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「それじゃあお父様、後継者を決めたら早い所出立の準備に取り掛かりましょう。いつ私を拘束しに王太子の手の者がやってくるとも知れませんから」

「そうだな。支度が整い次第出発しよう」


 昼間の明るさに溢れ、休憩時に父娘ではすっかりそこに居るのが定番の寛ぎルーム。ここ数日、真面目腐った様子で密かな亡命の準備に忙しくしていた父親が、今はミミの目の前で逸る子供のように熱心にあみだくじの横棒を書き入れている。このあみだに当たればその者が養子になりミミ達が出立次第即座に男爵家を継ぐ。だがまあこちらはこちらで何と言うギャップ……。紅茶にも焼き菓子にも手を付けるのを忘れている向かいの席の父親を見据えてティーカップを置いたミミは、少し躊躇いがちに口を開く。


「ところで、訊きたかったのですが、お父様は本当に良いのですか? この家を捨てるような真似をして」

「どうして今更そんな事を訊くのだ。ま、まさかミミ……気が変わって王太子妃になりたいと!?」

「どちゃくそ違います。だってお父様はこの男爵家をたったの一代で築き上げたではないですか。大変な努力と苦労をなさったのでしょう? それを私のためにこんなにも簡単に手放すなんて、後悔しないのかと」

「ハハハそんなものすると思うのか? この先何度問われても、私は大事な家族と一緒に居られる道を選ぶつもりだ。……遅かれ早かれ必ずいつかはどうしたって避けられない別れの時が来るのだ。せめてその時までは出来る限りの時間をミミと、そのお腹の子と共に過ごしたいと思っている」

「お父様……。そうですね、私も同じ想いです」


 ミミは安堵も感じつつ、予期せぬ事故で世を去った母アリエルを恋しくも恨めしくも思った。

 父親は普段、外ではきびきびとしているようだが家庭内では優しくて明るく、ちょっと抜けている。ミミの前では笑みを絶やさず、いやここ最近はホラーな形相で卒倒したりと少々危ういが、それは抜きにしてもミミは無条件に安心して傍に居られた。


(だけど私の前では隠しているだけで、本当はずっと寂しい思いをしてきたに違いないんだわ)


 その事に思い及ばずというよりも他の事に忙しくそこまで気にしてあげられなかったこれまでを顧みて、ミミは後悔の念が込み上げる。父親の方も決して寂しいなどという弱い言葉は口にしなかったし、他に愛する女性を見つけて再婚だって出来たはずなのにそれもしなかった。ミミが母親をとても慕っていたからだろう。

 しかも、自分のための継母ならば欲しくないとミミ自身も彼に強く明言していたのも大きいかもしれない。

 そこでもしも父親自身の幸せに繋がる女性に出会ったならば再婚してほしい、と一言添えておけば今とは違ったかもしれないと思うと、どこか彼の人生を犠牲にしたようで申し訳なくも思った。

 ミミは自身の幸せのために結婚せずのシングルマザーの道を選ぼうとしているが、子供を男爵家ですくすく育てるという未来計画は見事に瓦解した。

 王太子のせいではない、愚かな己の警戒と詰めの甘さのせいで。

 この先は、この国の貴族身分を捨て生活していくのだ。父親には確実に苦労を掛けるとわかりきっているが故に、母親の分まで自分と腹の子は彼の傍に居ようと思っている。


「ミミ、私が腹の子に大事ないように、しっかりとした食事と馬車を手配してやるから安心するのだぞ」

「はい、ありがとうお父様」


 あみだの横棒を満足のいくように書き入れ終えたのか、男爵が優しい眼差しで見つめてくる。彼には子供の実の父親はデイルという世界を巡る行商人の男だとは告げてあった。

 物凄いイケメンだったのでつい関係を持ってしまったと欲望に正直な懺悔をすれば、何とも言えない面持ちで納得していた。娘の気質をよくよくわかってくれている。

 ただ、今度は卒倒ですまないと困るので、その男が実は王太子殿下でしたーなどとは口が裂けても言えない。いつかもしもその機会が必要であれば告げるしかないが、男爵の体を気遣ってこのまま黙っている方が得策だと彼女は思っている。

 加えてデイルとは二度と会えないだろうという見解も伝えたら「おおっそうか、でかしたぞ! 日々娘夫婦のイチャコラを見せ付けられて煮え湯を飲まされる心地を味わう心配はないのだな!」と酷く嬉しそうにしていたのを覚えている。ミミを大事に大事に思ってくれているのは有難いがちょっと愛が重かった。

 そんなわけで男爵も孫の誕生を楽しみにしてくれている。

 最愛の父親が最大の味方。それだけでもうミミは何だって乗り越えられると思うのだ。


「お父様、これからは家族三人、強く生きて参りましょうね!」

「ああ、もちろんだとも。どうせなら亡命先でも何か活躍して爵位でも手に入れてしまおうか」

「え、ええ、それは頼もしいです」


 のほほんとした反面、父親はそれをさらりと実行しかねない天運の良さというか、豪快なくせに妙な器用さを持ち合わせている人間だ。勿論武人としての実力も申し分ない。多分父親の目論みは達せられるだろう。それはそれで亡命先たる隣国グラニスの人間から嫉妬され面倒が起きないか心配ではあったが。


(まあ、仮にそうなったとしても、このゼニス国に残るよりはたぶんマシでしょ)


 ミミはそう思考を片付けて、ようやくと父親に冷めてしまう前に飲むよう紅茶を促すのだった。





 十日後、ミミとサニー男爵は隣国グラニスとの国境の町ルピナスに来ていた。

 領地の引き継ぎ云々の準備を整えてゆっくりと国内を横断してきたのだ。

 王宮会議の顔ぶれでもある男爵だが、表向きは愛娘の二次選考通過を祝いたいとして小旅行を公言していた。会議に彼の顔が見えないと怪しむ者はいないだろう。


 あみだ当選者との養子縁組みや爵位継承と言った法的な手続きは屋敷出立当日までに間に合わなかったので、追々サニー男爵家の頭脳騎士チームがやってくれる手筈になっている。面倒な書類などを全て任せてきたが不安はない。男爵家の騎士は必ずしも腕っ節だけで選ばれるのではなく、優れた者は文武を問われないのだ。

 ただ、万全を期しても後々王宮から横槍が入る不安はある。

 王位と異なり貴族の爵位継承はこの国では既に法的な大系が整備されているとは言え、王家の一声は未だに大きい。

 ディランが腹いせに難癖を付けて爵位継承を認めないかもしれない。そしてそうできる。果ては最悪にも爵位も領地も剥奪や没収されるかもしれないのだ。

 しかしたとえそうなったとしても、サニー男爵が築いてきたものは順調な地代収入だけではない。あみだくじ後継者を中心とした騎士の何人かにはそれとは別に男爵家が起こした事業を任せてきたので、仮に領地自体が没収されても騎士達の生活に大きな影響はないだろう。領主が見知らぬ誰かになろうとも彼らが地域経済を上手く回していってくれるのは揺るぎない。

 そんな騎士達の一部にはこの道中、雇われ護衛のフリをして同行してもらってはいたが、それもここルピナスでお別れだ。


「お父様、今日はこれまでの旅の疲れもありますから、しっかりゆっくり休みましょう」

「うむ、そうだな。必要ならここに二日三日泊まっても支障はないだろう。十分な休息は大事だ。ミミは体調には重々注意しなければならない身なので余計にな」

「ええ、その時はそうさせてもらいます。怪しまれずに国境審査を通れるといいですね」


 国境の門で提示を求められる身分証には庶民の身分を記載してあった。

 背に腹は代えられないとして身分証を偽造したのだ。

 万一怪しまれた時を考慮して、男爵家本邸の近くの街にはこの短期間のうちに二人の偽の住居や偽の身分の親類縁者と名乗る人員を配置してある。これには配下の騎士達も協力してくれて根回しはバッチリだ。忠義に厚い彼らから揃いも揃って凄く寂しくなりますと男泣きされたのはまだ記憶に新しい。

 男爵は眼鏡や付け髭や染め粉で髪の色を変えたりと、国境警備隊の中に万一顔見知りがいた場合を考慮して顔バレしないように慎重を期している。

 二人はここまでもこの町でも、護衛まで雇っているちょっとリッチな商人親子と思われているだろう。そういう身の上は珍しくはない。これならばミミのための上等な馬車も不審には思われない。

 念には念をというわけで、馬車を降りる時はよく旅人もそうするようにフードを頭から深く被ったし、それらが功を奏したかどうかは知らないが今日まで何とか誰にも怪しまれずに済んでいる。

 この町でチェックインした宿は勿論上等ではあるが、そこはやはり目立たないようあくまでも庶民水準での良い宿だ。

 国境警備を厳しくせざるを得ないこのきな臭い時期に隣国に行くなど怖い物知らずだと思われそうだが、それこそが商人魂、商機と見れば火の中水の中利益を貪りに赴く。そんなド根性商人だと思われて無難に国境審査を突破できるといい。

 ゼニスとグラニス、ここ何年と関係が悪化している二国間だが、まだ民間人の行き来は禁じられていないのだ。


 しかしあと一月後はわからない、というのがミミ達の見解でもあった。


「本当に、何事もなく入国できるといいですね」

「うむ。無理そうなら別の国に行くという手もあるから心配はするな。その際の動きも部下達と事前に取り決めてある」

「さすがはお父様。こういったある意味軍事作戦にも通じる類いに関しては抜け目ないですね」


 宿の従業員に案内されて入った今夜の宿泊部屋で、余裕の笑みを浮かべる父親へとミミは少し疲労を滲ませた顔で微笑んだ。彼の付け髭の先が口元の動きと一緒に持ち上がったのがどこか可笑しかった。要所要所で宿には泊まってきたがそこはやはり旅路というものだ。ミミの体に少しずつ疲労が蓄積していたのは否めない。反対に、男爵の方は長旅も慣れているし体力的にも壮健な武人なので疲れは見えなかった。ミミは落ち着いたら出産のためにも自分も鍛えようとしかと決意した。


 領地を出てもう十日が経つが、ミミが妃選考を逃げ出したとはまだバレてはいないようだ。


 中央の方で通達があって大々的に捜索されていると言ったような動きも今のところないという。

 もしもここまでの道中で危うい事態になれば領地から早馬を走らせてくれる約束にもなっているので、緊急時の対策はそこそこ万全だ。


 親子二人で人心地つきながら、ミミはもう夕方に差しかかっている国境の空を窓から眺めやった。


「お父様、この町は少し空気が変じゃありませんでした?」

「ミミもそう思ったか? 私もどことなくだが、嵐の前の静けさのような感覚を覚えたのだ。まぁ、全くの勘だが」


 父親は先代の国王の時に戦場で華々しい武勲を立てた人間だ。それにより男爵位を賜った。そういう者のその手の勘は時として決して馬鹿に出来ないとミミは知っている。

 この町に入り、彼女は言い知れない張り詰めた空気と不気味さを確かに感じていて、父親も同じとなれば益々憂いのようなものが増大する。

 しかし自分達の感覚とは裏腹に、町の人々は全くそんな心配はなさそうに活気に溢れていて、ミミは自分は疲労のせいで神経がやや過敏になっているのかもしれないと、今は休息を優先しその感覚を一旦は脇に置く。


「ですが、隣国と一触即発という限界まで事態が悪化しているとも聞いていませんし、滞在ついでに数日様子を見てみましょう、お父様」

「うむ、同感だな。さてと、お前は少し眠るといい。私は念のため宿周辺を歩いてみる」

「わかりました。何があるかわかりませんし十分に気を付けて下さいね。行ってらっしゃい」

「ああ、行って来る」


 安全第一で最善の越境時期を見極める。父親を見送り窓辺からベッドへと腰を下ろしたミミはそのまま横になり、まず先に一眠りしようと瞼を閉じた。





 その夜、特に異常らしい異常は見当たらなかったと部屋に戻った父親からミミはそう言われた。二人で夕食を摂り各自寝支度を整えた。


(眠れない……)


 しかしベッドに入って目を閉じても夕方近くに少々眠ったせいか全く眠くならず、夜が更けていくにつれて何だかとても落ち着かなくなった。


(ううん、夕方眠ったからって、それだけじゃない)


 まるで軍馬がそわそわとして耳を忙しなく動かすように、彼女もどうにも何かが本能的に気になって、とうとう眠れないまま至った深夜、眼鏡は外したが染めた髪の毛と付け髭はそのままの父親がぐーすか隣のベッドで寝息を立てて熟睡している時分、ミミは旅装用の外套を羽織り一人こっそりと宿の部屋を抜け出した。

 まず目指すは国境向こうの音がよく拾えそうな場所だ。

 どうして国境向こうが無性に気になるのか、それは全くの勘ではなく、出て来る直前に部屋で密かに聴覚魔法を使って見過ごせない音を拾ったせいだ。眠れない理由を探そうと試しにそうしたら意識に引っ掛かった音があったのだ。

 半魔の能力を使わないと明確には聞こえないその音だが、実は昼間からずっと届いていて意識に働きかけていたのかもしれないと思った。


 外套のフードをすっぽり被ったその中は既にピンクの髪の色。


 深紅の瞳が仄赤くフードの奥に光っている。


 町中では音が多く雑音で頭痛をもらう難点もあるこの能力なので、一度聴覚感度を下げて雑音を拾わないようにして、この町の国境により近い丘の端へと出る。


 このルピナスの町は低い丘の上に造られているので、その端から続く平原のずっと向こうが隣国グラニスなのだ。


 この闇ではろくろく景色など夜の中に埋没してしまって見えないが、平原の途中にこの町の外壁を兼ねたゼニス王国最端の国境の壁と、国境警備隊の護る門がある。そこで日々国境審査も行われている。

 平原の途中とは言ってもそこまで町の賑わいから離れているわけではない。昼間に遠目に見たので知っているが、おそらくは視界の中に小さく見えている光点が警備兵達の居る門なのだろう。

 因みにサニー家などの貴族に仕える武人は直接その家から叙勲されていて騎士と呼ばれるが、王国軍の武人は大半が叙勲されてはいないので普通に兵士と呼ばれ明確に身分が区別される。勿論王宮騎士と呼ばれる者達もいるが各地の指揮官や責任者など、国から騎士の称号を認められた地位のある者に限られた。

 因みにミミの父親サニー男爵もかつては王宮騎士として活躍し、その後賜った領地に専念するとして王宮騎士を辞した。

 ただ、その軍事的な手腕から王国軍事に関する会議のメンバーに抜擢されており、遠征や討伐などにも王家と肩を並べて出兵していた。

 また、王宮騎士の中には半魔の血を強く持つ者、つまり魔法使いもいるが、彼らは扱いが別格で、騎士団入団と同時に騎士見習いをすっ飛ばして騎士の称号を与えられ、騎士は騎士でも王宮魔法騎士と呼ばれる。

 ディランが王宮の全ての魔法使いつまりは魔法騎士の顔を把握しているのも、やはりそれだけ重要な存在だからだ。

 国境の門と町並みとの間、建物のほとんどないいわば町外れとも言える夜更けのこんな所には、ミミ以外に誰の姿もない。何があるとも知れない夜間はなるべく外出を控えているのだと、たまたま話した宿の人間がそんな風な事を言っていた。確かに警戒しておいて損はない。


(何事も備えあれば、だものね)


 静か過ぎて我知らず呼吸も気配も潜ませたミミの周りには低めの茂みや木々がまばらに生えているだけだ。


 その時、夜風が激しくフードをはためかせてミミから取り払った。


 遮るもののない平原からの風だ。

 薄紅色の長髪がやや強い風に遊ばれ広がった。

 突然の自然の悪戯に驚いたように上を見上げた彼女は、大きく目を輝かせた。


「わ、きれい……」


 何かに急かされるようにここまで来た彼女は星天にまで気が回らなかったのだ。そうかと思えば今度は横薙ぎの風に変わる。ややもするとミミの背中、町方向からの風にも変わった。今夜は大気が定まらず風の方向もまちまちなようだ。


(ふふっ、忙しないのは私だけじゃないみたい)


 ひとしきり感動と可笑しさを覚えた彼女は、ふと自問自答する。


(私、この国を離れて本当にいいの?)


 こんな夜逃げな形は果たして正解なのだろうか。

 ゼニス国内に居られないとなれば、母親の故郷を探すのも中途半端に放り出してしまうことにもなる。

 しかしもうここまで来てしまった。


(それに……)


 ――ミミ。


 後ろめたさからか、ディランの声が耳奥に甦った。

 王家や半魔と言った互いのしがらみから素直に考えた事がなかったが、子の父親である彼はもしもミミの妊娠を知らせたら一体どんな顔をするだろうか。

 良心を突き詰めれば、知らせないのはフェアではないと答えが出るが、しかし危険は冒せない。

 それでも、もしも告げる機会があったなら、純粋に喜ぶのか、迷惑がるのか、或いは国利のために喜々として半魔の血を引く自分と我が子を王宮に縛り付けるのか。


 ディラン自らがそうであるように。


(ああそうなんだわ。ルクス王家に生まれた彼も、半魔は国に属するのが当然って歴史の流れの中の不自由者なのよね)


 その環境が当然と育ったディランに自覚は無いかもしれない。あっても苦痛には思っていないのかもしれない。それは彼の認識の仕方なのでミミに口出しするつもりはないが、少しだけ同情のようなものを抱いた。


「ってあの男は怖い奴よ怖い奴。考えない考えない。頭を切り替えて気になる事を確かめないと」


 ブンブンと横に首を振ったミミはすうと呼吸を整え耳を澄ませた。

 半魔の血を徐々に徐々に強く本覚醒させていく。

 聴覚に様々な音が入ってくる。

 人の話し声、息遣い、足音、近くも遠くも全ての音が、一切の取り零しなく。


(国境の向こうの音が欲しい)


 両目を閉じて意識をより遠くに集中させる。


(この不安が外れていればいい。ううん、どうか外れていて)


 隣国が秘密裏に不穏な動きをしている可能性をミミは危惧していた。

 沢山の馬の蹄の音、武器防具の擦れる音、話し声が聞こえてくる。

 やけにくぐもって、そして国境向こうの遥か遠くではなく、予想以上に門に近しい場所から。

 些か会話の詳細は途切れ途切れで定かではないが、戦いや奇襲、攻撃など物騒な単語が断片的に何度も何人もの声で聞こえてくる。


「そんな……うそ……。でも、何よこれ、妙に反響してて聞き取りにくいわ」


 ずっと聞いていたらきっと気持ちが悪くなってしまうだろう。普通の音とはどうしてか異なるのだ。


「国境の門の向こうにはもしかして隣国の部隊が既に集まってるのかしら」


 ここからでは壁に阻まれて何も見えないが、門で警備している者達にはその隊列が見えているのだろうか。それにしてはその手の会話も聞こえないし門の上を松明を持って兵士達が駆け回っていたりはしない。概ね穏やかな夜を過ごしているようだった。


(きっと門からは何も見えていないんだわ)


 しかし、絶対に何かがある。


 馬をこうも多くこんな夜更けに移動させる時点で意図は明白だ。


 隣国は侵攻してくるつもりなのだ。


 奇襲を掛けてくる。


「もっともっとよく聴かないと」


 確証の確証を得てからでなければ迷惑な嘘をつくのと同じになる。

 ミミはひたすら意識を集中する。


「もっともっと……もっと……っ」


 無意識に呟いて、能力を最大限に強めて沢山の要らない音も含めて聴覚に取り入れる。


 キィーンと強烈な耳鳴りがして頭の奥が酷く痛み始めた。


「――うっ、……っ、くっ」


 これがこの能力の弊害だ。

 音が多く鮮明に過ぎれば頭がキャパオーバーで猛烈に気持ちが悪くなり、平衡感覚までがおかしくなってくる。しかしミミは聴き取らなければならないという強い使命感と共に奥歯をぐっと噛みしめ踏ん張った。

 次第に強まる耳鳴りのせいで足元がふらついたが、それでも無理をしてあたかも一点集中のように聴覚を研ぎ澄ませる。

 不確かな情報では王国軍の誰も動かない。

 それでは攻められてこのルピナスの町は陥落してしまうかもしれない。

 ルピナスの人々とは今日訪れたばかりで親しいわけではないが、昼間眺めた活気が蹂躙され焼け野原になるのは見たくない。

 ミミ自身も戦火に巻き込まれるだろう。ここには父親も共に居るのだ。今だ亡命していない自分達親子が隣国に捕まってその素性が知られればただでは済まない。それくらいはわかる。サニー男爵はゼニス王国の中でも軍事に長けている人物として知られているからだ。

 拷問され、命の保証もないだろう。


(この子も、お父様も、町の人も、ひいてはこのゼニス王国の民も、誰も危険に晒したくない)


 詳しい決行の時間や工程を知りたい。

 そして国境警備の兵士達に伝えて隣国の思惑を阻止してもらわなければならない。


「ううっ――……」


 しかし、限界だった。

 ズクズクと頭の奥が痛み、脳みそが揺さぶられ削られるような不快感と共に、とうとう平衡感覚が真ん中から崩壊していく。

 意識が遠のき膝から力が抜けていくのがわかった。


(あ、駄目、こんな所で倒れたら皆が……)


 情報の伝達が遅れればその分危険度だって増す。

 踏ん張りたいのに聴覚は最早沢山の雑音を拾ってしまいどうにも制御できなくなっていた。

 無理をし過ぎたのだ。


(何か一つでも意識を集中できる際立った音があれば、きっと立て直せるのに……っ。あぁ、誰かの近付く足音が聞こえる……)


 ほんの少し前、国境の門の方向からそれは聞こえてきていた。


 誰かが強く大地を蹴る音が。


 他の沢山の足音が耳には入っていたが、その音だけは雑音の中でやけに印象的で大きくさえなってくる。

 ミミの魔法的聴覚越しでは、足音も一人一人異なり、一度聞けば個人を特定もできる。しかし聞いた事のない力強い足音だった。

 軍馬よりも尚重く普通の人間の脚力では到底体現できない重厚な足音だ。


(一蹴りで屋根まで跳べそうなこんな力強い足音、一体誰が……ううん何者が?)


 果たして人間なのだろうか。目を凝らしても闇の中では何も見えない。半魔の中には能力覚醒時に夜目が利くようになる者がいるが、ミミは生憎と視覚は普通の人間のそれと変化ない。

 彼女がここまで明かりも持たずに出てこられたのは、聴覚に頼って自らの周囲の地形や障害物の有無を把握できたからだ。


(半魔、かも……それか大きな獣)


 しかも一直線にこちらに向かってきている。自分の身辺に気を配るのをすっかり失念していたミミは、ようやくとその足音に不穏を感じ、だからこそ即座に茂みにでも隠れたかったが力が入らず無理だった。それでも逃げようとして、しかし足が縺れた。


(駄目っ、ここで変な転び方したら、この子に影響があるかもしれないのに……っ)


 しかし倒れると確信し、どうしようもなくて泣けてくる。

 せめて体を固くして少しでも衝撃を和らげようとした。


 ドッ、と一際近くから大きな足音が上がって意識だけではっとなる。


(いやーっ、肉食獣だったら食べられちゃうーっ!)


 ぎゅっと閉ざした瞼の奥にじわりと絶望が滲んだ刹那、とすんと何かに優しく体が当たり支えられ、その何かが後ろから温かい大きな掌のようなものでミミの両耳を塞いだ。


 ほとんど大半の音が遮断されて頭痛が治まっていく。


(ううん、これって掌のような……じゃなく、誰かの掌だわ! 一体誰の――)


「――ミミ、随分と無茶をしたな」


 刺激しないようにとの配慮からか、極力抑えられた声が降る。


(この声――)


 ミミはゆっくりと瞼を押し開いて、彼女の人生史上最も呆然とした声を出す。


「デイル……?」


 危ない所を救われた。まるで夢みたいな展開に不覚にもトクンと胸が高鳴って、しかしすぐに内心で頭を振って訂正する。デイルなる行商の男は存在しないのだ。

 実在するのは――……。

 肩越しの視界に入るのは一人の青年。暗さに目が慣れた今ではすぐ傍にいる相手の顔くらいはミミにも判別できる。


「ディラン殿下……」


 彼女を最も近くで支えてくれているのは、奇しくも最も距離を置きたい男だった。






 ミミの魔法暴走が落ち着いたと見たのか耳から手を離したディランは、くるりと正面に回るとその手で彼女の目尻を拭った。まだミミはあり得ない幻でも見たような顔でいる。


(って言うかどうして彼がここに……!? 王家の伝統儀式で王宮に不在って話だったけど、儀式はまさかこのルピナスで行われていたの!?)


 だとすれば何と言う巡り合わせの妙。


(ううあああ~最っ悪! 運悪過ぎじゃないのよーーーーッッ! しかもどう見たってこのピンポイント感は私のにおいを嗅ぎ付けてやってきたって感じよねええっ!)


 彼は国境の門辺りにいたのだろう。そこから風向きでたまたまミミのにおいを嗅ぎ取った。故に急いでここまでやってきたと見て間違いない。もっと前に知っていたのなら問答無用で宿に踏み込んできたはずだ。

 足音の疑問は残るが今はそこまで頭を回してもいられない。


(この町に来なければきっとバレなかった。逃亡先に他の国を選んでいれば何の懸念もなく亡命出来ていたに違いないのにーっ。ハハハ……涙出そ。も、出てるけどっ)


「ええと、転びそうだった所をどうもありがとうございます」


 小さく頭を下げるもミミは頬が引き攣るのを禁じ得ない。舞踏会での別れ際が不敬をした記憶しかないのでどういう顔をすればいいのか正直不明だった。申し訳なさそうな顔をすればいいのか、それとも落とせと言ったのに選考突破させられた不満を浮かべればいいのか。いや、無でいるのが大正解かもしれない。

 何しろ目の前にいるのは暴君ディラン・ルクスなのだ。下手を打てば今夜命儚くならないとも限らない。


(くぅ~っ、お父様、親不孝な娘になったらごめんなさいっ)


 内心のディラン大恐慌はともかく、ミミは気分がまだ優れないのもあって彼を突っ撥ねる元気は出ない。どの道、魔法行使中で瞳を赤くするディランはディランで、ミミを支えるように回している腕を解く様子がないので距離を開けられないだろう。


「風に乗ってお前のにおいがしたから急いで来てみれば、一体ここで何を聴いてたんだ? しかも倒れるまで能力の限界を駆使するって……」


 ミミはハッとした。ディラン云々具合い云々と時間を無駄遣いしている暇はなかったのだ。

 顔を上げて改めてディランの真正面から向かい合う。

 赤の視線が絡み合った。


「殿下っ、グラニスが今日にも明日にも攻めて来ます! 奇襲をかけるつもりだと聴いたのです!」

「何だって? ここから向こうまでは……グラニス軍の国境駐屯地まではかなりあるんだそ? 俺でも風に乗って流れてくるにおいを微かに感じ取れるくらいだし、それだって人と馬が複数いるな……くらいしかわからないのに、お前は会話の詳細まで聴けたのか」


(あ……これは信じてもらえない流れじゃない?)


 彼の言葉に頷きつつ、ミミは次に放たれるだろう否定と猜疑を覚悟した。


「ははっはっ、凄いなミミは!」

「え?」

「ギリギリまで力を使っていたのは見ててわかったが、お前の魔法能力は俺が思っていたよりも抜群に優秀なのか」


 予想に反してディランは目を輝かせている。彼から自分が称賛されているのだとは、どんなに鈍い者でも理解しただろう。

 ミミは大いに戸惑った。しかも前回のことも彼は根に持っている気配すらないのだ。

 急に照れと恐縮を感じ、彼女は慌てた早口言葉が口から出ていくのを止められなかった。


「あのっ確かに私は最大出力でしたが、察知した声や馬蹄音はそこまで遠くはなかった感じでした。ただ、奇妙なくらいに聞き取りにくい籠るような感じだったのです。まるで何か分厚い壁でもあるみたいに。もしかすると敵軍は駐屯地よりもこちらに近い場所に集結しているのではないでしょうか?」


 さすがにミミでもグラニスの駐屯地の声までは聴こうと思っても聴けないだろう。それくらいには内地にあるはずだ。

 そもそもにして、ディランが全く気付いていないのが不可解でもある。ミミ自身ですら言葉を判別できる位置にいる相手を、この彼が多数の馬や人間の距離の近さを嗅ぎ分けられないはずがない。嗅覚系統の半魔の力を使える者なら最低でもそれくらいは可能だ。

 何かが確実におかしい。


(それとも、私がおかしい……?)


 ミミは僅かに自信を減らし、表情が微かに曇る。


「ええともしかして、透明化するバリアを張っている……とか?」

「それはないな。そんな大掛かりな魔法を使っていればこっちもとっくに気付いている。とは言え、グラニスに潜ませている配下からも侵攻の兆候があるとの報せは受けているから、警戒はしていたんだ。しかしずっと国境警備隊に紛れて見張っていたものの、ここ何日と明確な動きは見受けられず不審を覚えていた所だ」


 ディランはすっと国境の方角へと鋭い視線を送った。


「ミミの証言には決して無視できないものがある。情報の裏付けにもなる。故に、何かが起きていると考えて良さそうだ」

「……! 私を信じてくれるのですか?」


 思わずぱっと顔を上げた彼女へとディランは気障っぽく微笑した。


「信じるに決まってるだろ。まっ、事態は思った以上に深刻そうだがな」


 言って、彼は渋面を作って獣のように唸った。

 王国軍の現最高指揮官でもあるディランは事の重大さを見逃したり見誤ったりしてはならないのだ。些細な情報や異変を取るに足らないと捨て置くことは後々の大きな敗北に繋がりかねない。

 反対に、ミミは嬉しさと安堵が胸に拡がるのを感じていた。この件で嘘をつくつもりなど皆無だが、妃選考では散々やらかしていた自覚のある彼女だ、この証言を信じてもらえなくても自業自得だとどこかでは考えていた。


「良かった……」


 心底からの言葉と共にホッと息をつく。そうとなれば早急に手を打たなければならないが、彼女はふと疑問が浮かんだ。ついさっきディランは国境警備隊に紛れて云々と語っていなかったろうか。


(どうしてわざわざ? それに今は確か)


「ところで殿下はこの地で王家の伝統儀式の最中ではなかったのですか?」

「伝統儀式? ……あー、あれか」


 彼は何故かミミへと胸を張った。


「王宮不在を不審がられないための方便だ」

「ええっ!?」

「まあ俺の身代わりは行かせたがな。儀式の地も伏せてはあるものの、ちょっと踏み込んで調べればここではない離れた場所だとわかるようにしてあるし、グラニスの諜報員はその情報そのおかげで今はまだ俺を警戒せずに済むと報告しただろうな。加えて、俺もまんまと一般兵士として国境警備隊に潜り込めていると言うわけだ」


 ミミはあんぐりと口を開けてしまった。そんな驚いた顔ですら可愛いと言わんばかりにディランは彼女の頬をそっと撫でた。慌てて口を閉じたミミだ。


「考えてもみろ、公に俺がここルピナスに居ると知られると無駄に相手を刺激するだけだろう? そうなっては落ち着いて敵情視察もできない」

「そ、れはそうでしょうが、身バレしなかったんですか? あなたの顔は広く知られているんじゃ……」

「興味もなかったのか全く知らなかった誰かさんもいたがなー?」

「そっそれはそれです!」

「ははっ冗談だ。もうしっかり覚えてくれてるだろうからな。……それも体の隅々まで?」

「なっ……!」


 二人きりとは言え何て破廉恥な発言をするのかとミミは真っ赤になると眉を吊り上げる。ディランはその瞬間ちょっと固まった。


「いやっ、まあなっ、さすがに警備隊の責任者は王宮騎士だから俺に気付いたよ。だからその者には黙っているよう命じたし、似ていると感じた大半もまさかの本人説はないと思ってると思うぞ。普通王太子本人が辺境の下っ端兵になっているとは誰も思わないだろ。それに性格もいつも下を向いた無口な根暗ぼっちの設定にしたから尚のことな。こうしてれば誰も話しかけてこないから好きに動ける」


 下ろした前髪をくしゃくしゃと乱して目元を覆い隠し、猫背気味になって実演してみせたディランは、最早別人にしか見えない。


(……ホンットこの男は身分を偽るのが大好きね)


 ミミは喉まで出かかった非難を呑み込んだ。状況は切迫しているのだ。余計な会話は控えた方がいい。


(だけど、いつか文句を言える余裕ができたら、目一杯ぶつけてやるんだから)


 彼女の胸中など知らないだろう彼は、姿勢を戻してすっと表情を真面目なものにする。


「ミミ、改めて、お前が聴いた事を余さず全部教えてくれ」

「わかりました」


 ミミは自身も国境警備隊の一員になったように気持ちを引き締めると、掻い摘んで話して聞かせた。


「……ただ、一つ不可解なのはやはり聴こえてきた距離です」

「距離か」

「はい。遥か遠くの駐屯地の音は拾うには拾えても明瞭に会話内容まではわかりません。判別できたのはそこよりもこちらの国境に随分と近い位置だからです。本当に彼らが別に野営地を設けている可能性はないのですか?」


 ミミが国境の壁でたまたま相手国の夜陣が見えていないだけだったならまだ良い。しかしミミが聴いていた間、自国の警備兵達の会話も当然聞こえたが、誰も一言も言及していなかったのだ。攻撃に備えようともしていなかった。もしも布陣を知っていたならあり得ない怠慢だ。

 しかし今夜この国境にはディランがいた。

 怠慢はあり得ない。

 そして彼は首を横に振ってキッパリ言った。


「向こうの国境駐屯地にいる部隊が我が国との最前線の部隊だ。よりこちらの国境に近い場所には地上部隊を動かしていないと見ている。現に昼間も見張り台からは視界に何も確認されていないし、今夜も俺の嗅覚にも怪しむべきにおいは引っ掛からなかった」

「そうですか……ならどうして近い場所から声が? くぐもっていたり反響が酷くてかなり聴き取り辛かったですし」


 本格的に不可解だ。すぐにもその辺りの調査が必要だろう。

 すると、ディランがぐっと顔を近付けてきた。


(な、なっ?)


「今何て言った? 反響が酷いだって?」

「え、えぇ、はい」


 眉間を寄せていた彼は一層厳しい面持ちになっている。暗闇の中でもギラギラと赤の瞳が輝いて星空に負けないくらいに煌めいて見える。


(くうぅっやっぱカッコイイわ……ってあああ私もこんな時に何キュンとしてるのよ)


「とっとにかく、隣国が動いているのは否定できません。ですからどうか一刻も早く相応の対策をお願いします! 後手に回れば回るだけこの町の皆が危険なのです!」


 気付けば身を乗り出して必死に訴えていた。

 ディランはやや面食らったように微かに両眉を上げたが、全く以て自信家の笑みを浮かべる。


「わかった。任せておけ。お前の疑問を解明して対策を取ると誓おう」


 しかと頷くディラン。

 ミミは心強さを感じ、同時に救われたような心地がした。

 彼なら、この何事にも怯まず目的達成のためには手段を選ばず突き進む狂犬暴君なら、この危機を脱してくれるはずだと。

 ただ癇癪を起こして残忍に臣下を葬ったり暴れたりするだけの男ではない。負傷し指揮を執れない国王の代わりに、この何年とこの若き王太子の彼こそがグラニス国を牽制してきたのだ。

 自らお忍びで現地に滞在するくらいに彼は常日頃からゼニス国の防衛も考えてくれている。

 義務感も責任感も、そして野心さえも持ち合わせる優秀な男、それがこの男ディラン・ルクスなのだ。

 ミミは自身の中で少しだけ彼への見方が変わった気がした。


「……おそらく、ミミの疑問には俺の受けた王家の英才教育が役に立つだろう」


 ミミはぱちくりと瞬いた。

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