことは、あの痛ましい姿を見ればすぐにわかる。
握り込んだ拳がぎしと鳴った。
「私は求めていた。〈フェンリルの酔〉がもたらすこの充足感を」
「充……足感……?」
怒りの滲む声で問い返す。
「私はな、白詰イト。小さい頃からたくさんの成功を築いてきた。そのための努力を惜しんだことは一度もない。だが、そうして得たいかなる成果も、それに続くどんな称賛も、私を満足させてくれるものではなかった。万雷の拍手、絢爛なトロフィー、多額の報奨、どれも物足りない。何より私自身が、私を喜ばせてくれなかった!」
そう叫ぶKは、訴えるようでもあった。
長年彼の底流にあったものが、今吐き出されていることをイトは感じ取った。
「アメリカに渡っても私を心から満足させてくれる称賛はなかった。快挙も快楽もすべてはハリボテ。たった一度! この〈フェンリルの酔〉がもたらしてくれる万感の官能だけが、私を正しく評価してくれた! ああ、なぜ私の脳は、私のためにこの感覚を作り出してくれないのか! 他者からの称賛や承認など何の意味もない! 私は、私の脳は、こうやってもっと私の成功を認め、褒め称えるべきなのだ!」
何て奇妙な飢餓。
この男は、自我への自賛にひたすら飢え続けてきたのだ。
他人からではなく、自分からの。
〈フェンリルの酔〉は、特殊な脳の状態を作り出すといづなが教えてくれた。
その中には圧倒的な自己肯定感、そして幸福感も含まれていた。
人間が、普通の状態では至れない満ち足りた感覚。反動で頭が疲労してしまうほどの過剰な出力。
しかしKは、それこそを求めていた。
成功体験が多すぎて、満足のハードルが上がってしまったのか。
それとも最初から、脳ですら自己を満足させ切れない特殊な精神構造をしていたのか。
わかるのは、唯一〈フェンリルの酔〉の負荷に耐えきったように、Kがこの強大なエネルギーをぴたりと収める器を持っていたということ。
これがKが六花にこだわる理由――。
「だったらもういいでしょう! 六花ちゃんは返してもらいます! 二度と彼女に近づかないでください!」
イトは急いで六花に駆け寄ろうとした。が、
「いいやダメだ。彼女にはわたしのそばにいてもらう」
Kの何ら躊躇のない言葉がそれを押しとどめる。
「これで確信した。彼女は私のパートナーとなる人物だ。ビジネスか、ライフかはこの際おいておくとして、必要不可欠な……。無論それに相応しい待遇は用意する。彼女にはこれから何度でも、相応のタイミングで、私を謳ってもらう。私の歌を。私の成功に相応しい謳を!」
やみくもに〈フェンリルの酔〉を味わうつもりはない。そういう無節操はしないという意思表示。しかし彼は大きな成功を為すたび、六花に要求するだろう。彼女のパーソナルグレイスを。
「六花ちゃんは、その力をイヤがっているんです!」
「一時の迷いだ。くだらん噂や外聞に怖気づいたからそうしているだけ。私のところに来れば、そうした雑音に耳を傾ける必要はなくなる。忌避感もじきに慣れる……」
「でもあなたはそれを待たなかった!」
「――!」
「六花ちゃんが一番それを恐れている今、あなたは無理矢理〈フェンリルの酔〉を使わせた! なぜ六花ちゃんがここまでこの力を恐れるかわかりますか!」
「単純な倫理、道徳的な理由だ。人気商売ということもあるだろう。悪い噂が広まれば彼女のアイドル生命は断たれる。だが、私は違う。その力を歓迎する。彼女のパーソナルグレイスの価値を誰よりも知り、必要とする人間だからだ」
「いいやあなたは見えていない! 六花ちゃんが〈フェンリルの酔〉を恐れて使わない理由。使いこなそうとすればできたかもしれないのに、しなかった理由、それは――」
イトは息を大きく吸って吐き出した。
「愛です!」
「……愛だと?」
ひどく場違いな単語を聞いたように、Kは眉をひそめた。
しかしイトの腹の底から湧き上がる言葉は止まらない。むしろとめどなく溢れてくる。
「愛するファンを傷つけてしまうという恐怖。それはアイドルなら、誰もが抱く恐怖です!」
「ファンというのは顧客に過ぎない。それを慮るのはビジネスの範囲に限ってのこと。愛などという極めてプライベートな感情を向けることは――」
「愛することも愛されることも必要なんです! アイドルには!」
「……!」
再び、Kの表情が微動する。
「ステージに立った時、わたしたちは一段高いところからファンを見ます。でも、それは決して高みから見下ろしているんじゃない。みんなから見やすい位置にいるだけ、みんなのことが見やすい位置にいるだけ……! わたしたちは同じ場所にいる。顔を見ればわかります……みんなが、ありったけの力で輝こうとしてるってことが……! そんな人たちを絶対に大切にしたいと思う、守りたいと思う……それは愛です!」
沈黙したKに、イトは一つの問いを投げた。
「あなたはあの時……モニタージャックで、大勢の人々の前でキングダムの演説をした時、その人たちと同じ場所にいましたか。一人一人の顔を、きちんと見ていましたか。彼らを、愛しましたか?」
Kの答えは整然としていた。
「私が提供すべきはPK排除という実利だ。個人的な感情を寄せる必要はない」
「だから六花ちゃんにこんな無理強いができるんです。六花ちゃんはトップスターで頂点。でも決してそれをひけらかしたり、相手は下だと一線を引いたりしなかった。みんなを愛してくれた。そんな彼女の愛がわからない人に、六花ちゃんを絶対にやれるかあっ!!」
びりびりと震えているのは空気だけではなかった。イトも自分が放った声に心の底から激震していた。
「堂々としたものだな、白詰イト……! 感覚が研ぎ澄まされた今、君の言葉が全身全霊の叫びだとわかるよ。しかし……悲しいかなあまりにも小さい。最高級のアレキサンドライトに、小粒なジルコンが吠えているようなものだ。君と私とでは違いすぎるのだ。存在の価値が」
散、と光を払うようにKが剣を抜いた。
彼がたった今例えたアレキサンドライトのように、光の当たり具合で青碧から赤へと変色する美麗な片手剣。
力尽くでの決着。それはつまり、勝ったのならお好きにどうぞという意味でもある。
どの道、討論番組には司会が足りなかったところだ。
イトもガローラを手元に顕した。
黄昏色に染まる狼の意匠。六花の横に並ぶ資格があると告げてくれている気がした。
「君が敗れれば、月折六花も踏ん切りがつくだろう。何も自由を奪おうというわけではない。アイドルにも復帰し、君との交流もこれまで通りにすればいい。私が求めているのは、あくまで〈フェンリルの酔〉だけだ」
Kが言う、寛容で甘い言葉。どこまでも六花の愛をないがしろにする言葉。大人ならこれが正しいとわかるのだろうか。
でも彼女は今、苦しんでいる。
今の彼女を救えない者に、未来の彼女を救えるのか?
「徹底的に……潰す!」
徹底破壊だ。
ケルベロスvsフェンリルの戦士