案件118:二人の物語
碧瑠璃が消えかけている。
イトは気味の悪い汗と心音が体中を這い回るのを感じた。
モンスターからの攻撃は届いていないはずだ。なのにどうして。
そういえば前回、コスチューム資料館でも、モンスターの襲撃の後に碧瑠璃は姿を消してしまった。大量のモンスターに襲われるということ自体が、彼女にとって何か大きな負担となるのかもしれない。
「イト……わたし……」
力無くしゃがみ込みながら、碧瑠璃の弱々しい瞳がこちらを見上げる。立ち上がるどころか、そうしているのが精一杯のように感じられた。
もしこのまま彼女が消えてしまえば、あるいは棺から再び現れるのかもしれないが、その時にはもうオーロラ島はどこかへ飛び去ってしまっている。
「まだ……です!」
イトは碧瑠璃の隣に屈み、背を向けた。
「乗ってください! わたしが何としても届けてみせます!」
約束の場所へ。
ここまでみんなが繋いでくれた希望。それをここで終わらせるわけには絶対にいかない。
烙奈とノアにも手伝ってもらい、碧瑠璃をなんとか背負う。
「……!」
ショックのあまり、泣きそうになった。
軽い。綿しか入っていない人形を背負ってるみたいに。
普段の彼女はこんなんじゃなかった。軽やかではあったけれど、もっと、そこになくてはならないような確かな重みを持つ少女だった。
消える。本当に消えてしまう。早く行かないと!
恐怖を振り払い、イトが歩き出そうとした直後だった。
何かが激しく地を駆ける音がした。
「烙奈、あれを見て」
ノアが烙奈に呼びかけ、一方を指さしている。イトもそちらを見た。
「な……!?」
唖然とする。そこには猛然と回転しながらこちらに突き進んでくる監視者の姿があった。
星型の頂点それぞれに剣めいた突起を生やしている。援軍は間に合わないと踏み、ついに直接攻撃に出たのだ。
「ノアちゃん!」
「……! ダメ、敵を呼ばれた!」
ノアは逆側から現れた小型モンスターたちを足止めにかかる。
「くっ……!」
身をかわしたイトと碧瑠璃の眼前を、猛スピードの監視者が通過する。
あれに巻き込まれれば、くし刺しにされたまま何度も地面に叩きつけられることになる。とても正視できるような光景ではない。
「くそっ! あと少しのところで……!」
烙奈が二丁拳銃を乱射した。
しかし彼女の腕をもってしても、超速で動き回る監視者の唯一攻撃が通りそうな目玉にはとても当たりそうになかった。かといって、一か八かダッシュしても後ろから轢かれるのは目に見えている。
「ここまで来て……! こんなところで負けてたまるかっ……!」
烙奈が必死の形相で射撃する。しかし、監視者の硬い表皮がそれらをすべて弾いてしまう。ダメだっ……!
「うわああああああッ!」
烙奈が怒号を放って監視者に飛びついた。
「烙奈ちゃん!?」
想像の埒外だったのは、自分だけでなく監視者もそうだったらしい。
バランスを崩して横転し、土埃を上げながら烙奈と一緒に地面を転げ回る。
「行け! イト、碧瑠璃! 行ってくれ……!」
土と泥にまみれた烙奈が、全身を震わせて叫んだ。
「未来を見せてくれ! 二人の……ハッピーエンドを!」
あの冷静沈着な烙奈がここまで感情を露わにするなんて。今の無謀な体当たりだってそうだ。彼女も特別な思いでこの戦いに参加しているのだ。
「はい!」
イトは走った。碧瑠璃の体が軽いのは、この瞬間においては幸運だったのかもしれない。
グルルル……。
「!!」
約束の場所。数段しかない広い石段の下。
そこで、最後の門番がイトたちの前に立ちはだかった。
小型獣のモンスター数体。これまで見てきた相手の中で一番弱そうに見える。
多分、この島に本来出現する魔物だった。何となく目印になるこの場所にたむろっていたのだろう。
しかし、この程度の相手でも今のイトには脅威だった。
碧瑠璃を背負って両手は使えない。支える手をどかしてしまえば、彼女はそのままずり落ちてしまうだろう。それほどに体力を失っている。
その窮乏を見切ったかのように、四つ足の魔獣が早くも飛びかかってくる。
どうする。どうすれば……!
「……ッッうおおおおおおお!」
イトは眼前にガローラを出現させ、その柄に噛みついた。
そして口にくわえたガローラで、小型魔獣を一閃する。
ギャッ!!
悲鳴を上げ、ボールのように跳ね飛んでいくモンスター。
「フシューッ!!」
イトは殺気立った目で残りのモンスターたちをにらみつけた。
邪魔をすれば斬る……! もしこのまま立ち塞がるなら、未来永劫おまえたちを追い続けて一匹残らず絶滅させる……!
「ピエッ……!?」
「ヒィン……」
その思いが通じたのか、モンスターたちは怯えたように鳴くと、一目散に逃げていった。
「や、やった……」
イトはガローラを消して安堵の息を吐くと、すぐに遺跡の石段を駆け上がった。
「着いた……。着いたよ、碧瑠璃ちゃん……」
二人の約束の場所。宇宙の始まりのように渦を巻く不思議な場所。
とうとう、着いた。
たくさんの仲間に支えられて。
そのこと自体が彼女に力を取り戻させたのかもしれない。イトの背中には、いくぶん元に戻った碧瑠璃の体重があった。
慎重に彼女を降ろし、今度は横から抱いて支える。
「オーロラ……」
渦の前に佇む人影に、碧瑠璃は手を伸ばした。
この距離で見ても人影には何の色も凹凸もなく、ただただ人型に区切られた輪郭線でしかなかった。
それが、碧瑠璃が触れた途端。
魔法のように色彩が広がっていった。
「あ――」
息を呑むほど、綺麗なひとだった。
先端にリボンをつけた、ライラック色の長い髪。凛々しくも柔らかく整った顔立ち。長い手足に、ささやかに装飾された燕尾服。
碧瑠璃の隣にいるのなら、きっとこういう人だろうという理想を、自然と追い越していく人だった。
「オーロラ……!」
感極まって呼びかけた彼女に、オーロラは微笑んだ。
「碧瑠璃。来てしまったんですね」
少しだけ低く、かすれた声がそう返す。哀しく、そして同時に嬉しそうな笑みだった。
「ごめんね。でも、どうしてもオーロラと前に進みたかった」
碧瑠璃が一歩近づく。
「いいんです。ありがとう……。僕との未来を選んでくれて」
オーロラも一歩近づく。
二人を隔てていたどうしようもなく長い距離が、それだけでゼロになった。
抱き合う二人の目から、想いと同じ重さの涙がぽろぽろ落ちる。
それが歓喜なのか、悲哀なのか、イトにはもうわからなかった。
ただ……これで終わりなんだという、漠然とした哀しみがあった。
ここから、始まらない。
二人はようやく出会えたのに、物語はここで終わり。
最初から、終わるために。終わらせるために、二人は約束をしたのだ。……それがわかってしまった。
これが、すべてのグレイブアイドルの始まり。
誰よりも愛されて、誰よりも愛して。そんな碧瑠璃が、わたしたちの始まり。
その純粋な姿が美しかった。誇らしかった。悲しかった。ここまで一緒に来られてよかった。ここから先に彼女がいないことがどうしようもなく寂しかった。
「イト」
碧瑠璃の声が耳に響いて、イトは慌てて目元を拭った。
いつの間にか視界は涙で滲んで、まともに前も見えていなかったのだと気づく。
「碧瑠璃ちゃん……」
「ありがとう」
彼女は静かに微笑んだ。
支え合うように立つオーロラも、優しい微笑を浮かべてうなずいてくる。
「千夜子も、烙奈も、スパチャも、六花も、葵も、セツナも、キリンも、マツノさんも、アビスも、ノアも、モズクも、ユラも、みんなみんな、ありがとう。大好き……」
すべてに愛された少女から。
すべてを愛する感謝の言葉。
「大好きだから……ここでさよならするね――」
「いいえ……!」
その最後の言葉を、イトは大声で遮っていた。
「わたしたちはまた会えます!」
碧瑠璃が少し目を見開く。
「あなたが残してくれたライズの中で、また、必ず……何度でも……!」
彼女は失われていない。
彼女は忘れ去られてはいない。
彼女を受け継ぐすべてのグレイブアイドルたちの中に、彼女は居る。
「だからまた会いましょう。会って、また一緒にスペシャルライズしましょう!」
碧瑠璃は唇を震わせた。オーロラに見せた涙とは違う色の雫が、いくつもこぼれた。
寂しい。お別れしたくない。そんな気持ちが伝わってくる。同じ気持ち。みんな同じ気持ちだ。だけど。
「……うん……!」
最後に彼女は笑ってくれた。この世界で一番可愛らしい顔で。
「その時は、百合営業を教えてねっ……」
共に戦ったすべての人々のその先で、碧瑠璃とオーロラは寄り添ったまま、渦の中へと手を差し込んだ。
「ここに僕たちの永遠を刻む。マスターリード――」
「わたしはオーロラと一緒に行きます。何があろうとずっと一緒に……」
瞬間、光が溢れ、世界が震えた。
何もかもを白く塗り潰す強い光。
けれど不思議と恐怖はなかった。痛みも熱もなかった。別れの寂しささえ、消し飛ばされた。碧瑠璃が魅せてくれたライズのように。
気づけば――イトは荒野に立っていた。
〈オーロラ島〉じゃない。地上だ。
タイムオーバー。浮島が地区の境界線を越えたことで、プレイヤーが弾き出されたのだ。
誰かが、泣いていた。
イトは慌てて振り返る。
烙奈だった。
彼女は、大声で、天に向かって吠えるように、号泣していた。
一度も見たことがない姿。けれどもイトは迷わず彼女に駆け寄って、力いっぱい抱きしめていた。
そうしなければ、彼女が自分の声で砕けてしまいそうだったから。
「大丈夫ですよ」
泣きじゃくる烙奈に、イトは優しく呼びかける。
「わたしたちが見られる物語が終わっただけです。それだけのことですよ……」
きっと二人はどこかで。
二人の想いは、ずっと。
不意に、わあっと周囲から歓声が上がった。
イトははっとして空を見上げる。
息を呑む。
誰もが見惚れた。
島の入り口でライズを続けていた六花たちが。
レアモンスターの軍勢と戦っていたシンカーたちが。
ドーム状に盾を構えて耐え忍んでいた白い鎧たちが。
決死の中でも一度も心を揺らがせなかった信徒たちが。
大剣を弾かれても拳で殴りかかろうとした戦士たちが。
背中合わせに座り込んでいたユラとモズクが。
千夜子をかばうように立ちはだかっていたアビスが。
一刀を腰に収め安堵の息を吐いたノアが。
ここで戦ったすべての者たちが。
まるで、この世界の空も海も包み込んでくれそうな、大きな大きなオーロラを。
ただ見上げた。
遠く、拍手と歓声が聞こえる。
この物語が無事に終わったことを、皆が自然と理解したのだ。
人々からの祝福は誰に向けられたものでもなく、けれどもイトはそれを受け取るべき相手をちゃんと知っている。
「碧瑠璃ちゃん、オーロラさん、お幸せに……!」
知らずまた流れていた涙をそのままに、光のたゆたう空に向かって手を伸ばした。