案件110:『碧瑠璃』
タウン7、クラン〈ペン&ソード〉のホーム最上階。
すでに防諜用シャッターを落として指令室モードにあったケンザキは、複数人で入ってきたイトたちを見て露骨な動揺を示した。
「メールがあったので皆で来ちゃいました社長。どうかしましたか?」
「ああ、いや……。例の少女は一緒ではないんだね」
「ええ、それが……。突然いなくなってしまいまして」
その解答に怪訝そうな、そしてどこかほっとしたような顔を見せるケンザキ。彼は身の置き場を定めるように椅子に座り直すと、訪れたイト、千夜子、烙奈、アビスの四人を見回し、いつになく硬い声で切り出した。
「メールで伝えた通り、彼女についてだいたいのことがわかったよ」
「本当ですか!?」
「すごい!」
「さすがだな……」
イトたちは一気に色めき立つ。こっちがセントラルまで足を運んでも影も形もなかった相手を、この短時間で調べてしまうとは。さすがはマスコミクランの情報網。
「君たちから送られてきたSSを見た瞬間、何かとてつもなくやばいものを感じてね。秘蔵のホットラインを繋いだ。情報源は第三地区だ」
「ホットライン……? ってまさか、リアル通話ですか!?」
他地区とのやり取りはゲーム内からはできない。それを直通させられるとしたらリアル側。いくら情報を商材にしているとは言え、ここまで本気でコネクションを形成しているとは思わなかった。
そんなふうにイトたちが目を剥くのを、ケンザキは少し溜飲が下がった様子で見つめ、
「海と空の色をした髪を持ち、ステラーパピヨンをも着こなすアイドル。こんなプレイヤーはスカグフ広しと言えども一人しかいなかった」
イトたちが生唾ごと沈黙を飲み込む中、続く言葉が重く響く。
「……彼女の名前は、碧瑠璃。君たちグレイブアイドルの始祖だ」
『碧瑠璃……!』
それがステラの本当の名前。
そしてグレイブアイドルの……始祖……!?
「いや……神祖と言った方がいいかもしれない。アイドル職を今の形に押し上げたのは、彼女なのだから」
『!!』
「順を追って話す」
ケンザキは緊張した様子で、机の上で組んでいた指を編み直した。
「まだアイドル職が実装されたての頃、彼女たちは単なる広域特殊バッファーでしかなかった。特定のファンのようなものはついていなかったということだ。もちろん当時だってリアル側にアイドルは山ほどいたし、推し活も盛んだった。しかし、スカグフにはすでにアイドルプレイヤーと呼べるような人気シンカーが大勢いて、人々の推し枠はもう埋まっていたんだよ。それをもぎ取った――いや、独り占めしたと言ってもいい。まだ試験的だったダンスアレンジや、自前のヴォーカルを一人で完成させて」
イトたちは息を呑んだ。
今でこそ当たり前にあるバフライズのアレンジ。それをステラ、いや碧瑠璃が最初に拓いた。実装して間もないアイドル職がまだ同じダンスと曲を流していた頃に、一人だけ際立った動きを披露したのだ。
それは小さな虫しかいなかった世界に、何世代も進化した恐竜が乗り込んできたようなものだっただろう。
「彼女の素性は、まあ不明でね。ふらっとこのゲームに参加した一般人らしくて、リアフレや彼女の現実での立場を示すものは特になかったそうだ。が、人気は凄まじかった。今の月折六花君がグレイブ前を独占しているようなものと考えてくれればいい。バフの範囲なんか関係なしに人々は彼女に熱狂し、心酔した」
「納得できるな、彼女なら……」
烙奈のつぶやきに、イトたちも自然と首を縦に振っていた。自然と人を惹きつける人柄に加え、最新技術を持つ現代のトップアイドル二人とバチバチに勝負できる技量。人気が出ないわけがない。
「彼女が身に着けているステラーパピヨンは、ある熱狂的なファンからの贈り物だ。そのファンはコレクションとしてではなく、本気で彼女にそれを着てほしくて贈ったらしい。どうやら碧瑠璃は天然なところがあったらしく、何のためらいもなくそれをコスとして自分に帰属させたそうだよ。そして彼女は、完全無欠のアイドルとなった」
コスチューム博物館のマツノが言っていた。ステラーパピヨンは碧瑠璃の輝きを求めていたと。碧瑠璃もまたステラーパピヨンのきらめきを求めていたのかもしれない。すでに完璧だった二つが一つになった。もう誰にも止められない……。
「ゲーム初期特有の原始的な熱というのもあっただろうけどね。碧瑠璃はもはや、その地区の女神と言ってもいいほどだったそうだ。ただ、この時期はまだアイドル職とリアルの芸能プロが結びついていなかったから、ゲーム外への露出はまるでなかった」
「もしリアルデビューしてたら、えらいことになってましたね……」
イトのつぶやきにケンザキは少し複雑そうな笑みを返す。
「どうだろうね。事務所と繋がっていないということは、アバターの制限もない。実際のルックスがどうだったかは不明だ。碧瑠璃の人気は、あの可憐な見た目も手伝ってのことだからね」
「いやあれは……素顔に近かったと思いますよ。どこから見てもパーフェクトカワイイでしたから……」
アバターは盛れば盛るほど調整が難しくなる。奇跡のバランスであるからこそ、わずかな粗でも壮絶に目立つからだ。
「彼女のそばにいた君が言うならそうだろうな。ただ……訂正しよう。えらいことにはなった。別の意味でね」
突然冷たく落ちたトーンに、イトは不穏なものを感じ取った。ケンザキは少し言葉を溜めた後、その事実を口にした。
「碧瑠璃は、ある日突然、ゲームから姿を消した」
『!!』
「本当に突然だ。すべてのフレンド欄から彼女の名前が消え、誰もその姿を見なくなった。前日、会う約束をしていたプレイヤーに対しても何の連絡もなく」
イトの脳裏に、ステラーパピヨンに押し負けて引退してしまったという女性プレイヤーが浮かんだ。光が強ければ影も濃くなるものだ。彼女にも何か、追い詰められるような悪意が集まっていたのだろうか。
「自ら選んだ引退とは思えなかった。彼女は間違いなくスカグフの世界を愛していたし、愛されていた。様々な憶測が飛び交い、そうして出てきたのが……BAN説だ」
BAN。つまり何らかの規約違反をしてゲームから追放された。
「しかもかなり深刻なタイプのBAN。碧瑠璃は以前、もし何かの理由でこのアカウントが使えなくなっても、別アカを作って帰って来るというようなことを言っていたらしい。別にBANを予感していたとかそういうわけではなく、それほどこのゲームが好きだという文脈でだった。だからこそ、時間がたっても帰ってこない碧瑠璃にこんな噂が立ったんだ。彼女はリアルにもかかわるほどの重大な規約違反をし、永久BANを食らったのではないか、と」
「……!!」
イトも一応事務所での研修を受けていて、BANに種類があることくらいは知っていた。その中でも最大級のものが永久BAN。いかなる形であっても復帰を許さない永久追放だ。
ただ、これはかなりハードルが高い。というのも、ゲーム内は常にAIに見張られていて、本当にやってはいけないことはそもそも実行できないからだ。
ゲーム内での行為で永久BANはあり得ない。だから原因があるとしたら、それはリアル側で。それも何か犯罪級の悪事に手を染めるくらいしか……。
「まさかそんな……! ステラちゃんはそんなことする子じゃありませんよ」
イトはたまらず過去の出来事に擁護の言葉を投げかけていた。ステラは記憶を失っていたが、言動のどこにも悪意はなかった。天真爛漫なまま、人々に愛される要素を持っていた。それは根が善良である何よりの証拠のはずだ。
「それとは別にもう一つ……君たちには伝えづらい説がある」
ケンザキはこれまで以上に慎重な切り出し方をして、イトたちの顔を強張らせた。
「こちらは仮に一時的なBANだったとして、碧瑠璃が戻ってこない理由という話だ。それは……彼女がもうこの世にいないからではないか……というものだった」
『!!』
ぞぞっと這うものが、イトの背中を通り抜けた。
「碧瑠璃は正に絶頂期だった。人気、アバター、プレイスキル……すべてを手にしていたと言っても過言ではない。もし別のアカウントで戻ってきたとしても、育成も資産形成も一からやり直し。以前と同じ成功ができるかどうかはわからない。それを苦にして……」
「社長! それ以上言うとご家族にチクりますよ!」
「私が言い出したんじゃないよ!? そういう説が真面目にあったんだよ! だってギャラクシアンスーパーメガアイドルが一夜にして消えたんだよ!? 邪推怪文ハエの如く飛び交ったんだって! 想像はつくだろう!?」
ケンザキが慌てて釈明するのを見ながら、イトの脳裏には碧瑠璃と出会った時のことが鮮明に思い浮かんでいた。
棺の中で冷たく眠っていた彼女。時が止まっているとしか思えない姿。そして空中庭園で、彼女はすうっと消えていった。これは……これではまるで、本当にこのゲームに憑りついた幽霊みたいじゃないか。
「無論ね、多くのファンがそんな与太話を信じずに彼女のカムバックを待ったさ」
直前の話題を打ち払うように手を振り、ケンザキが続ける。
「しかし彼女は帰ってこなかった。当時あった彼女にまつわる動画や資料には、そのことを冷やかすたくさんの心ないコメントが寄せられた。人は人気が出れば、無条件でそれを妬み憎むものだ。それに心を痛めたファンが、手持ちのデータや資料ごとそれらを削除してしまう現象が相次いだ。誰も自分の配信物を彼女の悪口の温床にはしたくなかったんだ。そうしてゆるやかに碧瑠璃の伝説は死滅していき……そしてシーズン4の戦火が来た」
「静かに帰りを待っていた残りのファンたちも、そこで去ってしまった、か」
烙奈の繋げた言葉に、ケンザキの首が縦に振られた。
何ともいたたまれない話だった。
どれほどの碧瑠璃バッシングが吹き荒れたのだろう。ファンたちが大切な思い出を自ら消してしまうなんて。彼女への愛情の反動だったのだろうか。初めてスカグフで生まれた、本物のアイドルへの……。
「この情報を提供してくれたのは碧瑠璃がいた第三地区の最古参だ。私は彼に、費用はこっちで出すから碧瑠璃をこっそり確認しに来てくれないかと頼んだ。ひたすら復帰を待ち続けた往年のファンだ。喜んで飛びつくと思ったが……涙ながらにこう返されたよ。“彼女が戻って来てくれただけで嬉しい。その事実だけで他にもう何もいらない”とね」
復帰にこれだけ時間がかかったということは、それだけの事情があったのだろう。碧瑠璃は新しいスタートを切ったのかもしれない。それなら、過去の栄光の残滓である自分は近づくべきではない。……ということなのだろう、とケンザキは古い信奉者の胸中を代弁した。
これほど純粋に人を魅了したのだ。碧瑠璃は。
永久BANも死亡説も今となっては間違いだとわかる。彼女はこの世界にいる。決して幽霊なんかじゃない。そうだ、あんなライズでファンを吹っ飛ばす幽霊がいてたまるか。
しかしどうして古巣ではなく縁もゆかりもないここ十七地区なのだろう。
すべては、碧瑠璃が返り咲くために誰かが仕組んだシナリオなのか?
一つわかって、また一つわからなくなる……。
「それで、碧瑠璃君がいなくなったと聞いたが、何かあったのかい?」
一通り情報を伝え終えたのか、ケンザキが聞いてくる。
「いえ、それが……。皆でモンスターから逃げている時に、スーッと消えてしまったって、今川キリンちゃんが」
「…………。イト君、実はこの手の怪談話は、古のオンゲ時代から結構あって……」
「ステラちゃんは絶対オバケとかじゃないですから!」
あれはログアウトだった。焦ったキリンが見間違えただけなのだ。オバケなんかないさ。
「わかったよ。何にせよ、碧瑠璃についてのとめどないテキストはここにまとめてある。受け取ってくれたまえ」
ケンザキが小さなブロック状のデータを差し出してくるのを、イトは神妙に受け取った。
「それで当の本人は何か言っていたかい? 彼女の目的に類するようなことを」
「いえ、特には……。あっ、でもオーロラって単語を」
「オーロラ?」
「“オーロラ、どこ?”って言って泣いたことがあったんです。でも本人もそれが何なのかはわかっていないみたいで」
「ふむ。それは彼の話には出てこなかったな。追加で聞いておくか。もし碧瑠璃が本格的にカムバックするとなれば、こちらとしても是非噛んでおきたい話題だからね」
と強かなところを垣間見せつつ、けれどもケンザキの本意はそこではないのだろうとイトは何となく察した。何だかんだ言ってこの人はこちらを心配してくれる。同じゲームを愛する者同士、“一緒に長く遊びたい”きっとこれに尽きる。
それにしても……。
これはとてつもなく大きな収穫だ。
ステラの本当の名前は碧瑠璃。グレイブアイドルの神祖。
これを彼女に伝えれば、何かがきっと前に進む。
けれども、そうなった時。
自分の過去を取り戻した時。
彼女は次に、どこへ行こうとするのだろう。
※
「アビス」
イトと千夜子が引き続き細かい話をケンザキから聞き出しているのを尻目に、烙奈はアビスを呼び寄せ、数歩後ずさった。
小声で囁く。
「碧瑠璃は、永久BANだ」
目を剥いた彼女に、うなずく。
「ステラと出会った時から、何か奇妙な感覚があると思っていた。初めはそれが何なのかわからなかったが、ケンザキの話を聞いて確信できた。……忌避感だ」
「忌避感……。避けてたってこと?」
「そのつもりはなかった。むしろ個人的な感情は好だ、他の大勢と同じようにな……。しかしわたしは、マスターリードから切り離された下位組織だ。マスターリードほど厳格な正否ラインを持っているわけではないが、違反に対しては本能的な拒否感が働く」
初めは、ステラとのあまりにも奇妙な出会いに、自分たちと同類ではないかと思った。不可思議な感覚もそこから来たのではないかと。
アビスもそう考えたらしく、コスチューム資料館ではそういう内緒話を二人でしていた。が、その時は結論は出なかった。自分たちには、人間とNPCを一目で見分けるような能力はない。
ちなみに、イトがさんざん悩んでいたプレイヤー用のステータス欄だが、これは大したハードルではなかった。自分たちだってそうだし、もっと身もフタもないことを言えば、マスターリードが「今回はそういうふうに作りました」と言えば何の変哲もない街のNPCだってそういう表示にできてしまう。何の証拠にもならないのだ。
それより烙奈を悩ませたのは、ステラが持つ奇妙な属性――過去だった。
彼女はあまりにも過去を感じさせすぎる。これは自分にもノアにもアビスにもない属性だった。それでいてプレイヤーが紡ぐ歴史にも残っていない謎の人物。この悩ましさは、純粋なプレイヤーであるイトたちよりもより深いものだった。言ってしまえば、作った覚えのないキャラクターが存在し、存分に活躍していた、そんな気分。
「マスターリードは裁定者であり、ルールそのものだ。自身がルールから外れることはできないし、その機能もない。だからこそ、マスターリードが悪と感じるものはすなわち違反者となる」
そして、と烙奈は乾いた唇を湿らせた。
「マスターリードが永久追放した相手なら、そのアバターデータが戻ってくることは決してない……」
永久追放されたアカウントのデータは完全に消去される。いかなる手を使っても二度と復帰できないように。このルールは絶対。マスターリードでさえ覆せないし、しようとも思わない。
「でも、いるわ」
「ああ」
さっき消えてしまったが、なんて注釈をつける必要はなかった。一時でもいることがおかしいのだから。
未だ容認されざる者なのに。この世界に許されざる者なのに。
「マスターリードにはできない行為。マスターリードはルールが限界だからだ。これができるとしたら、それは……」
「ゴーストライター……」
アビスが吐き零した声が、烙奈の耳に冷たい風のように染み込む。
ゴーストライター。この世界に潜むもう一人のライターにして、旧シーズンに撃ち込まれたウィルス。マスターリードとは真逆の性質――プレイヤーに対する加害性を持ち、時にアバターの乗っ取りさえ目論む。
ステラは、そのゴーストライターが作り出した?
どうして。何のために?
いや、いや……。それよりもっと重大なことがある。
ステラがゴーストライター側だとしたら、彼女を監視し、モンスターを呼び寄せていた人物は一人しかいない。
もし、これからも彼女と一緒に行動するというのなら……。
「わたしたちの敵は、マスターリードということになる……」